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聖道仏教は消え、浄土仏教のみ残る。 [聖道仏教と浄土仏教]

聖道仏教は、時代の流れによって廃れ、やがて無くなります。
聖道仏教とは、華厳、天台、法華、真言、禅宗など修行をして
自力で助かろうとする教えです。
お釈迦さまご自身が、説かれていることですが、
「正法、像法、末法と、時代が下るとともに仏教が衰え、
やがて滅する時期が到来するであろう。」
と、さらに次のようにおっしゃっています。

釈迦の死後、最初の五百年間「正法」は、教えがあり、
その教えの通り真面目に修行する者があり、
それによってある程度まで証る(さとる)者もある。
教・行・証、いずれも残るであろう。

教・・・教え
行・・・修行する者
証・・・さとる者(さとる者といっても、低いさとりに過ぎない)

ところが、次の一千年間「像法」には、教と行のみあって、
証る者は無くなるであろう。

さらに時代が下って「末法」になると、教えは残っていても、
行・証かなわぬ時期となる。

そして末法一万年の後、釈迦の教法はことごとく滅尽し、
ついには「教・行・証」いずれも絶えて無くなる「法滅」
の時期に入るであろう。







時代
正法
像法×
末法××
法滅×××


それに対して、浄土仏教、すなわち『大無量寿経』に説かれている
「阿弥陀仏の本願」は、正法、像法、末法、法滅の時代になっても、
始終変わらず一切の人々を救うと説かれています。


おおよそ「真実」といわれるものは、三世十方を貫くものでなければなりません。
仏教では三世(いつでも)十方(どこでも)変わらぬものであってこそ、
唯一、絶対、真実の法といわれるのです。

よって、聖道仏教は、正法、像法、末法の時期によって変遷し、
隠帯し、果ては滅尽する、と説かれていますので、

方便の教えであり、真実の仏法ではないことは明らかです。
(方便とは、ウソという意味ではなく、真実を知らせるために説く必要があっただけで、
それ自体では救われる教えではないということ。)


一方、浄土仏教は、時代を超えて、差別を越えて救われるので真実の仏法であり、
お釈迦さまの出世本懐の教えは、
浄土仏教(阿弥陀仏の本願)であった
ということはお分かりになると思います。

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お釈迦さまは、『大無量寿経』の巻頭に

如来、世に出興する所以は道教を光闡(こうせん)し、
群萌(ぐんもう)をすくい恵むに真実の利を以てせんと欲してなり。


「我、この世に生まれ出でた目的は、
一切の人々を絶対の幸福に導かんがためであったのだ。」
と宣言されて「阿弥陀仏の本願」を説かれていることによっても、
明らかです。


さらに『大無量寿経』巻末には、

当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲を以て哀みんし、
特にこの経を留めて止住すること百歳せん。


と出世本懐を述べられていられます。

これは、
「やがて『法華経』などの一切の経典が滅尽する、
末法・法滅の時機が到来するであろうが、
その時代になっても、この『大無量寿経』のみ残り、
いよいよ衆生救済の光輝を放つであろう」

とおっしゃったものですから、永遠不滅の仏法は、
「阿弥陀仏の本願」のみであることを、
釈迦自ら明言されたものです。

されば、釈迦出世の本懐中の本懐は、
この『大無量寿経』にあることは明白です。


だからこそ、この『大無量寿経』を説き終わられた釈尊は、
「これで如来としてなすべきことは、皆これをなせり」
と大満足の意を表せられた
のも、当然でありましょう。

親鸞聖人が七高僧として尊敬されている道綽禅師
これらの経典に基づいて、主著『安楽集』に、
こう断言しています。

我が末法の時の中の億億の衆生、行を起し道を修せんに、
未だ一人も得る者有らず」と。
当今は末法にしてこれ五濁悪世なり、
唯浄土の一門有りて通入すべき道なり。


意味はこうです。
「末法の時節に及んでは、億々の衆生が修行に励み、道に進んでも、
未だ一人も証りを得るものはなかろうと、釈尊はお説きになっている。
されば当今はすでに、五濁に穢されている末法の初期だから、
自力の修行では成仏得道の望みは断たれている。
そこで釈迦如来は、この末法万年の苦痛の炎に焼かるる衆生を悲みんし給いて、
『大無量寿経』を説いて、経道滅尽の世になっても特にこの経のみは留めて、
百歳乃至無量歳に至らしめると、浄土他力の仏教を説きたもうたのである。
されば末法・法滅の一切衆生の救われる道は唯一つ、
浄土の一門・弥陀の本願のみであることが明らかではないか」



●親鸞聖人の聖浄廃立

これらのご指南に従って、聖人は生涯、
「聖浄廃立(聖道仏教を捨てて、弥陀の本願を信じよ)」
を徹底して叫んでいかれました。

「聖道仏教は方便であり、助からないのだよ」と、
『ご和讃』には次のように言われています。

聖道権化の方便に
衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる
悲願の一乗帰命せよ


自力聖道の菩提心
こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき


また
「末法になると『法華経』の教えなどでは助からんようになる」
と、釈迦ご自身が明言されていることを、こう言われます。

末法五濁の衆生は
聖道の修行せしむとも
ひとりも証をえじとこそ
教主世尊はときたまえ


釈迦の教法ましませど
修すべき有情のなきゆえに
さとりうるもの末法に
一人もあらじとときたもう


かつて親鸞聖人も、比叡山天台宗で二十年間、
大曼(だいまん)の修行まで遂行なされましたが、
とても聖道自力の仏教では助からぬ自己に苦しまれました。


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DSCF1051

(親鸞聖人の御修行中)

