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『正信偈』講話⑧ [正信偈]

真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。
 

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源信広開一代経  源信広く一代の教を開きて、

偏帰安養歓一切  偏に安養に帰して一切を勧む。

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平安時代の高僧、源信僧都は、大和国(奈良県)の生まれ。

七歳にして父君を失うという無常に遭われたが、

遺言は、「我が亡き後は出家し、立派な僧となってもらいたい」

というものであった。

まもなく仏縁が結ばれた。

源信の村に托鉢僧が回って来たのである。

 

●十三歳で出家

 

その僧が川辺で食事をとり、川水で弁当箱を洗い始めたとき、

近くで遊んでいた子供が来て、

「お坊さん、そんな汚い水で洗っても、きれいにならないよ」

と、忠告した。

子供が生意気な、と思ったが、怒るのも大人げないと思った僧、

「坊や、仏教では浄穢不二(じょうえふに)といい、

きれい、きたないなどと言うのは、迷いじゃ」

と諭そうとした。ところが、

「浄穢不二なら、なぜ弁当箱洗うの」

との即妙な切り返しに、僧は、相手が並の子供でないと知った。

そこで母親を訪ね、子供の出家を懇請した。

かくして源信は、比叡山に登り、天台僧良源(慈慧ともいう)に

師事して十三歳で出家、源信の名を与えられたのである。

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●母の撤骨の慈愛

 

才智抜群の源信は、日夜の修行により、十五歳にして、

村上天皇に説法を招請された。

少しも臆せず、『阿弥陀経』の意訳『称讃浄土教』を

講じ終わられたとき、天皇の感嘆のあまり、「僧都」の位を贈り、

七重の御衣等の宝物を与えるほどであった。

源信の成功に比叡山も沸きに沸き、いつしか源信自身も

有頂天になっていた。

一部始終を手紙に認(したた)め、天皇よりの褒美とともに

郷里の母君に送ったところ、返信は衝撃的であった。

母君は悲しみを歌に託している。

   後の世を

  渡す橋とぞ思いしに

     世渡る僧と

  なるぞ悲しき

「そなたには、みなさんを浄土へ橋渡しするまことの僧に

なってほしいと願っていたのに、名声や地位を喜びとする

世渡る僧になってしまったことが、限りなく悲しい」

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源信は、撤骨の慈愛ともいうべき、母君の戒めに翻然と感じ、

以後、ひたすら後生の一大事の解決に取り組まれ、

一切経を読破されること五回に及んだと言われる。

ついに四十歳を過ぎられたこと、阿弥陀仏の本願に巡り遇って

救われ、ただちに郷里にもどり、臨終の母君にも真実を伝えられた。

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●浄土仏教の夜明け

 

やがて『往生要集』六巻を著され、ここに、日本浄土仏教の

夜明けが到来したのである。

 

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極重悪人唯称仏  極重の悪人は唯仏を称すべし

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『正信偈』のこの一行は親鸞聖人が、私たちが阿弥陀仏に

救われるのはどのような時かを教えられたものである。

 

●法鏡に映る自己

 

自己が極重悪人だと本心から知らされたときが

阿弥陀仏の救いにあずかるときである。

仏教はすべての人間は極重悪人だと教える。

仏教を知らない者はみな自分は善人だと自惚れている。

しかし、真実の仏教という鏡の前に立つならば、

鏡に近づけば近づくほど、自己の醜い姿が分かるように、

自己の罪悪がハッキリと知らされる。

自己の罪悪が知らされれば知らされるほど

求道は真剣になってくる。

さらに求めてゆくと、善導大師が三定死といわれたギリギリの

境地に立たされる。

 

●地獄一定の極重悪人

 

