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源信僧都、母への臨終説法 [源信僧都]

(源信僧都)

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今回は、源信僧都について書きたいと思います。

「釈迦の説かれた一切経にいかにすごい弥陀の誓願が説かれていても、
正しく伝えてくださる方がなかったならば親鸞、
弥陀に救い摂られることはなかったであろう。」

親鸞聖人はインド、中国、日本の七人の高僧のお名前を挙げて、
その広大なご恩に感謝しておれらます。
そのお一人が、日本の源信僧都です。

七高僧とは、
①龍樹菩薩(インド)
②天親菩薩(インド)
③曇鸞大使(中国)
④道綽禅師(中国)
⑤善導大師(中国)
源信僧都(日本)
⑦法然上人(日本)

●源信僧都の幼少期

源信僧都は、平安時代の中頃に、大和国(現在の奈良県)に生まれられ、
幼名を千菊丸(せんぎくまる)といった。
千菊丸、七歳の時のことである。
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一人の旅の僧が、村に托鉢に訪れた。
昼になり、川原の土手に腰を下ろして、弁当を食べ始めた。
いつの間にか、周囲の村の子供たちが集まり、
物欲しそうな眼差しで、僧を見つめている。
子供たちの格好はいかにも貧乏そうで、ボロ着に荒縄の腰ひも、
髪の毛は汚れて乱れたまま無造作にもとどりを結わえてある。
浅黒い顔に鼻汁を垂れている者もいる。
中に一人だけ、鼻筋の通った、
いかにも利発そうな子がいるのに気がついた。
千菊丸である。

やがて食事を終えた僧侶は、川原で弁当箱を洗い始めた。
前日からの雨で、水が濁っている。
構わず洗っていると、千菊丸が近づいて言った。
「お坊さん、こんなに濁った水で洗ったら、汚いよ。」
わずか六、七歳の子供に、もっともらしく注意されて、
‘何を生意気な' と内心思ったが、あらわにするのも大人げない。
平静を装って、こう諭す。
「坊や、浄穢不二(じょうえふに)ということを知ってるかい。
世の中には、きれいなものも、穢いものも、ないのじゃよ。
それをこれは浄い、これは穢いと差別しているのは、人間の迷いじゃ。
仏の眼からご覧になれば、きれいも穢いも、二つのことではない、
浄穢不二なのだよ。」

そう聞いて千菊丸、即座に反問した。
「浄穢不二なら、なぜ弁当箱を洗うの?」
当意即妙とはこのことだろう。

僧侶は二の句を継げず、あぜんとした。
‘こざかしい小僧!'
わずか七つの子供に、自分の持ち出した仏語を逆手にとられ、
何とも気持ちが治まらない。
一方、千菊丸は何事もなかったように、すぐ川原に行っては、
他の子供たちと石投げをして遊んでいる。
‘あんな子供に!'
何とか一矢報いてやらねば立ち去れぬ。

‘よし、これだ!' と一策を思いついた僧は、
無邪気に戯れている千菊丸に近づいていった。
「おい坊や、お前さんは大層利口そうだが、十まで数えられるかい」
「うん、数えられるよ、お坊さん」
「それなら数えてごらん」
「いいよ、一つ、二つ、三つ、・・・九つ、十」
僧侶はわざわざ十まで数えさせてから、
「坊や、今おかしな数え方をしたな。一つ、二つと皆、
つをつけていたのに、どうして十のときだけ十つと言わんのじゃ」
と底意地の悪い質問をした。

‘どうじゃ、今度は答えられんじゃろ'と内心ほくそえんだ次の瞬間、
「そりゃ坊さん、五つの時に、イツツとツを一つ余分に使ったから、
十のときに足りなくなったんだよ。」
‘なんと・・・・、'
またしても完敗である。
あまりにも鮮やかな反撃に、もはや憎らしいの思いは失せていた。

‘惜しい。こんな優れた子を田舎に置いておくのは。
出家させたらどれほどの人物になるかも知れぬ。'
とすっかり千菊丸の才気に惚れ込んでしまった僧侶は、
「そなたは大層賢いのぉ。ご両親にお会いして、ぜひとも頼みたいことがある。案内してもらえんか。」

すでに千菊丸には父はいないということなので、
村はずれのあばら屋に母親を訪ね、懇願した。
「私は比叡山で天台宗の修業をするもの。
今日たまたま会ったお子さんの、あまりに利発なことに驚きました。
失礼ながら、これほどの才能を田舎に埋もれさせてしまうのは、いかにも惜しくてなりません。
どうか私に預けてくだされませんか。
出家の身となられれば、さぞや立派な僧侶となられることでしょう。」

結果、千菊丸は、その僧侶の師・良源の弟子になる決心をして、
九歳の時に、比叡山に入った。
以来、閑静な仏教の聖地・叡山にて、千菊丸、後の源信は、
一心不乱に天台教学の研鑽に励まれるのである。

●叡山時代

元来、才知卓抜な源信が、よき環境に包まれて学問修業を
続けられたのだから、その上達ぶりは目覚ましたかった。
全国から俊秀が結集した叡山においても、なお頭角を現し、
十五歳のころには叡山三千坊に傑出した僧侶として、
源信の名を知らぬ者はないほどになった。

そのころ、時の村上天皇から叡山に勅使が下り、
「学識優れた僧侶を内裏に招いて、講釈を聞きたい」
という天皇の意志を伝えてきた。
当時の仏教界は、国家権力の手厚い保護のもとに発展を
約束されていたから、天皇の機嫌はそのまま叡山盛衰の動向に
連なっていた。
ために、派遣すべき僧侶の人選は慎重を極めたが、
一山の首脳の衆議の結果、白羽の矢が立ったのが、源信であった。

