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一休さんは蓮如上人には勝てなかった!? [蓮如上人]

(蓮如上人)

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あわれあわれ、存命のうちに、
みなみな信心決定あれかしと、
朝夕思いはんべり
                     (蓮如上人)
哀れだ、不憫だ、死後では間に合わぬ、
生きている間に仏法を聞き求め、
みな一人残らず、信心決定してもらいたい

蓮如上人、最晩年に書かれたお手紙の一節です。

蓮如上人は、親鸞聖人のみ教えを自分の考えを一切入れず、
一器の水を一器に移すかのごとく、正確に全国に広められた
高僧です。
親鸞聖人、蓮如上人のお二方のお叫びは、
みな一人残らず信心決定してもらいたい、これ以外にはありませんでした。

信心決定とは、仏法を聞き求め、平生のうちに阿弥陀仏の本願に救われ、
無碍の一道に出ることです。
無碍とは、一切の碍り(さわり)が、碍りにならない世界をいいます。
死も碍りとならない不変不壊(ふへんふえ)の絶対の幸福のことです。
名声、地位、権力、世の栄耀栄華も、死の巖頭(がんとう)に立てば
三文の価値もない。
一切の喜びはくずれてしまう。
ところが、弥陀の本願に救われた喜びだけは、
死も碍りにならず、金剛不壊なのです。

信心決定せよ、無碍の一道に出よ、絶対の幸福になれ、
親鸞・蓮如両聖人に一貫したご教示です。

なぜ、それほどに。理由があるのです。
「この信心を獲得せずは、極楽に往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」
                   (蓮如上人・御文章)
信心決定せずに死ねば、弥陀の浄土に往生はできず、
必ず、無間地獄に堕つるのだ。

これを後生の一大事といいます。
一大事の解決には弥陀の本願に救われるしかないから、
「一日も片時も急いで信心決定せよ」と説かれているのです。

真宗道俗の中には、これに反発して、
「阿弥陀仏は大慈大悲の仏、我々を地獄に堕とされるはずがない。
信心決定した人だけを浄土に救うなどと、差別されない。
平等の慈悲を持っておられるはずだ。」
と猫も杓子も、みな死んだら極楽、死んだら仏と思っている人が多い。

阿弥陀仏の慈悲は平等でありながら、何故に救いに前後ができるのか。
その疑問を蓮如上人に投げかけたのが、禅僧一休でありました。


●蓮如上人にかなわぬ一休のトンチ

テレビで人気の「一休さん」
どんな難題も、しばらく座禅して頭をポクポク叩いているうちにトンチが浮かび、
相手を負かしてしまう。
ところが、一休さんのトンチも、蓮如上人にはかないませんでした。
同時代の二人は、大の仲良しでもありました。


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○雀の生死

ある時、一羽の雀を握った一休が、尋ねました。
「おい蓮如、この雀、生きているか、死んでいるか」
「死」と答えれば、そのまま逃がし、「生」と答えれば、
ヒネリ殺すつもりなのです。
どちらに答えても負けです。
蓮如上人は、答える代わりに近くの階段を二・三歩登られました。
「その質問に答える前に、当方の問いに答えよ。
私はこの階段をこれから、登るか、おりるか、どちらと思う。」
やはり答えれば、必ず負けます。一休は、一本取られたのです。



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○材木の上に立つ

蓮如上人が山科本願寺を建立しておられた時、奇妙な坊主が、
材木の上に立ち、頭の上に草を載せて、ニヤニヤしている。
作業の邪魔と感じた大工が蓮如上人に申し上げた。

「それは一休だろう。お茶を一杯持って行けば、退散する。」
蓮如上人のご指示通りにしたら、
「さすが蓮如」とお茶をガブッと飲み、引き上げた。

大工が訳を尋ねれば、蓮如上人、解説される。
「何の事はない。木の上に人が立ち、頭に草を載せている『茶』という字を
分解してみれば分かる。(画像を見てください。)
一休は『お茶を一杯くれ』と言っていたのだ」