最後に、

「娑婆中の人が助かっても我が身一人は絶対助からん、

自分の本心は金輪際仏法を聞かないものであった」

と知らされる。

それが、本当に自己の姿が極重の悪人だと知らされた時である。

親鸞聖人はその体験を、

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし

と、告白された。

そのとき、地獄に堕つる。

地獄の釜の底で、

「そのまま助けるぞ」

という阿弥陀仏のジカの呼び声が本心に届き、

往生一定の大安心・大満足の身に救い摂られるのである。

信心決定するのである。

その身になった人はただ念仏を称えよ、と教えられたのが、

極重の悪人は唯仏(ただぶつ)を称すべし」である。

その念仏は、信心決定した者がご恩報謝の心で称える

他力の念仏である。

仏教で極重悪人とは、自己の本心は金輪際仏法を

聞かないものであった、と知らされた人であり、

善人とは、自己が極重悪人であることを知らず、

真剣に求めれば必ず助かると自惚れている人のことである。

 

●口先だけの極重悪人

 

ところが真宗の道俗の中には、この極重悪人の真意を知らず、

この一行を根拠として、

「自分のような悪人でも唯念仏さえ称えれば助かる」

と、主張する者がいる。

これは大変な誤りである。

彼らの誤りの原因は何か。

ある家に泥棒が入った。

その泥棒を柔道何段というその家の主人が

たちまち捕らえて、頭をボカボカッとなぐった。

すると開きなおった泥棒、盗んだ品物を全部かえして、

「確かに盗んだのは悪かった。

しかし、こうやってすべて盗んだ物を返したから、

さっきなぐられた分はこちらから返させてもらうぞ」

と言ったという。

悪かった、と言っても口先だけで、

この泥棒には心からの懺悔はない。

「自分のような悪人でも念仏さえ称えれば助かる」

と言っている真宗の道俗は、この泥棒のように、

口先だけで極重悪人と言っているので、

心の底は善人だと自惚れているのだ。

ある嫁が、

「お母さんかと思ったらお母さんだったの」

と奇妙なことを言った。

姑が、

「留守番たのむよ」

と言って外出したので、さっそく鬼のいぬ間の洗濯、

と押し入れから布団を取り出して昼寝しようとした。

すると、玄関で戸の音がした。

「しまった、お母さんが戻ってきた」

と思った嫁が、

「見つかったら大変」

と思ってあわてて布団を押し入れにしまった。

ところが、押し入れに顔を突っ込んで尻だけ出している所へ、

「花子、何しているの」

と声がした。万事休す!

振り返ってみると、里の実の母が訪ねてきたのだった。

「なんだ、お母さんかと思ったらお母さんだったの」

と言った。

義理のお母さんかと思ったら、本当のお母さんだったのである。

信前の者がいう「極重悪人」と信後の人の「極重悪人」とは

言葉は同じでも、その心に天地の差があるのである。

 

●真実の仏法に近づけ

 

本心から極重の悪人だと知らされた者でなければ、

いくら念仏を称えても助からないのである。

真実の自己の姿が分かるまで真剣に仏法を聴聞しなければならない。

 

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還来生死輪転家 生死輪転の家に還来することは、

決以疑情為所止 決するに疑情を以て所止と為す

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これは『正信偈』の終わりの一節である。

 

●生死とは苦悩

 

まず、「生死」とは、仏教では苦しみ悩みのことをいう。

死は、人間にとって最大の悲劇であり、

苦悩の最たるものだからである。

輪転」は、輪廻とも仏教でいい、

車の輪がクルクルと果てしなくまわるようにキリがない、

際限のないことをいう。

」というのは、私たちが朝出て必ず帰ってくるところで、

橋の下の乞食といえども橋を家としているから、

人間にとって離れ切ることのできないものが家である。

還来することは」とは、必ず還ってくる、の意である。

 

●人生は苦海

 

釈尊は、

「人生は苦なり」

と叫ばれ、あの徳川家康も、

「人に一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し」

と述懐し、『放浪記』を書いた林芙美子さんも、

「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」

とうたい、人生は苦海であると人間の実相を教えている。

生死輪転の家に還来する」とは、

ちょうど私たち人間が家から離れ切ることができないように、

苦しみ悩みから解放されず、果てしなく苦悩を

受け続けているのはなぜなのかということである。

科学や芸術に力を注ぐのも、全人類が苦悩と闘い、

本当の満足を得ようとしている姿である。

科学は異常な発達を遂げたが、自殺者は年々増加し、

苦悩の根源は依然として明らかにされてはいない。

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●苦悩の根源

 

