SSブログ

人生にはゴールがある!‘親鸞聖人と平生業成’ [親鸞聖人]

EPSON001.jpg-1


「人類が今日ほど親鸞を必要としている秋(とき)はない」

作家・井上靖氏の言葉です。
多くの文学者、哲学者を魅了し、
「世界の光」と仰がれる親鸞聖人。
なぜ聖人は、かくも輝きを放たれているのでしょうか。
聖人のご生誕がなかったら、
決して知りえなかった真実に迫ってみましょう。

●歴史上の人物ベストワン

今から八百年前、鎌倉時代に活躍された
浄土真宗の祖師・親鸞聖人。
あるテレビ番組では、戦後出版された本の中で、
最も多く語られた「歴史上の人物ベストワン」と紹介されました。
試みに、近くの図書館に行き、明治以降の文学者、
哲学者の書物をひもといてみたならば、
聖人の言動に共鳴し、感動し、
共感する言葉の数々に出会うでしょう。

* * * * * * * * * * 

「親鸞のようなひとにめぐり会えたことは、
一介の文学者としても、人間としても、
生涯のよろこびである」
            (丹羽文雄『親鸞』)

「親鸞を語ることは私にとって
人生を語ることにひとしい。(中略)
私のまず最初に言うべきことは、
親鸞に出会ったという
その謝念でなければならぬ」
           (亀井勝一郎『私の宗教観』)

「わたくしは、何ということもなく、親鸞はすきだ。
蓮如がすきだ。
すき、嫌いでいうのはへんだけれど、
正直な表現でいえば、そうなる」
            (吉川英治『折々の記』)

「鎌倉というのは、
一人の親鸞を生んだだけでも偉大だった」
         (司馬遼太郎『この国のかたち』)


このような声は、国内のみにとどまりません。
戦後、世界を風靡した
ドイツの大哲学者、ハイデガーは、
老後の日記に次のように記しています。

「今日、英訳を通じて、初めて、
東洋の聖者親鸞を知った。
もし、十年前に、こんなすばらしい聖者が
東洋にあったことを知ったなら、
私はギリシャ語や、ラテン語の勉強もしなかった。
日本語を学び、親鸞聖人の教えを聞いて
世界中に弘めることを、生き甲斐にしたであろう」

なぜ、かくも多くの文学者、
哲学者が親鸞聖人に魅了されているのか。

「世界の光」と仰がれるのでしょうか。
それは、
聖人九十年の教えが、人類の光だからです。


●親鸞聖人の教え    
       “平生業成”

親鸞聖人の教えは一言で、
「平生業成」の教えといわれます。
「平生業成」は、聖人九十年のすべてを
漢字四字で表された一枚看板なのです。


「平生」とは、死んでからではない、
「現在、生きている時」ということ。

親鸞聖人の教えは、平生の教え。
生きている今のことを教えられた方が親鸞聖人です。
次に「業」とは、仏教では「ごう」と読みますが、
大事業のことです。
大事業と聞くと、
一代で世界的企業を作り上げた本田宗一郎や
松下幸之助のやった事業、
あるいは、オリンピックで金メダルを獲得したり、
ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で
優勝した偉業などを思い浮かべるかもしれません。
確かにそれらも大事業に違いありませんが、
ここでいう大事業とは、「人生の大事業」、
言い換えれば、「人生の目的」のことです。

人は何のために生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
どんなに苦しくても、
生きていかねばならないのは何故か。
これが、人生の大事業であり、
人生の目的です。
先に挙げた、「金メダルを獲得」
「世界一の会社を作る」などは、
「生きがい」と呼ばれるものであって、
「人生の目的」ではありません。

●「今後も努力精進して生きたい」
       生きがいとは?

