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死後も存続する、我々の本当の心は阿頼耶識である。(八識とは!?) [阿頼耶識(我々の本当の心)]

 (真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています。 ) 


いつからか人生に「旬」という言葉を使うようになり、
人気や実力が充実し、注目されている人物を「旬の人」と言っています。
この一語に美や強さ、瑞々しさや明るさなど、
陽性で前向きなメッセージが込められているからでしょう。
ただそれは一過性で、長く保つのは至難のこと。
人気ミュージシャンの椎名林檎さんは、
以前に発表した『旬』という曲で、
次のように歌っています。

「生きているうちはずっと旬だと
そう裏付けて
充たして いまを
感じて覚えて何時もより
生きて、生きて、活きて居よう」

いい時期はすぐに過ぎ去ってしまう。
その上で「生きているうちはずっと旬でいたい」
と歌っているのでしょう。


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画面に映る女性はどうしても20代にしか見えないが、
実際の年齢は50歳近く。
近ごろテレビでよく目にする光景です。
年齢と外見にギャップのある、そんな人々を集めて紹介し、
人気を集めている番組があります。
年齢に抗(あらが)って若さを保とうとする
「アンチ・エイジング」の考えから、
健康や美容に懸命に努めているようです。

20歳も若く見せるのは難しいが“少しでも”と、
筋力トレーニングやウォーキング、肌や毛髪のケアに気を配る人も
多いはず。
肉体の若さは美しさ、強さに通じる。
それを「旬」と認識し、少しでも長引かせる努力をしているのでしょう。
華やかな世界で活躍するタレントや芸能人、スポーツ選手に限らず、
家庭では妻や夫、子や父母をいたわり、
大変だがやりがいのある仕事に精を出しながら、
少しでも明るく、笑って暮らせれば、と夢や希望を胸に抱いている姿を
「旬」だと思う人もあるでしょう。



●仏教で教えるいろいろの「心」

いずれの営みも、心の喜びを求めてのことですが、
一口に心といっても、いろいろあると、
仏教では「八識」が教えられています。

それは次の八つです。


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このうち前の5つを前五識といい、私たちは毎日、
これらを気持ちよく満たそうとしています。

例えば、絶景や美しい絵画、かわいい子供や動物を見て
眼識」を楽しませ、
川のせせらぎや鳥の鳴き声、美しい調べを好んで「耳識」を養っています。
テレビや新聞などから耳目に飛び込んでくる日々のニュースは、
見たくも聞きたくもないことが多いので、
少しでもそれを和らげ、目や耳の保養に、と心地よいものを欲しています。
香をたいたり、香水を使って「鼻識」の快を求める。
そうして時々、おいしいものに舌鼓を打ち(舌識)、
肌触りのいい衣類や人肌のぬくもりを求めるのは「身識」でしょう。
このように五感を刺激し、日々、楽しませてくれるものを
私たちは追求しています。



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●哲学は「意識」の楽しみ

これらに続いて「意識」が教えられます。
哲学者や思想家は、この「意識」を喜ばせ、
楽しませようとする人たちでしょう。




哲人・ソクラテスをある日、
ギリシャで一番の土地を持つアンチモテネスが訪ね、
広大な所有地を自慢し始めた。
地球儀をクルクル回してギリシャを出し、ソクラテスは言った。
「君の土地はどこらへんかいな?」
「いくらオレの土地が広いといっても、地球儀にはのっていないよ」
アンチモテネスが言うと、あきれて彼は、
「情けないね。地図にものらぬ土地を持っているからと言って
威張るものではない。
オレは大宇宙を頭でこね回しているのだ」
磊落(らいらく)にソクラテスは笑ったという。

さすがは哲学者ですね。
学問の楽しみも、この「意識」の喜びで、
これは前五識の楽しみと比べれば、ずっと深く、継続するものですが、
しかしどれだけ「意識」で物事をこね回していても、
目的が分からなければ、キリも際もない堂々巡りになり、
生命の歓喜は得られないのです。

●肉体は衰え、機能は低下する

前五識や意識を一時、満たして「旬」といっても、老いを迎え、
病になれば、肉体や気力は衰え、思考能力も低下していきます。

そうなっては、若い時のような快感は得られないでしょう。

数年前に亡くなった女優の南田洋子さんは、
長く華やかな世界に身を置きましたが、
晩年は認知症となってしまいました。
頼りにしていた五体はやがて衰え、消滅していく。
そういう将来に、今から心配や不安が忍び寄り、成功者といわれた人でも、
突然、心が折れてしまうことがあるようです。

十月、音楽家の加藤和彦さんが、六十二歳で自ら命を絶ちました。
才能豊かで多くの名曲を発表、
団塊世代のトップランナーといわれて活躍していた加藤さんの遺書には、
「今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか。
『死にたい』というより『生きていたくない』。消えたい」
とあったそうです。

人のうらやむような名声や財を手に入れても、
それだけでは心底、満足も安心もできない。
長く生きるほど、身にしみて知らされてくるでしょう。


仏教の目的は魂の救済であり、
八識でいえば八つめの永遠の生命「阿頼耶識」の問題です。
百年ほどで滅ぶ肉体を喜ばすだけの人生観と、
幾億兆年と続く不滅の生命の存在を知らされた人生観は、
決して同じはずがありません。
壮大な生命観を説く仏法から出た、
人種や国籍を超えた万人に通じる思想こそ、
私たち一人一人の人生を根底から変えるパワーを持っているのです。