ところが、親鸞聖人はこの『正信偈』の一節で

ズバリ全人類の苦悩の根源を明らかにしておられるのである。

「決するに」とは、2つも3つもない、

これひとつとの意味である。

所止を為す」とは、止まっているのはということであるから、

苦悩から離れ切れず、本当の幸福が得られないのは

疑情ひとつが邪魔をしているからなのだと

教えられておられるのである。

それでは親鸞聖人が全人類の苦悩の根源だと教えられた

疑情とは何か。

疑情とは阿弥陀如来の本願を疑う心である。

阿弥陀如来の本願、お約束は、

「すべての人々を必ず絶対の幸福に助ける」

という誓いだが絶対の幸福とは今死ぬといっても

変わらない幸福をいう。

全人類が、このお約束を聞くと

必ず疑いの心がおきてくるのである。

なぜなら、我々は、絶対の幸福にいまだかつて、

なったこともないし、死が来ても壊れない幸福など、

とても信じられないからである。

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●一念で晴れる疑情

 

だからこの誓いを聞くと、

「本当に助かるのだろうか」

「ひょっとしたら助からんのではなかろうか」

「私だけ除かれているのではなかろうか」

「ああは仰有れど」

「どうもスッキリしない」

という心となってあらわれてくる。

これが疑情である。

この疑いの心は、阿弥陀如来に救われると

きれいになくなるものであり、

ツユチリ程の疑いもなくなってしまうのである。

苦悩の根源である弥陀の本願を疑う心が、

あっという一念で晴れわたった時に絶対の幸福になれるのである。

その喜びを親鸞聖人は、

弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば

ひとえに親鸞一人がためなり

とか、

心は浄土に遊ぶなり

と告白しておられるのである。

私たちは疑い晴れるまで聞かなければならないのである。


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速入寂静無為楽  「速に寂静無為の楽に入ることは、
必以信心為能入  必ず信心を以て能入と為す」といえり。
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寂静無為の楽(みやこ)」とは阿弥陀仏の浄土、
速入」とは、速かに入ることである。
必ず信心を以て能入と為す」とは、
必ず信心が必要であり、その信心を阿弥陀仏から
獲得した人だけが能(よ)く入ることができるのだ、
との意味である。
ゆえに親鸞聖人は、我々が阿弥陀仏の浄土に速かに
往生するためには、必ず信心獲得しなければならない、
と教えておられるのである。
 
●真宗同行の誤り
 
よく浄土真宗の同行の中に、
「阿弥陀仏は大慈悲心を持たれた仏だから、
私たちが何もしなくても地獄へ堕とされるようなことはない。
この身、このまま、無条件でみな極楽に救い摂ってくださる」
と言う者がいる。
そして、念仏を称えて、寺参りをしておれば猫も杓子も
死んだら極楽、死んだら仏、と思っているのである。
世間の人々が「仏」を死人の代名詞のように使っているのは、
浄土真宗の道俗のそのような間違いに起因するのであろう。
ただで、無条件で救われるというのは大変な間違いである。
親鸞聖人は、
「必ず信心を必要とする」
と仰有っておられるのだ。
他力の信心を獲得しない限り、阿弥陀仏の浄土へ
往生することはできない。
列車なら切符なしで乗り込んでしまう客もいる。
いわゆる「ただ乗り」である。
だが、浄土へはそれはできないのだ。
必ず信心を以て能入と為す
と教えられた方が親鸞聖人である。


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『正信偈』講話⑦ [正信偈]


(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講話から続きを載せたいと思います。)

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道綽決聖道難証 道綽は聖道の証し難きことを決し、

唯明浄土可通入 唯浄土の通入す可きことを明す。

万善自力貶勤修 万善の自力、勤修を貶し、

円満徳号勧専称 円満の徳号、専称を勧む。

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親鸞聖人の尊敬しておられるお一人が道綽禅師である。

道綽禅師のお手柄は仏教を二つに分けられた点にある。

一切経に精通され、釈尊の教えに聖道仏教と浄土仏教の

あることをハッキリ教えられた。

しかも、聖道仏教では助からない、浄土仏教だけが

救われる教えだから信じなさい、と断言なされている。

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それが、「聖道の証し難きことを決し、唯、

浄土の通入すべきことを明かす」である。

「道綽禅師ならでは教えきれない」と、

親鸞聖人は、褒めたたえておられる。

 