学問や芸術、スポーツ、囲碁、将棋、
書道、華道、お茶の道など、
「生きがい」は人それぞれいろいろあります。
「生きがいのある毎日」は、だれもの望み。
ゴールデンウィークともなれば、観光やレジャー、
趣味や生きがいに興じる人も多いでしょう。
確かにそれらは爽快感や充実感を与え、
明日への活力となります。
しかし、欠点があります。
それは、どこまで極めても卒業もなければ
完成もない、ということです。

「ヒットを打つことは、
打てば打つほど難しくなり」と言うのは、
一昨年、大リーグの年間最多安打記録を
塗り替えたイチロー選手。
868本のホームラン記録を持つ王監督に、
「打撃が簡単なものだと思ったことはありますか」
と尋ねると、
「そんな時期は一度もなかった」
「コツをつかんだと思っても、
すぐにどっかに消えちゃうもの。
それはやめるまで続くものだ。」
世界の王にしてしかり、なのです。


EPSON002.jpg-2

トリノオリンピック・女子フィギュアスケートで
金メダルに輝いた荒川静香選手は、
帰国後の記者会見で、こう語りました。
「金メダルは私の人生で最高のもの。
このメダルのように輝いていきたい。
そうなれるように、努力精進していきたい」
5歳でスケートを始め、
小学3年生の時には三回転ジャンプをマスター。
天性の才能を認められながら、
なかなか結果は出ませんでした。
平生16年、世界選手権で優勝し、
ようやく女王の座に。
周囲の期待が高まる中、
しかし本人は現役続行を悩み、
成績は低迷します。
「このままで終わりたくない」
そう奮起して研究と努力を重ね、
再び上り詰めた世界の頂点。
それはまさに人生で最高の勲章でしょう。
しかし彼女は、このメダルのように輝きたいからと、
「さらなる努力」を誓っています。
今回、無念の涙をのんだ選手は、
次回に夢馳せて気づかないかもしれませんが、
世界一になっても、それでスケートの道が
完成するわけではありません。
銀盤の女王ですら、次のステップを見据え、
一層の努力精進を余儀なくされる。
「生きがい」といわれるものには、
「これで求まった、完成した」
ということはないのです。

EPSON003.jpg-2


●「死ぬまで求道」は素晴らしい?

「それがいいんだ、
完成したと思ったら進歩がない」
「死ぬまで求道こそが素晴らしいのだ」
たいていの人は、そう言うかもしれません。
だが、本当にそうでしょうか。

落ち着いて、よく考えてみれば、
「死ぬまで求道」とは、「死ぬまで求める」こと。
「死ぬまで求める」とは、
「死ぬまで求まらない」ということです。
死ぬまで求めているものが得られないことが、
どうして「素晴らしい」といえるでしょうか。

例えば宝くじでも、
「どうせ当たらない」と言いながら、
「ひょっとしたら」と思うからこそ買うのであって、
絶対当たらないとハッキリしている去年の宝くじを
買う人はありません。



EPSON004.jpg-2

●求めても、求まらない繰り返し

勉強にせよ、仕事にせよ、
「求める」ということは、苦しいことです。
それでも私たちが求めるのは、求めていけば、
いつか心からの満足が得られると思うからでしょう。
それが、どれだけ求めても手に入らないとしたら、
どんな一生になるでしょうか。
春、灰色の受験生活を乗り越えた新入生が、
キャンパスにあふれます。
長く苦しい受験生活に耐えてきたのは、
大学合格というゴールにたどり着いたら、
きっと満足できると信じてのこと。
ところが、「よーし、これからバラ色の大学生活を楽しむぞ」
と意気込んだのも束の間、
やっと勝ち得た合格の喜びは数ヶ月も続かず、
退屈な授業、同じことの繰り返しの毎日に、
「こんなはずでは」と肩を落とす人は
少なくありません。
気を取り直し、難関の資格試験や、
厳しい就職戦線を突破して、
「さあ、これから思う存分、活躍するぞ」と
希望に胸膨らませても、
気がつけば、雑務やトラブルの対処に追われ、
残業、残業の毎日。
「こんなはずでは」のため息が聞こえてきます。

大学には入った、就職はしたものの、
本当に求めていたものは得られない、の繰り返し。
「人の一生は 重荷を負うて 遠き道を行くがごとし」
の家康の述懐が、自分自身に重なります。

