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釈迦が説く、我々人間の実相 [人間の実相]

仏説譬喩経で説かれている、我々人間の実相

マイホームを新築すると、火災保険に入りますね。
もしものことがあったら、大変だからです。
老後に備え、貯蓄に励む人もいます。
それも大事ですが、一生涯火事に遭わない人もありますし、
老後を迎えず早死にする人もあるでしょう。
多額の保険料を支払い、万が一に備える一方で、
確実に訪れるにもかかわらず忘れがちなものが、「死」です。

仏法は、「後生の一大事」に始まり、その解決に終わると言われます。
「後生」とは、死んだ後。
想像を絶する大事件が起きるので、
「一大事」と釈尊(釈迦)は仰いました。

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親鸞聖人は九歳の御時、
「死ねばどうなるのだろう」と後生に驚かれ、
二十年間の仏道修業を比叡山で開始されました。
二十九歳で、後生の一大事を救い摂られた聖人の、
その後のご活躍は、この大問題と解決の道を知らせる以外にありませんでした。

京にまします老聖人を、それまでご教導賜っていた関東の同行が、
「ことは後生の一大事!親鸞さまから聞かせていただきたい」
と決死の旅を敢行したことでも明らかです。

後生の一大事」とはどんなことか、
釈尊(釈迦)は、『仏説譬喩経』というお経に、
次のような譬えを説かれました。

●背後に迫る無常の虎(仏説譬喩経の説法)

今から幾億年という昔である。
草の生い茂った果てしない昿野を、淋しい秋の夕暮れに、
トボトボ歩く一人の旅人があった。
出稼ぎの帰りだろうか、稼いだものを背負って、
妻子の待つ家へと急いでいた。
ふと旅人は、薄暗い野道に、点々と散らばる白い物が目に止まった。
はじめは気にも止めなかったが、だんだん多くなる。
「いったい何だろう」と拾い上げて驚いた。
人間の白骨ではないか。
墓場でも火葬場でもない所に、なぜ白骨がたくさんあるのか。
不気味に思って、歩けなくなったのである。


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間もなく旅人は、前方から異様なうなり声と足音を聞いた。
凝視すると、飢えに狂った獰猛な大虎が、
まっしぐらに向かってくるではないか。
瞬時に旅人は、白骨の意味を知った。
「自分と同じように旅していた者が、あの虎に食い殺された残骸か!」
と思うが早いか、無我夢中で、もと来た道を戻ったのはいうまでもない。
しかし所詮は、虎と人間の競争である。
猛虎の吐く息をすぐ後ろに感じ、
「もうダメか!」と思ったとき、
どう間違えたか、断崖絶壁の頂上にたどり着いたのだ。


●九死に一生を得る。

「しまった!」と叫んだが、どうにもならない。
断崖には松の木が生えていたが、
虎は木登りが上手いので、登っても無駄である。
気が動転した旅人は、意味もなく辺りをうろついていたが、
木から藤蔓が垂れ下がっているのに気がついた。
それを伝ってスルスルと降りたのと、
虎が断崖へ走り寄ったのとは同時であった。
まさに九死に一生を得た旅人は、大きく安堵して見上げると、
せっかくの獲物をあと一歩で逃した虎が、
無念そうに吠えながら見下ろしている。
「やれやれ、この藤蔓のおかげで助かった。」
と足下に目を転じたときである。

旅人はあっ!と叫んで硬直した。
宙吊りの下には、怒濤逆巻く深海が絶壁を洗い、
白い波が牙をむいている。
さらに波間から三匹の毒龍が、
赤い焔(ほのお)を吐きながら旅人が落ちるのを
待ちかまえているではないか。
恐怖のあまり、旅人は震えが止まらず、
藤蔓をしっかり握り直さずにはいられなかった。


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ところが、人間の感情は続かないものである。
大学合格や結婚できた喜びも、瞬く間に薄らいでいく。
子供を失ったり家を焼いてしまった悲しみも、だんだん癒される。
「藤蔓に捕まっていさえすれば大丈夫だ」
と思った旅人は、やがて落ち着いてきた。