●厳しいがハッキリする廃立

 

言葉遣いにもいろいろある。

AとBがあった場合、

「Bもよい」は、どちらも傷つかない穏やかな言い方で、

反顕法とか穏顕と言われる。

「Bはダメ、Aがよい」という言い方を比較法とか廃立と言い、

厳しいがハッキリする。

後生の一大事を教える仏教は、厳しくなければならぬので、

親鸞聖人は、常に廃立で教えられている。

それが親鸞聖人の三重廃立である。

『教行信証』には、

一、内外廃立(他の宗教を捨て、仏教のみを信じよ)

二、聖浄廃立(聖道仏教を捨て、浄土仏教を信じよ)

三、真仮廃立(浄土他流を捨て、真宗を信じよ)

と説かれている。

人は何のために生き、働くのか。

政治、経済、科学などは何のために存在するのか。

「人生の目的は、後生の一大事の解決ひとつ」と、

仏教は教えている。

一日生きれば一日死に近づき、

全人類は後生に向かって進んでいる。

後生がハッキリしなければ、降りるところのない飛行機に

乗っているようなもので、不安なのは当然である。

科学が進歩しても、後生、未来が明るくならない限り、

不安はなくならない。

「癌が手術で助かった」

「飛行機事故にあったが、一命とりとめた」

と言っているが、死が少し先に延びただけで、

本当に助かったとは言えない。

10年、20年、寿命が延びたとしてもアッと言う間のこと。

後生の一大事を解決しない限り、

滝壺に近づく遊覧船上の人生で、危険この上もない。

いつ死んでも極楽浄土間違いなしの身に救われ、

現在、絶対の幸福、無碍の一道の世界に出てこそ、

真に助かったと言える。

全人類を無碍の一道に導くのが仏教の狙いである。

道綽禅師が、

「聖道仏教では助からない」

と断言されるのは、この後生の一大事が聖道仏教では

解決できないからである。

浄土仏教だけが解決できる、と峻別された道綽禅師を

親鸞聖人は褒めたたえていられるのもその故である。

 

●真実と方便

 

聖道仏教(禅宗、天台宗、真言宗など)の本質は自力である。

廃悪修善によって、救われようとする自力の仏教である。

浄土仏教(浄土真宗、浄土宗など)では、

阿弥陀仏の願力不思議によらなければ、

後生の一大事の解決はできないと教え、

他力の仏教といわれる。

後生の一大事を引き起こす無明(後生暗い心)は、

阿弥陀仏しか破れないから、弥陀一仏に向け、

と釈尊は教えられた。

一向専念無量寿仏」が、その釈尊のご金言である。

では、なぜ釈尊は、聖道仏教を説かれたのか。

浄土仏教は真実、聖道仏教は、方便である。

「マコトのないのが凡夫のマコト、

マコトのあるのが仏のマコト」である。

真実のカケラも持ち合わせていない人間を、

真実に導くには絶対に方便が必要である。

「後生の一大事の解決には無明を破らなければならない」

と言っても、自惚れ強い我々は、その無明が分からない。

阿弥陀仏のお力によらねば、どんな知恵ある人でも

知られないのが、無明である。

親鸞聖人は比叡山で20年間、真剣に聖道仏教(廃悪修善)を

励まれ、真実微塵もない己の姿に驚かれた。

一切凡小、一切時の中に、貪愛の心、常に能く善心を汚し、

瞋憎の心、常に能く法財を焼く。

急作急修して、頭燃を灸(はら)うが如くすれども、

衆(すべ)て雑毒雑修の善と名け、亦虚仮諂偽の行と名く。

真実の業と名けざるなり。

此の虚仮雑毒の善を以て、無量光明土に生ぜんと欲す、

此れ必ず不可なり

            (教行信証)