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○七曲りの松

京都に、「七曲りの松」があった。
「この松をまっすぐに見た者には金一貫文与える。大徳寺住職・一休」
という立て札が立った。
金一貫文は、今日なら百万円である。
以後、松の周囲は人だかりで、何とか一貫文をかせごうと、
人々は、松の木をまっすぐ見ようと努力した。
だが、一向に見ることができない。
ついには梯子をかけ、上から見るものまで現れる。
「一休さんがウソを言われるはずがない。
どこからか見えるのであろう。」

蓮如上人が通りかかられた。
「また一休さんの悪戯か。よし、私はまっすぐに見たから一貫文もらって来よう。」
と、一休のところへ。
「真っ直ぐに見たから、一貫文もらいたい。」
「蓮如か、お前は駄目だ。立て札の裏を見て来たか。」
裏には、「但し、本願寺の蓮如だけは除く」とあった。
一休は蓮如上人にはすぐ見破られてしまうことが分かっていたのだ。

蓮如上人は再び、七曲がりの松の所に戻られた。
「どうでした、一貫文、もらえましたか」
「いや、一休が堪忍してくれと、謝ったから、許してやった。」
「一体、どこから、真っ直ぐに見られたのですか」
「この松を『曲がった松じゃなー』と見るのが、まっすぐに見るということだ。
曲がりくねった松を真っ直ぐに見ようとしているから、見ることができない。
曲がった松は、曲がった松と見るのが、本当に、まっすぐ見るということだ。」

仏教の正見(しょうけん)を教えられたとき、
「さすがは蓮如上人」と人々は感服しました。


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●『御文章』を攻撃

連敗の一休、蓮如上人を一敗地に、まみれさせようと『御文章』のあら探しを始めた。
やがて、「ここはどう考えても矛盾だ」との攻撃点を見つけ、
蓮如上人に一首送った。

阿弥陀には
まことの慈悲はなかりけり
たのむ衆生 のみ助ける
              一休

「阿弥陀仏は平等の慈悲を持った仏と言うが、
『御文章』には『たのむ衆生は助けるが、たのまぬ衆生は助けない』とある。
そんな差別をされる阿弥陀仏は、まことの慈悲のない仏ではないか。
たのむ者もたのまん者も、みな助けてこそ、まことの慈悲というものだろう。」

一休の言い分は、信心決定した人だけ助け、
それ以外は地獄に堕つるというのはおかしいという真宗道俗と同じです。

「この仏をたのまずは、女人の身の仏になるということあるべからずなり」
                     (五帖七通)

「南無とたのむ衆生を阿弥陀仏の助けまします道理なり」
                     (五帖九通)

これらの御文を、矛盾と感じたのでしょう。
一休の意地悪な心底は先刻ご承知の蓮如上人は、歌には歌で答えられました。

阿弥陀には
へだつる心なけれども
蓋ある水に
月は宿らじ 
           蓮如上人

「月は地上の如何なる水にも月影を宿す。
海、湖、川、池、汚れたドブ、草の露、更には肥溜めにすら、
自らの姿を映す。
だが、例外がある。蓋のある水には月は宿らないのだ。
月が差別しているのではなく、茶碗に蓋があるのが問題なのだ。
月が差別しているのではなく、蓋がいけないのだ。
またしても一休、見事に切り返されてしまいました。


(お碗の中の水に月が映っている。)
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●全人類苦悩の真因
      弥陀の本願を疑う心

阿弥陀仏は、今すぐにも助けたい一杯であるが、
我々が心に蓋をしてしまっているため、
阿弥陀仏の大慈悲心が頂けず、救われない。
蓋とは、阿弥陀仏の本願を疑う心、疑情(ぎじょう)です。
雑行雑修自力の心とも言います。

「還来生死輪転家 決以疑情為所止」
(生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す)
                     正信偈

