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臨終はどうなる!? [阿頼耶識(我々の本当の心)]



死は万人の確実な未来だが、

誰もまじめに考えようとはしません。

考えたくないことだからでしょう。

知人、友人、肉親などの突然の死にあって、

否応なしに考えさせられるときは、

身の震えるような不安と恐怖を覚えますが、

それはあくまでも一過性で、あとはケロッとして、

「どう生きるか」で埋め尽くされます。

自分の死を100パーセント確実な未来と容認しても、

まだまだと先送りしますね。

眺めている他人の死と眼前に迫った自己の死は動物園で見ている虎と、

山中で出くわした虎ほどの違いがあると言われます。

体が震えるような、不安や恐怖といっても、

所詮は想像している死であり、

襲われる恐れのないおりの中の虎を

見ているにすぎないのです。

山中で突然出会った猛虎ではないのです。


ところが「末期ガンです、あと長くて1ヶ月です。」

と死の宣告をされたらどうでしょう。

大問題になるのは、「死後どうなるか」だけだと、

ガンと10年闘ってこの世を去った岸本英夫氏(東大・宗教学教授)は

言っています。


我々が死を恐れるのは、突き詰めれば死後の世界を恐れているのです。

それを解決しない限り、本当の幸福にはなれません。

仏教は哲学のような観念の遊戯ではなく、実際にそれを解決できる教えなのです。

今回は人間の臨終について

お釈迦様はどう教えられているかお話しします。


お釈迦様は我々に八つの心があると教えられています。

それを八識と言います。


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眼識・・・眼の心

耳識・・・耳の心

鼻識・・・鼻の心

舌識・・・舌の心

身識・・・身の心。体が触れたものを判断する。

意識・・・思考、記憶などの心

末那識(まなしき)・・・悪の根源の心

阿頼耶識(あらやしき)・・我々の本心。後生へ流転していく。

ここから、仏教では人間の臨終に3段階あると教えられています。


■第一段階は心明了位の臨終です。

眼、耳、鼻、舌、身識、これら5識がまず、

死を迎えます。

しかし意識はまだ生きています。

母親の臨終に例えれば、

東京に嫁いでいる娘さんが懸命に実家に駆けつけ、

枕元で、「おかあさん」と大声で呼びます。

しかし、心明了位の臨終にある母親は、

耳識が臨終を迎えているから、

耳元で叫ぶ娘の声も、遠くで誰かがかすかに

叫んでいるようにしか聞こえない。

「誰の声だったかな、聞いた覚えのある声だが・・・」

と思うがはっきりしないのです。

眼識も臨終だから目を見開いても、

娘の顔はボーッとカスミがかかったようで

はっきりしない。

目が死ぬ、耳が死ぬ、鼻が、舌が、身が死んでいきます。

もう見ることも、発声も、体も動かせない。

このように前五識がまず死んでいきます。


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■第二段階は身体愛法位の臨終です。

これは意識の臨終です。

それまではっきりしていた意識が死ぬときです。

この時、3つの執着により、苦しみます。

これを三愛といいます。


境界愛

自分の愛し続けてきた、妻子や家財等などに対する執着です。

それらと別れることは大変辛い。

蓮如上人は仰っています。

「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も
我が身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ、三塗の大河をば、
ただ一人こそ、ゆきなんずれ。」
        (御文章一帖十一通)

人間、死に際しては、それまで命がけで求めてきた財も宝も何一つ持っていけない。

守り続けた妻子も、唯一人連れては行けない。

全く独生独死、独去独来、独り死んでゆかねばならないのだ。

と仰っているお言葉です。


突然の火事で家屋や家財などを失えば、

悲嘆にくれるでしょう。

しかし、土地はまだ残っています。

銀行に預金もあり、家族も無事であるならば、

再起も可能です。

臨終はそれら一切を失ってしまうのです。

生木を引き裂かれる苦しみになるのは当然でしょう。


自体愛

自分の身体ともいよいよ別れていかなければならない

苦しみのことです。


当生愛

死後どうなるか分からず、暗黒の世界に堕ちていく不安、

後生に対する恐れのことです。


身体愛法位の臨終では、これらの苦痛に攻められ、

七転八倒する思いなのですが、

心明了位の臨終が過ぎてしまっているから、

手足も動かず、声も出せない。

だから外見から見れば、安らかな臨終に見える。

表面上は静かに息を引き取ったように見えるので、

「うちのお婆さんは、眠るかのように死んで行かれたから、

きっと極楽往生間違いなしですよ。」などと言います。

外見だけで判断してそう言う人が多いですが、

本人はキリキリ舞いして苦しんでいても

それが表現できないだけなのです。


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火の車、臨終に現れる

仏教では、人間の臨終に、「火車来現」があると

教えています。

この火の車とは、自己の業(行い)が生み出したものです。

故に「火の車、造る大工はなけれども、

おのが造りておのが乗りゆく」と詠まれています。

昔は車は大工さんが造りましたので、

そう表現されています。

火の車を造る大工がいるのではない。

自分の業(行い)が生み出したものに、

自分が乗っていくのだ。



ところが、火車来現も外部に伝える手段がない。

しかし例外的に、心明了位の臨終が終わりきらないうちに

火車来現に出会う人がいます。

体が動き、声を発することのできる時に、

火の車を体験するとなると、臨終の様相は一層、悲惨なものとなります。


臨終の心相をお釈迦様は、「大無量寿経」に説いておられます。

大命将に終わらんとして、悔懼(けく)交々至る。

人生の最期には、生涯への後悔と、未来への恐れが、

交互に迫り苦しむ。

しかし、必死に叫ぼうとしても、

叫ぶ力がないのが、身体愛法位の臨終です。



第三段階は、心不明了位の臨終です。


身体愛法位の臨終で意識が死に、

次に心不明了位の臨終に進みます。

阿頼耶識が次の世界に転生するのです。

これがまさに死の瞬間なのです。

阿頼耶識が転生する迷いの世界は6つあり、

六道といいます。

地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界です。

お釈迦さまは、我々の後生は、必堕無間と大無量寿経で言われているように、

地獄の中でも最も苦しみの激しい、無間地獄に堕つると教えています。



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救われるにはどうすればいいのか!?