「頭髪に火がついたのを揉み消す真剣さで

廃悪修善を行ったが、真実の善はできなかった。

後生の解決はできない」と悲泣なされている。

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高層ビルの建築には足場が必要である。

対岸に渡るには筏が必要である。

方便はウソということではない。

真実に導くために必要なものを方便というのだ。

無明を知らせるには、罪悪を見つめて進まねばならぬ。

煩悩が邪魔になり、それに苦しむ。

真実が分かってはじめて、方便が分かる。

真実が分からぬ者は、方便も方便と分からない。

道綽禅師も真実を知られなかった時は、

聖道仏教に迷っておられた。

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●仏教の究極の目的

 

万善の自力、勤修を貶し

万善の自力とは「諸行万行」ともいい、

仏教で教えられるすべての善である。

釈尊は六つに分けられ、「六度万行」とも教えられている。

布施(親切)・持戒(言行一致)・忍辱(忍耐)

・精進(努力)・禅定(反省)・智慧(修養)である。

廃悪修善をやる聖道仏教を、道綽禅師はけなされた。

けなされた善を行う必要はない、勧めるのも間違いだと

思っている者が多い。

浄土真宗が悪人製造の教えと非難される原因がここにある。

因果の道理は仏教の根幹、大宇宙の真理で、

善い因をまかねば善果はこない。

道綽禅師は、なぜ万善を励むのをけなされたのか。

善を嫌い、悪の好きな我々は道綽禅師のこのお言葉を

自分の都合のよいように解釈しがちである。

我々の善でむくわれるのは相対の幸福でしかない。

自力の善で無明を晴らし、後生の一大事を

解決することはできない。

仏教の目的は名誉、地位、財産などの相対の幸福ではない、

後生の一大事を解決して、絶対の幸福になるところにある。

相対の幸福が仏教の目的であれば、

諸善をけなされるはずがない。

万善の自力、勤修を貶し」はカミソリのようなお言葉で、

真実の分からぬ者は大怪我をする。

「後生の一大事の解決をして、絶対の幸福になることこそが

仏教の目的である」ことを鮮明にされた道綽禅師のお言葉である。

円満の徳号、専称を勧む

円満とは完全無欠、絶対。

徳号は、南無阿弥陀仏のご名号である。

六字のご名号に阿弥陀仏の造られた万善が収まっており、

円満の徳号といわれる。

ご名号の万善と我々の善との区別がつかないために、

「念仏さえ称えておれば善果がくるのだ」

と聞き誤っている人が多い。

念仏をどれだけ称えても、大学には合格できない。

人生の成功もない。

諸善も、念仏も、聴聞も全部、間に合わなかったと

切り落とされたとき、自力が廃る。

その時、南無阿弥陀仏のご名号が徹到し、

絶対の幸福に救われ、円満の徳号があったと知らされる。

無碍の一道に出させていただいたら、称えずにおられない。

道綽禅師はその念仏を勧めてゆかれたのである。

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『正信偈』講話⑥ [正信偈]

参考に以下の動画を見られると真実の仏教がどういうことを教えられているのか
よくわかります。
岡安講師の他の動画も観られると本当にその通りだなと
感動せずにはおれないと思います。



(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講話から続きを載せたいと思います。)

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印度西天之論家 印度西天の論家

中夏日域之高僧 中夏・日域の高僧

顕大聖興世正意 大聖興世の正意を顕し、

明如来本誓応機 如来の本誓、機に応ずることを明す。

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親鸞聖人のお書きになられた『正信偈』のお話をいたします。

その前に、上記の文に至るまでのおおまかな内容を述べましょう。

 

●あふれる喜びの表明

 

冒頭で親鸞聖人は、

帰命無量寿如来

 南無不可思議光

と仰っています。

「親鸞は無量寿如来に帰命いたしました。

不可思議光に南無いたしました」

ということで、無上仏の阿弥陀仏に助けられた、救われた、

とあふれる喜びを告白されたお言葉です。

この二行から、阿弥陀仏の救いはハッキリすることがわかります。

また同じ意味のことを二回繰り返しておられるのは、

喜びの限りないことを表しています。

 