当時、源平の戦に敗れた平家の落ち武者が、
にわか坊主になって比叡山に逃げ込んでいた。
彼らは、昨日までの酒池肉林の楽しみが忘れられず、
「オイ、息抜きに行こうや」と、夜は徒党を組んで山を抜けだし、
坂本に祇園に島原に遊女と戯れ、昼は殊勝そうに殿堂に座っている。

その浅ましい姿を見るにつけても、
「人の目はごまかせても、仏の眼はごまかせないのだ、
親鸞一人でも如実に修行してみせるぞ」
と二十九歳まで頑張り通された聖人であったが、
「親鸞だけは遊びに行かんぞと、煩悩を抑え通している姿そのままが、
思い通しに思っている姿ではないか。
遊びに行く彼らは、忘れていることはあっても、
この親鸞には忘れることがないのだ。
彼らは、思った通りにやれるだけ親鸞より正直ではなかろうか。
親鸞こそ、仏の眼をごまかそうとしていた浅ましい偽善者ではないか。
親鸞のほうがより罪が重いではないか。」
と、色と欲とで生まれ、
色と欲で死んでいく絶対の悪性を見せつけられて、
悲泣せずにはおられなかったのです。

それはもう、罪悪深重だとか煩悩具足だという、
通り一ぺんの言葉で言い表せる程度の悪人ではなかった。
ただの極重の悪人ではなく、
その極重の悪人だということを、
他人にも自分にも恥じる心さえ持たない自分だと知らされた時、
聖人は、
「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
と悲泣悶絶されたのです。


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この絶望のドン底まで堕ちると、
もう、さかしらな善悪の議論は吹き飛んでしまう。
道徳や戒律はあっても、言葉だけあって意味がなくなる。
親鸞聖人は、『教行信証』にこう喝破されています。

末法の中に於いて、ただ言教のみ有りて行証無けん。
もし戒法あらば、破戒有るべし。
既に戒法無し、何の戒を破するによりてか破戒あらん。
破戒尚無し、何に況や持戒をや。(中略)
末法の中に持戒の者あらば、既にこれ怪異なり。
市に虎有らんが如し。これ誰か信ずべきや。

「現代は末法である。末法というのは釈迦の教法も戒律もない無法無戒の時代である。
すでに無戒の時代とすれば、破戒などというものがあるはずがない。
なぜなら、すでにそこには破るべき戒律がないからである。
経典に破戒をいましめてあるが、それは正法、像法時代のことである。
しかし今日、戒のない時代には、戒を破ることすらありえない。
ちょうど、犬や猫は法律を持っておらないから
彼らに破法ということがないのと同じである。
すでに破戒さえもないのだから持戒があろうはずがない。
このような無戒の時代に持戒の者を探すのは、
市に虎を探すようなもので、誰がまともに信ずる者があるであろうか」

DSCF1053

●聖道諸宗への痛烈な批判

聖道門自力の仏教は共通して、我々に仏性(仏になれる性質)を認め、
その仏性を修行によって磨けば成仏できると教えます。
華厳・天台・法華・真言・禅宗などはいずれも、
その根底をたたけばこれよりほかにありません。
かくて彼らは、
「我々の本性は仏であり、我々の心を離れて別に仏や浄土があると思うのは
迷いの心の骨頂である。
浄土仏教は、自己の仏性を信ずることさえできない愚かな者たちを、
誘引する方便説だ」
と罵倒し、真実の仏法を攻撃するのです。

これに対して親鸞聖人は、こう批判されています。

然るに末代の道俗・近世(ごんせ)の宗師、
自性唯心に沈んで浄土の真証に貶(へん)し。

「しかるに、一宗一派を開いた者たちまでもが、
『阿弥陀仏もその浄土も、われらの心のほかにない。
心のほかに弥陀や浄土を説くのは、幼稚な教え』と見下し、
真実の仏法をけなしている」

これはまさしく、当時の叡山や南都の僧侶は言うに及ばず、
華厳の明恵(みょうえ)や解脱をはじめ、禅宗の栄西、道元、日蓮等の邪師を、
一網打尽に撃破されているお言葉です。

返す刃もまた仮借なく、
「今日の仏教は、まったく廃れきっている。
寺も僧もたくさんいるが、仏教のイロハも分からぬ者ばかり。
儒教をやっている者も多いが、正道邪道のケジメさえも分かっていない。
浄土の真宗のみが盛んではないか」
と次のように記されています。

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、
浄土の真宗は証道今盛んなり。
然るに諸寺の釈門、教にくらくして、真仮の門戸を知らず、
洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路をわきまうること無し

遇い難い仏法に遇いながら、無碍の一道、絶対の境地のあることも知らず、
自性唯心に沈んで浄土の真証を貶しているが、
お前らは一体何をしているのか。
表には賢善精進の相を現じ、立派な格好をしておりながら、
内に虚仮を抱いているではないか。
それで真の証り(さとり)が開けると思っているのか。
聖道仏教はいまだ方便仮門の仏教であるという、
仏教のイロハさえも分かっていないのだ。
早く方便の仏教を捨て、真実の仏法、浄土門他力の教えに帰依して、
人界受生の本懐を遂げねばならないぞ

親鸞聖人は念じ続けておられるのです。


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