すると空腹なのに気がついた。
周囲に食を求めて眺めると、旅人は、
虎や深海や龍よりももっと恐ろしい光景を目のあたりにする。
藤蔓の元に白と黒のねずみが現れ、
命の綱である藤蔓を交互にガリガリとかじっているではないか。
顔面蒼白、歯はガタガタ鳴る旅人は、
何とかネズミを追い払おうとして藤蔓を揺さぶったが、
ネズミは一向に逃げようとせず、かじり続けている。
ただ、藤蔓を揺さぶるたびに、ポタポタと落ちてくるものがあった。
手にとると、上質のハチミツではないか。
松の木に蜂の巣があるので、蜜が落ちてきたのである。
それを一口なめた旅人は、
もともとの空腹なところへごちそうを与えられ、
陶然と蜂蜜に心を奪われてしまったのである。
そして、虎も深海もネズミのこともすべて忘れ、
「もっと蜂蜜をなめたい」という心だけで、
藤蔓を揺さぶるようになったのだ。


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「お釈迦さま、その話はもうおやめください!」
これまで静かに聞いていた勝光王という王様が、手をあげて遮りました。
「その旅人は、なんと愚かなんでしょう。
この先どうなるかと思うと、恐ろしくて聞いておれません。」
すると釈尊は、
「王よ。この旅人とは、そなたのことなのだ。
いや、そなただけでなく、ここに集まっているすべての人であり、
全人類の姿である。」
と仰いました。


これは何を譬えているのでしょうか。
今から解説します。

●ひとりぼっちで連れがいない、人生は孤独な旅

まず、旅人とは、「私」の姿であり、
すべての人の姿です。
古来、人生を旅人に譬える人は多くありました。
旅人が歩いていたのは、秋の夕暮れ時でした。
春夏秋冬でもっとも淋しいのは、秋。
これは人生の底知れぬ淋しさを表されています。

なぜ淋しいのか。
人生はひとりぼっちだからです。
『大無量寿経』に釈尊は、「独生独死、独去独来」と仰いました。
「独り生まれ独り死ぬ。
独り来たのだから独りで去らなければならない。」

家族や友人は、肉体の連れでしかありません。
例え、親や兄弟でも、まして夫婦ならなおさら、
相手を本当に理解することができるでしょうか。
もしできるなら、不幸な離婚や遺産相続争いは起こらないはずです。

●飢えた虎=無常

私たちは、歳を経るほどに、
人の死を見たり聞いたりすることが多くなります。
旅人が歩くほどに増えてきた白骨は、他人の死を表しているのです。

「あの人が死んだ!?昨日、話したばかりなのに」
という経験もするでしょう。
白骨を拾って驚いた旅人のように、
私たちも、そんなときは随分驚くではありませんか。

しかし、死ぬのは他人だけではありません。
我が身に無常の風が吹くのです。
それが飢えた虎です。

慌てふためき、何とか逃れたいと思います。
不治の病と宣告されたら、いくつもの病院を訪ね、
莫大な費用を要してでも、何とか助かりたいと必死になるでしょう。
乗っていた飛行機が、エンジントラブルで降下し始めたらどうでしょうか。
一時は病気が小康を得ても、
また九死に一生を得て大事故から生還しても、
永遠に救われたのではありません。

あたかも死は、手のひらで生をしばらくもてあそび、
やがてぎゅっとひねりつぶすかのようです。
決して逃げ切れません。
無常の風ほど残虐なものはないので、飢えた虎に譬えられたのです。


●刹那の幸福

次に松の木は、この世の幸せは無常の垣根にはならないこと
を示しています。
金も名誉もある、マイホームを手に入れた、家族全員が健康で仲むつまじい、
等の幸せは大切ですが、もろくも崩れ去ってしまいます。

東北の大震災の被害者しかり。
営々と築いてきた幸福があてにならないと分かったとき、
最後に私たちが頼るのは、自分の命です。

ところが、平均寿命八十歳と聞くと、長いように錯覚しますが、
細い藤蔓のようなもので、アッという間でしかありません。
第二次世界大戦や、経済の復興、東京オリンピックにしても、
瞬く間に消えていった、泡のようではないですか。

その藤蔓をかじっている白と黒のネズミは、昼と夜です。
間断なく、昼と夜が、交互に寿命を縮めています。
昼に死んだ人は、白のネズミに噛み切られ、
夜に亡くなった人は、黒のネズミに噛み切られたのです。
このネズミには、盆も正月もありません。



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●耐えることのできない、無間地獄の苦しみ

藤蔓が切れたら旅人は、底の知れない深海へと落ちてゆかねばなりません。
深海とは、地獄です。

地獄と言うと、虎の皮のふんどしをはいた鬼が、
罪人を切り刻んだり、釜茹でにしているような絵図を思い浮かべ、
おとぎ話と片づける人があるかもしれません。

「地獄」とは、中国語の翻訳で、釈尊はインドの言葉で
「ナカラ」と説かれました。
苦しみの世界という意味です。

一息切れた後に、大苦悩の世界があるということです。
仏語に虚妄なし
と言われますように、仏様である釈尊のお言葉に嘘はありません。
想像を絶する苦しみゆえに、
「譬えをもっても説けない。」
と釈尊は仰いましたが、
「それでも教えていただきたい」
と願う仏弟子たちの懇願に、次のようにも説かれています。