●人生の目的
     仏凡一体の喜び

では、仏法が説く永遠不滅の幸福とは、どんなものでしょうか。
それについて蓮如上人は『御文章』に、
仏凡一体」と説かれています。
「仏心と凡心が一つになる」
という意味ですが、これはどういうことでしょうか。

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「仏心」とは「仏さまの心」、
「凡心」とは「凡夫(ぼんぶ)の心」のこと。
凡夫とは私たち人間のことです。
先に書いたような前五識の喜びを求めて、
私たちはふだんの生活を営んでいます。


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それらを欲する「貪欲」は、食べたい、飲みたい、一円でも多く得たい、
褒められたい、楽がしたいという欲の心。
しかしこの心で私たちは、多くの罪を作っています。
財や富を得るために他人と競い、出し抜き、相手のものを奪う。
“そうしなければ、生きられない”と正当化する根底には、
オレがオレが、の我利我利の根性があります。


その欲が妨げられると、腹を立てる「瞋恚」。
怒りに任せてだれかれ構わず切り刻み、焼き尽くす恐ろしい心です。

かなわぬ相手には「愚痴」が出てくる。
人の成功を妬み(ねたみ)、不幸を喜ぶイヤらしい心です。
それらの欲や怒り、愚痴の心が口にあらわれれば、相手を殺す、
言葉の暴力になります。

どうせバレないだろう、とインターネットで悪口雑言を書き込み、
それがエスカレートして自殺に追い込む事件が起きていますが、
「語殺」とか「舌刀」ともいわれる恐ろしい言動です。
毎日、おいしいと食べている魚や牛や豚も、皆、命あるもの。
それらを好んで食べるのは、殺生の罪を造っているのです。
自ら手を下さずとも、喜んで食べていれば同罪だと、
仏教では教えられています。

このように私たちは、一時として罪悪から離れられない
存在だと分かるでしょう。

大宇宙のすべての仏から、本師本仏と崇められる阿弥陀仏は、
そういう私たちを必定地獄の極悪人と見抜かれた上で、
哀れだなぁ、かわいそうだと、

「我にまかせよ。
必ず浄土往生間違いない
絶対の幸福にしてみせる」

という誓願(約束)を建てられました。
そして、その誓いを果たすために「南無阿弥陀仏」の名号を
作られたのです。
それは阿弥陀仏の「五劫思惟の願」と「兆載永劫のご修行」という
大変なご苦労の末に成就されたものです。
「五劫思惟」とは阿弥陀如来が大慈悲をもって
私たちを何としても救わんと、
大変な長期間、考えに考え抜かれた、ということです。
「願」は、船なら設計図に当たります。
そして建立された「必ず救う」という誓願を実現するために、
その設計図どおりに、「兆載永劫」という気の遠くなるような長期間、
一瞬たりとも気を緩めることなく、清浄の真心をもってご修行された結果、
罪の造り通しである私たちを、絶対の幸福に救い切る働きのある
「南無阿弥陀仏」の名号を完成なされました。


●最高無上の宝がわがものに

ですから、この南無阿弥陀仏の名号には、
私たちを何とか本当の幸せに救ってやりたいという
阿弥陀仏の御心(仏心)がおさまっているのです。
それはひとえに、私一人に与えて、
永遠の生命の歓喜を味わわせるためなのです。
阿弥陀仏は、そのすごい働きのある名号を、一念で与える、
受け取りなさいよ、と仰せなのです。


私たちが弥陀より名号を賜った時、
その無限の力により、どんな罪の重い者もそのままで、
往生一定の大安心に生かされます。
お釈迦さまが仏教を説かれた目的も、
この南無阿弥陀仏の六字名号を受け取らせるためでした。
釈迦一代の説法を記した一切経は、
実はこの南無阿弥陀仏の六字の解説書であり、
その大功徳は、四十五年間かけても説き切ることができなかった、
と釈尊は説かれています。


その名号を親鸞聖人は『正信偈』に、
功徳の大宝海」とも
功徳の大智海」とも書かれています。

功徳とは幸せのこと。
大宇宙の万善万行が封じ込められた大きな宝の海であり、
これを蓮如上人は、

『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりもなきものなり

と『御文章』におっしゃっています。
たった六字の南無阿弥陀仏の名号に、そんなすごい力があるなんて、
とても思えないだろうが、この六字名号の中には、
どんな人をも極楽往生間違いない身に救う、
無上甚深の功徳利益が込められている。
人間の想像の及ばぬ無限の働きなのだ

もし、世界中の財宝すべてを手に入れたら、
どれほどの喜びか、とても想像できませんね。
南無阿弥陀仏を賜り、名号を一体になることはそれ以上で、
「仏凡一体」

「仏智満入」
といい、阿弥陀仏の仏心を賜り、私と一体になることですから、
この世の宝を手にするのと比較にならぬ広大無辺な幸せなのです。

仏教の目的、なぜ生きるかの答えは、
まさにこの身に救われること。
南無阿弥陀仏と一つになって、今日の一日が尊い、
今の一息はもっと有り難い、
不滅の輝きをもつ「旬」の人とならせていただきましょう。

タグ:八識
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