●釈尊、七高僧の

    ご教導あったればこそ

 

この身に救われたのは、まったく阿弥陀仏の本願の

おかげであったと、無上仏を称讃され、

本願を教えてくだされた釈尊のご恩を、

次に聖人は讃えておられます。

それが、

如来所以興出世

 唯説弥陀本願海

です。

釈尊こそ善知識の元祖。

そして、釈尊の教えを間違いなく教えてくださる方をも

善知識といい、親鸞聖人は七人選ばれました。

七高僧といいます。

インドでは龍樹・天親の二菩薩、

中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、

日本では源信僧都・源空上人、これらの方々を、

印度西天の論家、中夏日域の高僧と仰ったのです。

いずれも、釈尊の教えの通り、阿弥陀仏の本願を

教えられた大変すぐれた方たちです。

親鸞聖人は、これらの七高僧のご教導あったなればこそ、

とよろこばれたのです。

 

●『大経』か『法華経』か

   法で互角、機で『大経』

 

では、七高僧は何を顕らかにされたか。

大聖興世の正意。

大聖とは釈尊のことですから

釈尊がこの世にお生まれになった目的です。

釈尊の本心を知り、それを顕らかにすることが、

善知識の条件なのです。

七高僧は、釈尊の正意を、

如来の本誓、機に応ずること

と明かされました。

如来の本誓とは阿弥陀仏の本願、応機とは、

すべての人々を救うということです。

釈尊の本心が説かれているお経を出世本懐経といいますが、

それについて古来、二通りの意見があります。

一つは『法華経』、一つは『大無量寿経』。

日蓮系の者は『法華経』だといい、

浄土系の人は『大無量寿経』だと主張します。

今でも議論がありますが、徳川時代にはよくこれに関しての

法論がなされました。

その結果『法華経』が勝ったためしがありません。

法、つまり教えそのものの深さでは互角。

共に深法といわれます。

一切経の中でも、深法とあるのはこの二つだけでしょう。

しかし、その法を聞いて救われるのは誰か、

という機の問題になりますと、『法華経』は、

声聞、縁覚、菩薩に限られます。

『大無量寿経』には、すべての人々が救われると

書かれてありますから、この点で『大経』がすぐれているのです。

七高僧は、それを知っておられ、

「阿弥陀仏の本願のみがどんな人でも救うことができる」

と明らかに教えられたのです。

 

●『歎異抄』第二章の真意

 