仏教を聞くことを聴聞といいますが、

聴聞を重ねると上の心と、下の心の2つがあることが分かってきます。

上の心というのは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識までです。

下の心というのは、末那識と阿頼耶識です。

我々が普段心と呼んでいるのは、上の心ですが、

我々の本心は下の心です。

聴聞の「聴く」は上の心で聴いて、合点することですが、

阿弥陀仏に救われるには、

下の心に仏教を聞かせなければならないのです。

何故なら、上の心で仏法を聴いていても

いよいよ臨終となれば、意識は肉体とともに滅んでしまいます。

本心である阿頼耶識が聞かなければ救われないのです。

上の心が仏教を真剣に聴いていても

下の心は、ポカン、ボーとしていて、

仏教を聞こうとしません。

「お前、そのまま今晩死んだら、地獄へ堕ちるぞ」

と言われても皿一枚割ったほどの驚きもありません。

「救われたら極楽だぞ」と言われても、

千円札一枚もらったほどにも喜びません。

「無常の世の中ではないか。今晩死んだらどうするんだ。」

と無常観を迫られても、「まだまだ死なん」とはねのけます。

「生き物を殺して食べ、心の中を見れば、美しい女性を思い浮かべ、

浅ましいことを思い続けているではないか。

憎む相手を心で斬り殺しているではないか。

罪悪の塊がお前の正体だ。」と言われても

「殺して食べて何が悪い」と反発します。

地獄ときいても驚かず、極楽ときいても喜ばない。

仏法に向かえば、何の反応もなく、死体にお灸をする如くです。

ウンともスンとも言わない。

親鸞聖人は「逆謗の屍」と言われました。

逆は親殺しを意味する五逆罪、謗は、仏法を誹謗する謗法罪です。

我々の本心は、自分に都合悪ければ、

大恩ある親でも「死んでくれたらいい」と心で殺してしまう、

五逆罪を造ります。


仏法に向かえば、「地獄も極楽もあるか、火の車などおとぎ話だ」

法謗の大罪を犯します。

仏法に向かえば屍ですが、

世間ごとなら徹夜も厭わない。

飲みたい、食いたい、寝たい、楽したい、

金儲けの話なら、一晩中でも起きている。

そんな本心が、腹底にはあるのです。

この世もジゴク、未来も地獄の罪悪の塊です。


しかし必ず救われる時があるのです。

阿弥陀仏は、「若不生者 不取正覚」の誓いを立てられています。

もし生まれずは、正覚を取らじ」と、

仏の命である正覚をかけて、

阿弥陀仏は屍を生まれさせると誓っておられるからです。

その本願がまことだから、

屍の心が、大安心、大満足に生まれることができるのです。

阿弥陀仏の「そのまま助けるぞ!」のお呼び声に、

その屍の心が「ハイ」と返事をするときが聴聞の「聞」であり、

その時にいつ死んでも極楽往生間違いなしの身に

雷に打たれたよりはっきりと救われたのが分かるのです。

ここに全人類が救われる唯一本の道があるのです。


それをお釈迦様はお説きくださいました。

そして親鸞聖人は20年間難行苦行をして、法華経の教え(聖道仏教)では救われないと分かり、

浄土仏教を説く法然上人の教えの下で29歳の御時に阿弥陀仏に救われたのです。

以来、90歳でお亡くなりになられるまで、

身命を賭して、阿弥陀仏の本願一つ(一向専念無量寿仏)をお叫びになりました。

そして救われたご恩を恩徳讃に詠われています。

「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」

(阿弥陀如来の大慈悲心によって親鸞は救われた。

その恩は身を粉にしてもお返ししなければならない。

阿弥陀仏の本願を正確にお伝えくださった善知識が

あったからこそだ。

骨を砕いてもそのご恩に報いなければならない。)


親鸞聖人ほど阿弥陀仏の本願徹底にご苦労された方はいませんが、

それでも阿弥陀仏の広大なご恩に大海の一滴も報いきれないと泣かれたのでした。

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(親鸞聖人アニメより)

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marimo

今日はいつもと趣が違いますね
私が物心付いた頃からどうなるのかなぁ?と
思い抱いているのは③当生愛です。
この世から自分が死んで無くなってしまったら
つまらないな~ってものすごく漠然と思いました(;^_^A


by marimo (2013-09-21 20:04) 

minsuke

marimoさん、コメントありがとうございます。
人間界が終わっても、我々の生命は続きますよ。
お釈迦様は、必堕無間と教えられています。
無間というのは、無間地獄ということで、
苦しみが少しも途切れることがなくやってくるということです。
我々は悪夢を時々見ますね。
さめるから夢なんですが、
地獄界は8万劫覚めずに続くと教えられています。
一劫は4億3千2百万年のことで、その八万倍の期間
悪夢を見続けるのです。
それも想像を絶する苦しみの夢なんです。
marimoさんも続けて読んでくだされば、
お釈迦様の言われることがわかってきて、
これは大変なことが教えられているんだなと理解できますよ。
by minsuke (2013-09-21 20:30) 

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