源信は光栄に感激しつつ、全山の期待を担って村上天皇のもとに赴いた。
そして群臣百官の居並ぶ前で堂々と、
『称讃浄土経』(阿弥陀経の異訳本)を講説したのである。


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年若い源信の、豊かな才覚と巧みな弁舌に感嘆した村上天皇は、
「見ればまだ若いが、そなたはいくつか」
と尋ねたが、十五と聞いてさらに驚嘆した。
褒美として、七重の御衣や金銀装飾の香炉箱など、
多くの物を与えられ、さらに「僧都」という高位の称号を
受けられたのである。
使命を全うして帰山する源信に、叡山は惜しみない賛辞を送った。
一躍僧都となり、天下に名声を博した源信の喜びと得意は、
察するに余りあろう。
母を思う源信は、自身の出世をどんなにか喜んでくださるに違いないと、
早速、事の始終を手紙にしたため、褒美の品々とともに郷里へ送った。

ところが、である。
しばらくしてから荷物が、封も切られないまま突き返されてきた。
しかも、添えられた母の歌は、実に意外だった。

後の世を 渡す橋とぞ 思いしに
  世渡る僧と なるぞ悲しき

源信は、母の心が瞬時に分かった。
お前を仏門に入らせたのは、苦悩の人々に、
後生救われる道を伝える僧侶になってもらいたい。
それ一つのためでした。
ところが今のお前はどうでしょう。
名利を求め、処世の道具に仏法を使うとは、
何と浅ましい坊主に成り果ててしまったことか。
天皇とて仏の眼からご覧になれば、迷いの衆生。
そんな者に褒められて有頂天になっているとは、情けない限りです。
なぜに仏に褒められる身にこそ、なろうとしないのですか。
浮かれる心を見透かされた母君の、恐ろしいまでの叱責に、
迷夢から覚める思いであった。

道を踏み外したわが子を悲しまれる鉄骨の慈愛に、
翻然として己の非を悟った源信は、たちどころに褒美の品々を焼却し、
僧都の位をも返上したのである。
名利を求める心を固く戒めて、決意新たに後生の一大事、解決を求めた。

いつの世も、子供の社会的な成功を願い、
実現して家や車をプレゼントされようものなら、
泣いて喜ぶ親が多いのではなかろうか。
出世を誇るわが子を、心を鬼にして叱りつけた母。
その母心に敏感に猛省した源信。
いずれにも驚かずにはいられない。
「この母にして、この子あり」とは、これを言うのだろう。

●弥陀の誓願のみ

死に物狂いで魂の解決に向かった源信が、
峻烈な修業を重ねるほどに思い知らされてくることは、
その厳しさに自惚れる恐ろしい心、煮ても焼いても食えぬ、
お粗末な自己の本性だった。
身につけた天台の教学は、良源門下三千人の中でも他の追随を許さず、
主な聖教は暗誦するほどであったが、学問を極めるほど、
その深さをひそかに誇るという有り様。
捨てたはずの名利の心は、少しもやむことはなかった。
無常迅速のわが身、悪業煩悩の自己、
理においては充分すぎるほど分かっていながら、
本心においては少しも後生の一大事に驚く心がない。
愚かというか、アホというか、迫り来る一大事を前にしてなお、
仏法を聞こうという心を持ち合わせていない。
その悪を懺悔する心もない。
こうなればただの悪人ではなくて、極重の悪人というべきか。
道心堅固な聖者には進みえても、私のような頑魯(がんろ)の者には
とても後生の解決は達せられない。
※頑魯・・・頑固で愚かな者

どうすればいいのか。
ついに源信僧都は、叡山北方の森厳たる谷間の地、
横川の草庵にこもって、極重悪人の救われる道を、
求めるようになったのである。
横川の草庵においても、源信の煩悶の日々は続いた。
来る日も来る日も、寝食忘れて経典やお聖教をひもとき、
一大事の解決を求めた。

やがて歳月は容赦なく流れ、四十歳を過ぎたころ、
たまたま目にした中国の善導大師の著書に、深い感銘を受ける。
大師のご指南に従って、阿弥陀仏の本願こそが、万人の救われる唯一の道であることを知らされ
ついに、弥陀の誓願不思議に救い摂られたのである。


●母への臨終説法

母にもこの真実を伝えたい。
すぐさま故郷の大和国(やまとのくに)を目指して旅立った。
ところが、すでに母は年老いて病床の身となって、
明日をも知れぬ容体であった。
使いの者より母の病状を知り、夜を日に継いで家路を急いだ。


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ようやく三十年ぶりのわが家へたどりついた源信僧都は、
今まさに臨終を迎えようとしている母に、精魂込めて説法する。
母上、どうかお聞きください。
後生救われる道は、本師本仏の阿弥陀仏に一心に帰命するより
他はないのです。
後生暗い心をぶち破ってくださる仏は、
阿弥陀仏しかましまさぬのです。
やがて母君も、弥陀の本願を喜ぶ身となり、
浄土往生の本懐を遂げたといわれている。

源信僧都は、母の往生に万感極まり、こう述懐されている。

「我れ来らずんば、恐らくは此の如くならざらん。
嗚呼、我をして行を砥(みが)かしむる者は母なり。
母をして解脱を得しめし者は我なり。
この母とこの子と、互いに善友となる。これ宿契なり。」
※宿契・・・遠い過去世からの不思議な因縁

母の野辺送りのあと僧都は、横川の草庵に帰り、
母の往生を記念して一冊の書物を著された。
世に有名な『往生要集』である。

以後、源信僧都は、『往生要集』とともに浄土仏教の先達として、
後世にも多大な影響を与え、七十六歳にて生涯を閉じられたのである。



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