「あぁ、どこまで求めたら、満足できるのだろうか」
たとえ好きなことをして、
成功している人でも同じです。
レギュラー番組を何本も抱え、
軽妙なトークでお茶の間を沸かせた
人気タレント・島田紳助さんは、
以前に、次のように告白しました。

  *   *   *   *   *

「この世界でやりたいことも、
もうほとんど残っていない。
それで、このところへこみっぱなしなのだ。
これから何をすればいいか、
正直いってわからない。
山登りと一緒で、楽しいのは登るときなのだ。
頂上に着いて、気がついてみたら何もない。
だからそういう意味では、
今は本気で心の底から楽しいことが何もない」

               (『哲学』)

「下積みの苦労」という言葉もあるように、
どの世界でも、一流になるには相当な努力と忍耐が
要るに違いありません。
ところが、そうやって頂点にたどり着いた人も、
期待していた満足感がどこにもなく、
途方に暮れているのです。
達成すれば終わってしまう、
そんな目標だけを追い続ける一生は、
どんな人生になるでしょうか。


目標にたどり着けば、「自分は達成した」
という一時的満足はあっても、時間とともに薄れ、
またスタート地点に逆戻り、
「今度こそ・・・」と、さらなる苦労や始まります。
一点の周りをグルグル回るのみで、
「人間に生まれてよかった」という、
生命の歓喜は永久にありません。


報われない人生をショーペンハウエルは、
「苦痛と退屈のあいだを、
振り子のように揺れ動く」と形容しました。
「卵の殻ほどのもの」を駆け抜け争い、
“山のむこうに幸せが住む”希望に欺かれ、
安心も満足もないまま、
死の腕(かいな)に飛び込んでいく。
それは人生ならば、
まさに悲劇ではないでしょうか。
死ぬまで求めるのは、
死ぬまで苦しむことに他なりません。

●楽しいのは死を忘れている間だけ

それでも、「いや、求まらなくてもよい、
求める過程が楽しいのだ」
と言う人もあるかもしれません。
「求める過程が楽しい」とは、
例えば囲碁の対局で数手先を読み、
「ここ」と決めて石を置く。
「さあ、相手はどこに打ってくるか」
という時の楽しさ。
予想外のところへ石を置かれ、
「いや、なかなかやるな。じゃあ、次はどこへ打つか」
と考える時の面白さ。
そういった喜び、楽しみのことを言っているのでしょう。
なるほど、そんな喜びなら、どこにでも転がっていそうです。
しかし、それが「楽しい」のも、
「死」を忘れている間だけでしょう。
命のともしびは有限です。
人生には終わりがある。
趣味の熱中から現実に戻ったその時。
夜、床に入って眠りにつくその時。
ふと、やがて来る死の不安に
襲われることはないでしょうか。

「人生の目的は何ですか」と問いかける、
こんなエッセーが掲載されたことがあります。
「資格を取ったり、習い事をしたり、健康であることは
確かに人生を豊かにする大きな要素の一つであるでしょう。
しかし、それはわかるんだが、
でもね、あなたは死ぬんだよ、やがて死ぬんだよ、
という魂の奥底からのささやきはないのでしょうか。(中略)
子供に学費がまだかかるから、人並みな生活を送りたいから、
たまにはゴルフを楽しみたいから、
プライドを保つためには、飲みにも行きたいし、旅行もたまには、・・・。
そういう理由をつけて、本当に死ぬまで、人生の目的を考えることを
先へ先へと押しやりながら結局死んで行く、
という人生を歩んでいるんではないか、という恐れがあります」

      (田中鶴昭『人生の目的は何ですか』
         平生11年3月・建設物価調査会会計検査資料)

「死がそこまで迫っているのに、趣味にうつつを抜かしていてよいのか」
という不安は、
人生の終幕が近づくにつれ、次第に大きく膨らんできます。

その時、これまで生きがいとしてきた明かりは、木っ端微塵に打ち砕かれ、
暗黒の後生へ飛び込んでいかねばなりません。

●人生の目的は、
     未来永遠の幸福に生かされること

「難思の弘誓は、難度海を度する大船」
              (教行信証)
“弥陀の誓願は、苦しみの波の絶えない人生の海を、
明るく楽しく渡す大きな船である。
この大船に乗ることこそ、人生の目的である”