さて、『正信偈』のこの部分を拝読する時に

いつも思い出すのは、『歎異抄』第二章の次のお言葉です。

弥陀の本願まことにおわしまさば、

釈尊の説教虚言なるべからず。

仏説まことにおわしまさば、

善導の御釈虚言したまうべからず。

善導の御釈まことならば、

法然の仰(おおせ)そらごとならんや。

法然の仰(おおせ)まことならば、

親鸞が申す旨、またもって虚しかるべからず候か

「阿弥陀仏の本願がまことだから、

それひとつ教えられた釈尊の教えはウソ偽りではない。

仏説がまことだから、釈尊の教え通りに説かれた善導大師の

御釈はウソではないんだ。

善導大師の教えがまことだから、

法然上人の仰せにまちがいがあるはずがない。

法然上人の仰せがまことだから、この親鸞が言うこともまた、

ウソであるはずがないではないか」

これは、関東からはるばる京都の親鸞聖人を訪ねてきた

同行たちに仰ったお言葉です。

親鸞聖人は関東で長い間ご布教されたあと、

還暦過ぎて京都へ帰られました。

ところが、その後関東に日蓮というキチガイ坊主が現れ、

ウチワ太鼓を叩きながら、

念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊

とふれ回った。

念仏称えておる者は無間地獄に堕ちるぞ、

と叫んで歩いたのです。

それがあまりに狂信的であったため、

はじめは相手にしていなかった関東の同行たちの

信仰も動揺してきた。

もし日蓮の言うことが本当なら大変だ。

これは京都の親鸞聖人にジカに問い質そうと決意し、

大変なお金と時間をかけて、京都へ行ったのです。

道中、山賊もおれば、盗賊もいる。

今では想像もつかない危険が待ち受けている。

まさに命がけで、関東の同行は聖人のもとへ行ったのです。

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それに対して、聖人が仰ったのが、『歎異抄』第二章。

親鸞聖人はまず、「弥陀の本願まこと」と仰いました。

これが聖人の信仰の出発点であり、大前提なのです。

だからこそ、釈尊も善導大師も法然上人も、

そしてこの親鸞の言うことも正しいのだ、

という論法です。

信心決定した人にとって、唯一まちがいないのは

弥陀の本願のみだからです。

しかし、信前の関東の同行にとっては、

最もまちがいないのが親鸞聖人、

一番信じられないのが弥陀の本願、まるっきり反対です。

信前は、本願ではなく人を信じているのです。

だから、その人にもしまちがいがあれば、

信仰が全部くずれてしまいます。

砂上の楼閣にすぎません。

信後の心は、絶対にまちがいない弥陀の本願の上に

立っていますから、くずれることはありません。

たとえ、釈尊の一切経、七高僧の教えがまちがいであると

分かっても信仰は少しも動じないのです。

このように、信前と信後の決定的な信仰の違いを、

このお言葉は表しています。

『歎異抄』のこのお言葉と合わせて考えると、

『正信偈』の四行の意味がより深く理解されると思われますので、

紹介しました。

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天親菩薩論註解 天親菩薩の論を註解して、

報土因果顕誓願 「報土の因果は誓願なり」と顕したまう。

往還廻向由他力 「往還の回向は他力に由る、

正定之因唯信心 正定之因は唯信心なり」といえり。

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曇鸞大師が、天親菩薩の『浄土論』を解釈なされたものが

『浄土論註』である。

『浄土論註』の大意を、親鸞聖人は次のように

顕らかにしておられる。

報土の因果は誓願なり、と顕したまう。

往還の回向は他力に由(よ)る、

正定の因はただ信心なり

報土とは、阿弥陀仏の願と行に報いて完成された世界、

阿弥陀仏の極楽浄土である。

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「極楽浄土が成就した原因と結果は、

阿弥陀仏の本願による」ことを明らかにされている。

医学が進歩して寿命は延びたが、死からは逃れられない。

お金も財産も、地位、名誉、すべてが最期、

自分から離れていってしまう。

金ができて何でも食べられると思ったら

糖尿病で食べられない。

好き放題できるころは身体が動かない。

タンスに着物いっぱいしまいながら中風で着られない。

人生、積み上げる後から鬼が崩してゆく賽の河原と同じ。

家を建て、子供を育て、財を築きながら、

死に直面して、根底からひっくり返り、泣き出す。

すべてが無常と知らされて、はじめて常住の世界を求める。

全人類は幸福を願いながら、永遠に変わらない世界のあることも、

ゆく方法も知らない。

「浄土は厳然としてある」

と、曇鸞大師は明らかにしてくださった。

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この世のことも、ろうそくからランプ、電気、蛍光灯、

ラジオから白黒テレビ、カラーテレビと願いによって

作り出されている。

我々の究極の願いは、無常から常住、不浄から清らかな世界、

不安から安心の世界以外にない。

究極の願いをかなえてくださる阿弥陀仏の誓いは、

凡夫の知恵では分からない。

 

●自力回向と他力回向

 

