親鸞聖人とお釈迦様 [親鸞聖人]
親鸞聖人は、世界の光と言われ、世界中の人から尊敬されている方です。
何故、世界の光と言われているか、
それはお釈迦様の教えを自分の考えを一切入れず、
正確に、我々が受け取りやすいように、徹底して教えて行かれた方だからです。
親鸞聖人の書かれた正信偈の冒頭のお言葉は、
帰命無量寿如来、南無不可思議光ですが、
帰命は昔の中国の言葉で救われた、助けられたという意味です。
南無は昔のインドの言葉で同じく救われた、助けられたという意味です。
無量寿如来は阿弥陀仏の別名で、
不可思議光は不可思議光如来の略で同じく、阿弥陀仏の別名です。
よって、親鸞は阿弥陀仏に救われたぞ!、助けられたぞ!と
繰り返して言われているお言葉です。
何故繰り返し言われたかですが、うれしさがあまりに大きかった、
驚きがあまりに大きかったので繰り返して言わずにおれない心を表しているのです。
私たちもうれしさが大きかったとき、驚きが大きかったときに言葉を繰り返しますよね。
例えば、夕飯時に停電して、さあ食べようと思っても暗くて食べられず、
おあずけをくらっていたときに、突如明かりが点いたら、
あっ、点いた!、点いた!と喜ぶんではないでしょうか。
受験勉強して、希望する大学に受かったときに、
掲示板を見て、あっ、受かったとぼそっと一言で終わるでしょうか。
受かった受かった!と飛び跳ねるでしょう。
心から待ちわびていたことが到来したときにわれわれは言葉を繰り返さずにはいられないのです。
親鸞聖人は比叡の山で20年間難行苦行をして、
後生の一大事の解決に全身全霊で打ち込みました。
法華経の教えでは救われないことをはっきりと知らされて、
泣く泣く山を下りられ、法然上人に巡り会われました。
そして法然上人の教えの下で、阿弥陀仏に救われることができたのです。
そのときの喜びは、ちょっとやそっとのことではありません。
20年間修行をして、地獄しか行き場のないことを知らされ、
その怖ろしさに戦慄し、追いつめられ、絶望したところで救われたのです。
阿弥陀仏に救われ、無始から苦しみ続けた魂を解決していただき、
地獄しか行き場の無いものを、死ねば阿弥陀仏の極楽に往生できる身となり、
大安心、大満足の身になられました。
その時の喜びは我々が想像できるようなものではありません。
何度叫んでも叫びたりないでしょう。
その気持ちを表すために2回繰り返してお書きになられているのです。
そして死んでからではなくて今生で救われるのが阿弥陀仏の救いだと強調して教えられているのです。
また明日お釈迦様の教えを、親鸞聖人を通してお伝えしようと思います。
こちらでも同じ記事を載せています。
お釈迦様が本当に伝えたかったこと(seesaaブログ)
何故、世界の光と言われているか、
それはお釈迦様の教えを自分の考えを一切入れず、
正確に、我々が受け取りやすいように、徹底して教えて行かれた方だからです。
親鸞聖人の書かれた正信偈の冒頭のお言葉は、
帰命無量寿如来、南無不可思議光ですが、
帰命は昔の中国の言葉で救われた、助けられたという意味です。
南無は昔のインドの言葉で同じく救われた、助けられたという意味です。
無量寿如来は阿弥陀仏の別名で、
不可思議光は不可思議光如来の略で同じく、阿弥陀仏の別名です。
よって、親鸞は阿弥陀仏に救われたぞ!、助けられたぞ!と
繰り返して言われているお言葉です。
何故繰り返し言われたかですが、うれしさがあまりに大きかった、
驚きがあまりに大きかったので繰り返して言わずにおれない心を表しているのです。
私たちもうれしさが大きかったとき、驚きが大きかったときに言葉を繰り返しますよね。
例えば、夕飯時に停電して、さあ食べようと思っても暗くて食べられず、
おあずけをくらっていたときに、突如明かりが点いたら、
あっ、点いた!、点いた!と喜ぶんではないでしょうか。
受験勉強して、希望する大学に受かったときに、
掲示板を見て、あっ、受かったとぼそっと一言で終わるでしょうか。
受かった受かった!と飛び跳ねるでしょう。
心から待ちわびていたことが到来したときにわれわれは言葉を繰り返さずにはいられないのです。
親鸞聖人は比叡の山で20年間難行苦行をして、
後生の一大事の解決に全身全霊で打ち込みました。
法華経の教えでは救われないことをはっきりと知らされて、
泣く泣く山を下りられ、法然上人に巡り会われました。
そして法然上人の教えの下で、阿弥陀仏に救われることができたのです。
そのときの喜びは、ちょっとやそっとのことではありません。
20年間修行をして、地獄しか行き場のないことを知らされ、
その怖ろしさに戦慄し、追いつめられ、絶望したところで救われたのです。
阿弥陀仏に救われ、無始から苦しみ続けた魂を解決していただき、
地獄しか行き場の無いものを、死ねば阿弥陀仏の極楽に往生できる身となり、
大安心、大満足の身になられました。
その時の喜びは我々が想像できるようなものではありません。
何度叫んでも叫びたりないでしょう。
その気持ちを表すために2回繰り返してお書きになられているのです。
そして死んでからではなくて今生で救われるのが阿弥陀仏の救いだと強調して教えられているのです。
また明日お釈迦様の教えを、親鸞聖人を通してお伝えしようと思います。
こちらでも同じ記事を載せています。
お釈迦様が本当に伝えたかったこと(seesaaブログ)
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