魚や肉を食べるのは罪なのか? [罪悪深重]
まかぬタネは生えぬ。
まいたタネは必ず生える。
お釈迦様一代の教えを貫いているのは、因果の道理です。
(根拠を示しておきます。)
仏教は因縁を宗とす。
仏の聖教は浅より深に至る。
一切経を説くに因縁の二字を出でざるを以てなり。
(維摩経)
(因果の道理)
○善因善果
○悪因悪果
○自因自果
良いことをすれば良い結果が、
悪いことをすれば悪い結果が、
自分でしたことは自分に返ってくる。
それは単に現世一世に止まらず、
過去世(生まれる前)・現在世・未来世(死後)
の三世を貫いていると説かれています。
因果経にはそのことが鮮明に説かれています。
過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ。
つまり、我々の大問題である死後どうなるかは、
現在の自分がどういう行いをしているのかを徹底的に見れば、
分かるということです。
どんな行いをやっているのか、
お釈迦様は次のように教えています。
(今日は、昨日の続きの十悪です。体でやる悪を解説します。)
昨日の記事「人間はみな極悪人である。」
⑧殺生
私たちは動物を食べるのを当たり前に思っています。
しかし食べられる動物たちは決して、
人間に食べられるのが当然だとは思っていないでしょう。
どんな生き物でも、死にたくないのは、私たちと変わらないはずです。
船に上げられた魚がピチピチ跳ねるのも、
鶏が首を絞められてパタパタもがくのも、苦しいからでしょう。
人間とは何と残酷なものかと、強く呪って死んでいるに違いありません。
ちょうど私たちが無実の罪で殺され、
肉体を食べられる恨みと少しも変わりはしないでしょう。
お釈迦様は、全ての生命は平等であり、上下はないと教えられています。
人間の命だけ尊いと考えるのは、人間の勝手な言い分。
殺生は恐ろしい罪に変わりはありません。
一言で殺生といっても、
殺し方によって仏法では三通りに分けられています。
「自殺、他殺、随喜同業」の三つです。
○自殺
自分で生き物を殺すことを言います。
世間で言う、首をつって死ぬような、自ら命を絶つことではありません。
食べるために魚や鳥を殺したり、蜂や蚊に刺されて怒りのあまり殺したり、
遊びのために釣りや猟で動物を殺すことを「自殺」といいます。
「生きるためには仕方がない」
「害を与えるから」
と私たちはどれだけの生き物を殺しているでしょうか。
○他殺
他人に依頼して生き物を殺させる罪を言います。
自分は直接殺さなくても、
自分が殺したのと同罪だと教えられています。
魚屋さんは魚を殺し、
肉屋さんは牛や豚を殺しますが、
魚や肉を買って食べる人がいなければ、
それらの人たちは殺生をしなかったでしょう。
肉の好きな私たちが、
肉屋さんに頼んで牛や豚を殺してもらっているのですから、
肉を買って食べる私たちは、
自分で殺さなくても、「他殺」の罪を
犯していることになります。
○随喜同業(ずいきどうごう)
他人が生き物を殺しているのを見て楽しむ罪をいいます。
ある家で、仕掛けたカゴにネズミがかかったので
さてどう処分するか困っているところに
近所のおじさんが来たので、
「あんた殺してよ」と奥さんが頼みました。
頼まれたおじさんは、「よっしゃ」と引き受けて川へ行き、
カゴを水に沈めてネズミを殺しました。
水中でもがき苦しんでいくネズミを見て、一緒に喜んでいます。
実際にネズミを殺したのは近所のおじさんですから、
近所のおじさんは「自殺」の罪を造っていますが、
頼んだ奥さんは「他殺」の罪、
見て喜んでいる者は、「随喜同業」の罪を造っています。
また、殺されていった魚や牛の肉に舌鼓を打って喜んでいるのも、
仏様の眼からすれば、「随喜同業」の殺生罪です。
このように私たちは、おびただしい殺生をせずしては生きられない、
深い業を持っているのです。
⑨偸盗
偸盗とは他人のものを盗むことです。
⑩邪淫
男女のよこしまな関係のことです。
心と口と体で、これら十悪を造り続けているのが我々ですが、
その十悪よりもっと恐ろしいのが「五逆罪」であり、
最も重い罪は「謗法罪」であると、お釈迦様は教えられています。
次回に解説したいと思います。
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人間のやる悪(お釈迦様の教え)をまとめました。
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