仏智を体得された天親菩薩が『浄土論』に、

曇鸞大師は『浄土論註』に明らかにされていると、

親鸞聖人がご教示になっている。

仏智によって知らされるのが、

往還の回向は他力に由る、正定の因は唯信心なり」である。

往還の回向とは、往相回向と還相回向のこと。

往生浄土の相状を略して往相、還来穢国の相状を略して

還相という。

回向とは、差し向ける、与えるという意味。

自力回向と他力回向の二通りがある。

元旦に神社に出かけ、柏手打って賽銭をあげる。

知人の訃報を知り、冥福を祈って線香、灯明を差し向ける。

肉親が死ぬと読経や盛大な葬式をする。

その善根功徳を神仏、亡者に差し向けて助けようとしている。

自力回向である。

他力回向。他力とは阿弥陀仏のお力のみ。

阿弥陀仏から私たちに与えてくだされるのを他力回向という。

自力回向と他力回向は差し向ける方向が正反対だ。

親鸞聖人が回向と仰るのは他力回向に限る。

「往相も還相も、阿弥陀仏のお力による」

と、曇鸞大師が教えていられるからだ。

我々に差し向けるものがあるなどと思うは、

我が身知らずもはなはなだしい。

罪悪の塊が何を差し向けるのか。

自力回向の言葉はあっても、使う余地なし。

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし

煩悩具足とハッキリ知らされているからである。

一息一息、死に近づいているのは万人同じだが、

信心決定していない人はそのまま地獄への行進だ。

信心決定の人は阿弥陀仏のお力によって、

極楽浄土へ運ばれているのが往相廻向。

泳げる人にも泳げない人にも、波は同じように来ているが、

泳げない人は波で苦しみ、泳げる人は波を楽しむ。

大変な違いがある。

信前・信後、人生の荒波は変わらないが、

救われた人は苦悩の波が喜びと転じる。

極楽に往生すれば、衆生済度にこの世に戻って

大活躍せずにおれなくなる。

これを還相廻向という。

親鸞聖人が、

片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ

と、仰っているのが還相廻向。

往相廻向、還相廻向ともに他力、すなわち阿弥陀仏のお力による。

『教行信証』には、往相を自利、還相を他利と教えられている。

往相廻向は、我が身が苦悩の世界を離れ、

極楽浄土に生まれるのだから自利。

還相廻向は、苦悩の衆生を済度する活動だから、利他である。

 

●大悲の活動

 

小慈小悲もない人間でさえ、苦しんでいる人を見ては

安穏としておれない。

まして仏の慈悲は、一人残らず平等に広い世界に出ない限り、

満足できない。

大悲の活動はここから起きてくる。

小慈小悲もなき身にて

 有情利益はおもうまじ

 如来の願船いまさずは

 苦海をいかでか渡るべき

親鸞聖人のご和讃である。

「親鸞には小さな慈悲のカケラもない、

みんなを信心決定まで導こうの心もない」

と仰っている。

ギリギリ一杯、人間の実相である。

「みなみな信心決定あれかし」

と思い続けられ、強欲な日野左衛門、

仇の弁円まで済度されたのも事実である。

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信心決定された29歳から、お亡くなりになるまでの親鸞聖人は、

大慈悲一杯のお方と思われている。

それはしかし、親鸞聖人のみ心ではない。

なぜか。

それは、如来の願船、他力回向の大慈悲心以外にない。

「日野左衛門や弁円を済度したのは、親鸞ではない。

阿弥陀仏の活動だ」

と仰っているからだ。

我が歳きわまりて、安養浄土(極楽浄土)に還帰すというとも

和歌の浦曲の片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。

一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、

その一人は親鸞なり

と、『御臨末の御書』にある。

「いま親鸞は極楽浄土に還る。

しかし波のようにすぐ帰ってくる。

一人いても一人と思うな、二人いても二人と思うな、

必ずそばに、親鸞がいる」

聖人っは限りない衆生済度を約束しておられる。

そんな広大な阿弥陀仏の救いにどうしたらあえるのか。

「正定の因は唯信心なり」

信心一つで助かるのだ、とハッキリ教えていられる。

正定とは、正定聚、絶対の幸福である。

平生に阿弥陀仏のご念力で絶対の幸福になり、

生死の苦海が光明の広海に転じた人でなければ、

阿弥陀仏の浄土へ往くこと(報土浄土)も、

弥陀同体の仏にもなれない。

弥陀同体の無量寿・無量光の仏になると、

自由自在に衆生済度の活動ができる。

仏法は聴聞に極まる

ハッキリ救われるところまで聞き抜かなければならない。

浄土真宗は平生業成、現生不退、報土往生、弥陀同体と

現当二益の大幸福をうる無二の妙法である。


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