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全人類は、重病人だ! [阿弥陀仏]

あなたは自覚しているか
全人類は、重病人だ!
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「仏教は難しい」と一般の人は思っている。
本末を聞かないから、である。
昔から、
「物に本末あり、事に始終あり」
と言うように、何事も、最初から最後まで、
順序よく聞かねば、理解できない。

●旅人と三人の酒飲み

一部だけを聞いて、早合点して失敗するというケースもある。
江戸時代のこと。
名月の晩に酒飲み三人が集まって、庭先に床机(しょうぎ)を出し、
中秋の名月を眺めながら、チビリチビリやっていた。
この三人、俳句の趣味もあった。
満月を愛でながら、短冊を手に、句をひねってもいる。
しかし、なかなか、会心の作をいえるほどの俳句はできなかった。
その時、庭の低い生け垣の向こうを旅姿の老人が通りかかった。
三人、飲むほどに酔うほどに、
「おい、そこへ行く旅の衆、ちょっと待ってくだされ。
ワシら、あの月を眺めながら、酒を飲み、俳句を作っているのだが、
そう急ぐこともなかろう。
少し休んでワシらの仲間に入り、酒でも一緒に飲まんかな」
「それは結構でございますね。
では、仲間に入れていただきましょう」
旅の老人、仲間になって、酒をよばれることになった。



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しばらくして、三人が、
「ワシら、俳句を作っているが、あんたも一句如何じゃな」
と勧める。
旅人は「そうですか。これも何かのご縁ですね。
それでは下手ですが、一句よませてもらいましょう。」
と、紙と筆を受け取った。
しばらく月を眺めた後、句が浮かんだたしく、
筆をとり紙にサラサラと書き始めた。

三人がのぞいてみると、そこには、
「三日月の」
とある。
三人、驚いて、
「オイオイ、旅の衆、しっかりしなさいよ。
もう酔ってしまわれたのかな。今は三日月ではありませんぞ。
欠け目のない満月ですよ、間違ったら駄目ですよ」
と、口々に嘲りはじめた。
老人は意を介さず、ニッコリ笑って「しばらくお待ちください」
と言い、次の句を書いた。
「頃より待ちし 今宵かな」
と、句を完成したのである。

三日月の
   頃より待ちし
      今宵かな  芭蕉

三人は、句のすばらしさに驚き、また、その老人が、
俳聖の松尾芭蕉と知ってド胆を抜かれた。
と同時に、俳句の元祖の芭蕉に「三日月の」という上の句を見ただけで、
さんざん、嘲った事を、平謝りに謝らざるを得なかった。
下の句まで、本から末まで知ってから感想を述べれば、
こんな恥をかく必要はなかった。
上の句だけで、全体を評価しようとしたのが誤りであった。
やはり、本末、始終を聞くことが大事なのだ。


●病人と医者

仏教も、本末を聞くならば必ず、理解できる。
そこで、我々を病人に例えて仏教の本末を語ろう。
ここに病人がいる。
すると病気を何とかして治してやろうという医者が現れる。
医者は、素手では病気を治せないので、薬を作る。
その薬を病人に与えると、病気が治る。
全快した病人は医者に、お礼を言わずにおれない。
こう、筋道立てて話せば、誰でも、理解のできることだが、
これは本から末に向かって説明しているからである。


もし、
「お礼を言ったから病気が治った。
病気が治ったから薬ができた。
薬ができたから医者が現れた。
医者が現れたから、病人がいた」
こう言ったとしたら、チンプンカンプン、誰も理解できないであろう。
本末顛倒(ほんまつてんどう)した話だからである。

元の分かりやすい話に仏教をあてはめてみよう。
我々という病人がいたから阿弥陀仏という医師が現れられた。
阿弥陀仏は素手では我々の病気を治せないので、
六字の名号という薬を作られた。
その薬を病人の我々が頂くと、病気が治る。
それを信心決定という。
信心決定したら阿弥陀仏にお礼を言わずにおれなくなり、
仏恩報謝の念仏を称える。
衆生、阿弥陀仏、六字の名号、信心決定、念仏、
これらは、今、述べたような関係にあるので、
これをよく理解することが、極めて大切である。


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●難治の三病

仏教では、我々を病人と教える。
釈尊は、全人類が、難治の三病にかかっていると
『涅槃経』に説かれ
、親鸞聖人も、
『涅槃経』のお言葉そのままを『教行信証』に引用しておられる。

●無明業障の
     おそろしき病

次に蓮如上人は『御文章』に「無明業障のおそろしき病」
と教えておられる。
今回は、蓮如上人のお言葉に従い、
我々のかかっている「無明業障のおそろしき病」
とはいかなる病気なのか、解説していこう。