人生に苦悩が絶えず、一時幸福になっても、再び、苦の人生に還ってきてしまうのは、
一体、何が原因なのか。
それは、疑情一つが、全人類の苦悩の真因なのだ。

普通、自分が苦しいのは、お金、財産、名誉、地位に恵まれないからと考える人が多いです。
そうした迷見を釈尊は、「有無同然」と否定されました。
「有無同じく然り」、それらのものは、無くても苦、有っても苦、で、
苦しい点から言えば、同じなのだと、仰せられています。

ノーベル文学賞に輝いた川端康成氏の自殺は、仏説を実証しています。
名誉、地位、財産、すべてを手中にしながらの、ガス管自殺は、持てる者、
なお人生苦の渦中にあった事を雄弁に物語っているのです。

遠くは、戦国の世を統一し徳川三百年の礎を築いた家康の遺訓にもうかがえます。
「人の一生は重荷を背負うて遠き路を行くが如し」
天下人の背になお、耐え難い重荷があり、生涯が苦悩の連続であったと
述懐しているのです。
財物や名声の欠乏が、苦の真因ではありません。
疑情こそ、全人類苦悩の根源と、親鸞聖人は喝破なされたのです。

●本当に助かるのだろうか? 
       疑情こそ、心の蓋

阿弥陀仏の本願を疑う心とは。
阿弥陀仏は、いかなる諸神、諸菩薩、諸仏よりも尊い、最高無上の如来です。
阿弥陀仏が、諸仏の王、本師本仏と敬われる所以は、建立された本願にあります。
本願は誓願とも言い、今日なら「お約束」です。

「弥陀の誓願不思議に助けまいらせて・・・」
親鸞聖人は『歎異抄』の第一章に、
本願に摂取された二十九歳の時の体験を披瀝(ひれき)しておられますが、
本願とは、如何なるお約束か。
「どんな人をも
必ず助ける
絶対の幸福に」
平易に言えば、そうなります。

この本願を聞くと、
「本当に助かるのだろうか?」
「この世から、絶対の幸福に本当になれるのか?」
と、本願に対する疑いがおきてきます。

蓮如上人は、この疑いが、ツユチリ程あっても、救われないと、仰っています。
疑情こそ、まさに蓋であり、これが破られない限り、
全人類は永久に苦しみ続けていかなければならないのです。
真宗道俗は、本願を疑っていながら、気づかない人が多いのです。



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●「ひょっとしたら・・・」で信心が崩壊したお婆さん

昔、金沢に若年の頃から、熱心に聞法していたお婆さんがいました。
六十歳も過ぎたある夜半、ふと目が醒めて
「今死んだらどうなる」と無常を感じたのです。
次の瞬間、心中に「ひょっとしたら、地獄に堕ちるのではなかろうか?」
と後生の心配が生じてきました。
「ひょっとしたら・・・」が、ツユチリ程あっても助からん疑情です。
お婆さんはすっかり助かったつもりでいたのに、ツユチリ程の疑いがあると知らされ、
信心が崩壊しました。
居ても立ってもいられない。
「このまま死ねば地獄、なんとかしなければ」
との思いで、京都へ旅立ちました。

京都である有名な布教使を訪ね、胸底の不安を告白しました。

布教使、「お婆さん、私の質問に答えてみなさい」
「はい、何でしょうか」
「お婆さん、そのままじゃぞ」
「えっ、このままですか」
「ちがう、そのままじゃ」
「だから、このままですか、と聞いているんです。」
「ちがう」
「どこが違うのですか、さっぱり、分かりません」
「お婆さん、私が『そのままじゃ』と言ったとき、なぜ『ハイ』と一言返事をせん。
『このままですか』の『か?』が、疑いじゃということがわからんか」
「そうですか。『か?』がいけなかったのですね。もう一度、お願いします」

もう正体ばれてしまっているのに、再度の挑戦。
「お婆さん、そのままじゃ」
「ハイ」と返事をして、あとは無言の行だ。
しばらく時間が経過したとき、
「本当に、こうやって、『ハイ』と言っておれば、よいのでしょうね?」
と言ってしまった。
「ほら、また出た。その『ね?』が、疑いじゃ」