こんなジゴクから地獄への綱渡りをしている私たちを救い摂り、
未来永遠の幸福にしてみせると誓われているのが、
本師本仏の阿弥陀仏のお約束(弥陀の誓願)です。

“この弥陀の誓願に救い摂られ、
「よくぞ人間に生まれたものぞ!」に生命の歓喜を得て、
未来永遠の幸福に生かされることこそ、人生の目的なのだ”

聖人の解答は、確信に満ちて簡潔です。
万人共通の、この人生の目的を、平生業成の「業」の一時で
表されているのです。



EPSON005.jpg-2

●この世でハッキリ救われる

最後の「成」とは、「完成する」ということ。
すなわち、「人生の目的は現在、完成できる」
ということです。
「人間に生まれてよかった!」という、絶対の幸福に、
ただいま生かされるということです。
言葉を換えれば、「この世でハッキリ救われる」ということです。
二十九歳の春、弥陀の誓願に救われ、人生の目的完成された聖人は、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言」
           (教行信証)

“まことだった、本当だった、弥陀の誓いにうそはなかった!”
と叫ばれています。
「摂取不捨」とは、ガチッとおさめとって、
捨てられない幸せということで、
絶対の幸福のこと。
「絶対の幸福に助ける」という弥陀の誓願は本当だったなあと、
自らの救われた歓喜を告白されているお言葉です。
弥陀の救いは火に触ったよりもハッキリするのです。
弥陀の誓いどおり、絶対の幸福に救われた時を、
「他力の信心を獲た」とか、「信心決定した」とかいわれます。
これひとえに、阿弥陀仏のお力(他力)によって、
この幸せにさせていただけた、ということがハッキリしますから、
「他力の信心」といわれるのです。
しかも阿弥陀仏の救いは一念でなされます。
阿弥陀仏は、「ひとおもい」で絶対の幸福にしてみせると
誓われているからです。
これを聖人は、「一念往生」とか「一念の信心」ともおっしゃっています。

「然れば(しかれば)平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり」

“永遠の浮沈は、平生の一念で決定する”
人生は、決してゴールなき道ではありません。
「ああ、生きてきてよかった!」と喜べる決勝点がある。
心から歓喜の泉がわき上がる世界。
絶対色あせない、未来永遠の幸せ、この苦悩渦巻く人生が、
光明輝く人生になるのです。
「だからどんなに苦しくても、この目的果たすまで、生き抜きなさいよ」
と、聖人は私たちに呼びかけておられます。
“人生には目的がある。あるから早く完成せよ”
これ以外、聖人九十年のメッセージはありません。


●完成したら、つまらない?

人生に完成がある、卒業があるというと、
「完成したら、つまらんじゃないか」という人がありますが、
つまらないどころか、完成してからが、本当の人生の始まりです。
卒業式で、「卒業したら、あとはブラブラ遊んでおれ」
という先生はいるがずがない。
いわんや人生の目的卒業したら、世のため人のため、
何ものにも恐れず、粉骨砕身の大活躍をせずに
おれなくなるのは当然でしょう。
聖人の燃える恩徳讃(おんどくさん)は、そのお気持ちの表明です。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし   (恩徳讃)

非難攻撃の嵐の中を「たくましき親鸞」と称賛される、
あの不屈の大活動は、人生の目的を完成された二十九歳から
始まったのです。
「死ぬまで求道」しか知らぬ人類に、
「人生のゴール、ここにあり」と叫び続けてくだされた親鸞聖人こそ、
まさに世界の光でありましょう。



タグ:親鸞聖人
nice!(2)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

nice! 2

コメント 1

シーゲル名鐘

阿弥陀様に平身低頭するが、
某教祖様には平身低頭するつもりはない!!
by シーゲル名鐘 (2015-02-27 22:33) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。