「朝百本の槍で突かれる。昼にまた百本、夜に百本、
一日に三百本槍で突かれてもなお死ねない苦しみをどう思うか。」
「一本でもひどいのに、三百本の槍とは、想像も及びません。」
お弟子が答えました。
み手に小石を拾われた釈尊は、
「この石と、向こうにそびえるヒマラヤ山とは、どちらが大きいか。」
と尋ねられました。
「それは大変な違いです。」と答えると、
「一日三百本の槍で突かれる苦しみを、この小石とするならば、
地獄の苦は、かのヒマラヤ山の如しである。」
と釈尊は仰ったのでした。
想像も及びません。


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●地獄を生む三匹の毒龍

なぜ私たちは、地獄へ堕ちねばならないのでしょう。
地獄は、三匹の毒龍が生み出した世界です。
これは貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩を表します。

青い龍は貪欲(欲)の心。
無ければ欲しい、あってもなお欲しい底なしの深さを、
青で表されました。

赤い龍は瞋恚(怒り)の心です。
カーッとなったら、前後の見境なく怒りをぶちまけ、
後は野となれ山となれ、相手だけでなく、自分をも焼き尽くします。
無謀に始まり、後悔が残るほかないのが、
恐ろしい怒りの心です。

ウラミやネタミの愚痴が、黒い龍です。
他人が不幸な目に遭うと、いい気味だとほくそ笑み、
幸せにしていると、にがにがしく思う、何とも醜い心を、
私たちは持っています。

これら煩悩に汚れ、悪しか造れない私たちは、
悪因悪果・自因自果の因果の道理に狂いなく、
暗い心で地獄へ堕ちねばならないのは必然です。
つまり地獄は、自分の行いが生み出した世界ですから、
絶対に逃れることはできません。


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そのような絶対絶命の危機にもかかわらず、
私たちは死を忘れ、罪悪をおざなりにし、
蜂蜜ばかり追い求めています。

蜂蜜とは、
○食欲(食べる楽しみ)
○財欲(金を貯める楽しみ)
○色欲(男女の楽しみ)
○名誉欲(誉められる楽しみ)
○睡眠欲(眠る楽しみ)

「地獄へ堕ちるのではなかろうか」と心配しているのなら、
まだ救われようもあるでしょう。
旅人は、蜂蜜をなめながら、笑って地獄へ落下していくのです。


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●実践して初めて分かる、必堕無間の己の姿

死んで地獄へ堕ちる魂の大問題が、後生の一大事です。
親鸞聖人は九歳で出家をなされてより二十年間、
比叡山で修業に専心され、煩悩と闘われました。
煩悩を抑えねば助からないのが、『法華経』の教えだからです。

ですが、やればやるほど、見えてくるのは、
煩悩から離れきれない自己の姿でした。
体は行に打ち込んでも、心は蜂蜜を追い求めている。

「定水を凝らすといえども、識浪しきりに動き、
心月を観ずといえども、妄雲なお覆う。
しかるに一息つがざれば、千載に長う往く」
                   (歎徳文)
今、一息切れたならば、後生は一大事である、
との悲痛な聖人の心情が伝わってきます。
これこそ、親鸞聖人のご修業の原点でした。

蓮如上人もまた、
「後生ということは、ながき世まで地獄に堕つることなれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。」
と仰っています。

善をしようとすればするほど、善のできない自分がわかり、
後生は一大事と知らされます。
実践せねば、わかりません。
また後生の一大事が知らされて初めて、
なんとか解決したいと、真剣な聞法求道になるのです。

「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
                   (歎異抄第二章)
地獄行き間違いなしの我が身に、親鸞聖人は悲泣なされました。

仏法を求める目的は、後生の一大事の解決以外になく、
人生の目的もまた、一大事の解決であることを、
早く、一人でも多くの方に、知っていただきたいと思います。


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犬塚徳一郎

こんにちは。
後生の一大事を、皆に知ってほしいと思いますが、転用は可能でしょうか?
by 犬塚徳一郎 (2022-08-26 22:54) 

minsuke

転用は可能ですが、
どちらの方でしょうか。
それが分からないと悪用されかねませんので。
by minsuke (2022-09-01 21:47) 

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