「どうしたら助かるのか」
「どう聞いたらよいのか」
「どうなったら」
これみな疑いであり、自力の計らいともいいます。
「一切の計らいを捨てよ」と聞かされて、
「計らうまい、計らうまい」と思っている、それもまた計らいなのです。

●「自力は捨てもの」
        合点はたやすいが・・・

疑情ある間は、天皇、大統領といえども迷いの衆生です。
疑情は「雑行雑修自力の心」とも言い、
「雑行雑修自力の心を捨てて、一心に弥陀に帰命」しなければ、救われないのです。
自力は捨てもの、間に合わぬものと合点するのはたやすいのですが、
実地の体験は、難中の難である。
後生の一大事の解決には、自力は間に合うか、合わないか。
実際、全力を尽くして始めて出来ることか、できないことか、
可能か、不可能か、ハッキリ知らされます。


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例えて言えば、クラスで力自慢の小学一年の男子を連れて、
母親が、瀬戸物店へ買い物に行きました。
大バーゲンで、たんまり仕込んだ母親が、重そうに、
荷物を持って店を出ました。
瀬戸物は量の割に重いものです。
それを見て子どもが、
「お母さん、僕、それ持ってあげる、僕、力強いんだよ、
昨日もクラスの相撲で一番だった」と自分の力を誇示します。

○やらせてみる

とてもとても子供の力で間に合うような品物ではないことは、
百も千も承知しています。
「こんな重い物が、あんたなんかに持てますか、落としたらどうするの」
頭から叱りつける母親は、余り、利口とは言われません。

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「そうお、坊や、そんなに強くなったの。
お母さん、うれしいわ、それじゃ、持ってくれる」
利口な母親は、持てないことを充分承知の上で、
一度持たせてみせます。
落としたら大変だから、母親は密かに下に手を回します。
子供は誉められて持ったのだから男の意地だ、何とか持とうと
渾身の力で力んではみますが、とてもかなわぬ重荷と知らされ、
力尽きて、
「お母さん、やっぱり僕の力じゃ無理だ、早く取って!!
落とすよ、早く、早く」  
と、母親にまかせます。
子供は母親が荷物を下から支えていることを知らないから、
驚いて心から素直に母親にまかせるのです。

●自力の心が廃った時、
     他力不思議に摂取される

後生の一大事の解決を目指し、真剣な聞法を重ねて行くと、
最後に、知ったもの、覚えたものも、学問も修養も、
すべて間に合わず、地獄は一定すみかぞかし、
と無間のドン底にたたき落とされた時、自力間に合わなかったと、
雑行雑修自力の心が廃ると同時に、他力不思議に摂取されるのです。

信心歓喜踊躍(ゆやく)とおどり上がり、
阿弥陀さま、こうまでして下さらねば、聞かないしぶとい私でございました。
どうしてこのご恩に報いようかと泣くより他にないのです。
これを弥陀たのむ一念といいます。
まさに心の蓋たる疑情が破られて、阿弥陀仏の大慈悲が徹底する時なのです。

「当流は、たのむ一念のところ肝要なり」 
              (御一代記聞書)

「あながちにもろもろの聖教をよみ、物を知りたいというとも、
一念の信心のいわれを知らざる人は、いたずらごとなり」
(御文章)

共に弥陀たのむ一念こそ、真宗の肝要であることをご教示なされた、
蓮如上人のお言葉です。
                    (カット 太田 寿)


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諦住

本文中に、「猫も杓子も」という表現がありましたが、「禰子も釈子」と思いますよ。いいかえれば、氏子も門徒もということでしょうか。
by 諦住 (2014-04-30 09:54) 

minsuke

諦住さん、コメントありがとうございます。
ご指摘ありがとうございました。
調べてみました。
確かにそれなら意味が分かりますね。

by minsuke (2014-04-30 13:09) 

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