「恐ろしき病」と言っても、肉体上の病気ではない。
心の病気であるから、病院で精密検査しても一向に発見されない。
仏法のレントゲンでなければ、分からない病気だ。

●自覚症状なき重病人

この「無明業障」という病気のおそろしさは、
自覚症状のないところにある。

ちょうど、ガンのようなものだ。
ガンは、初期には自覚症状がほとんどない。
症状があらわれて、病院へ行く頃には手遅れになっている。
ガンでも、早期発見ができれば、対処の仕方があるのだが、
痛くも痒くもないからかかっているという自覚がないのである。



同じように我々も、無明業障という病気にかかっていながら、
そのような重病人だという自覚がまったくない。

だから、阿弥陀仏という医師に治してもらおうという心がない。
仏法を求めようという気持ちが起きてこない。
病人である証拠に、皆、苦しんでいる。


●人生は苦なり

家がない、金がない、子供がいない、と苦しんでいる人もあれば、
その逆の人もある。
無理して買った住宅のローンに追われている人や、
広大な宅地の相続税が払えずに苦しんでいる人もある。
結婚した相手に裏切られて泣いている人もあれば、
育てた子供が不良化して苦しんでいる人もある。
釈尊は二千六百年昔に、
「人生は苦なり」と喝破(かっぱ)された。
生きている人は、みな苦しみ悩んでいるということだ。
「有無同然」とも断言しておられる。
金、財産、名誉、地位、それらのものが、無い人も、
ある人も同じように、苦悩しているのだ。

●金の鎖、鉄の鎖

釈尊は、財物のある人は、金の鎖でしばられている、
無い人は、錆びた鉄の鎖でしばられている、と例えておられる。
有っても無くても、苦から離れられない。

越えなばと
 思いし峰に  
    来てみれば
なお行く先は
  山路なりけり

ちょうど、険しい山道を旅する人は、
あの峰さえ越えたら、あとは楽だろうと思って歩く。
ところが、一山越えれば、
すぐ次の山が待っているのだ。

人生もまた同じで、苦の連続ではないか。
独身時代は、結婚したら幸福になれると思う。
結婚してみれば、いよいよ本格的な人生の苦の始まり。
嫁、姑の争い。夫婦間の断絶。子育ての苦労と、苦は続く。
その間に戦争があったり夫に死別したり、誰もが、
苦の連続の人生は、語るも涙、聞くも涙、
小説にすればベストセラー間違いなしと思っている。
だから、繁栄を享受している現代日本においてすら、
自殺者は一向に減少しない。
それどころか、二、三十年前と比べれば、
増加の傾向にあるというのだ。
なぜ自分だけがこんなに辛いのか、苦しいのか、
と誰もが思っている。
まさに病気なのである。


肉体が健康なら、梅干しだけでご飯を食べてもおいしいが、
高熱にうなされている時は、山海の珍味といえども、
おいしく食べられないではないか。
太平洋戦争直後の物資欠乏した時代からは、
想像を絶する飽食の時代を、
なぜ、心から楽しく幸福に生きられないのか。
心が病気だからである。
その病気の名は「無明業障のおそろしき病」。


●無明とは煩悩
   代表が、欲、怒り、愚痴

「無明」とはここでは煩悩のことである。
(※この無明は、無明の闇の無明ではないです。)
我々には百八の煩悩があると釈尊は教えられ、
親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」と仰せられた。
「煩」とは「煩う」。「悩」は「悩む」。
我々を煩わせ、悩ませるものが百八つある。
その代表が三毒の煩悩といわれる、貪欲(とんよく)、
瞋恚(しんに)、愚痴である。
貪欲とは、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲を貪る心である。
瞋恚とは、欲が妨げられた時、怒る心である。
愚痴とは、因果の道理が分からず、他人の幸福をネタミ、ソネミ、
自分の不幸を他人のせいにして、うらむ心である。
これらの煩悩で悪業を造り続け、その悪業が種々の障りとなっているから、
「無明業障」といわれるのだ。


どれほどの悪業を重ねているのだろうか。
釈尊は『大無量寿経』に、
心常念悪(心は常に悪を念じ)
口常言悪(口は常に悪を言い)
身常行悪(身は常に悪を行い)
曽無一善(曽って一善もなし)

と、人間の実相を道破された。
「常に」とは「常なることひまなかれ」一分、一秒の休みもなしに、
の意である。
微塵の悪も見逃さない仏眼にうつる我々の実相は、
まさに親鸞聖人が『正信偈』に書かれた通り「一生造悪」
「極重悪人」
なのである。

我々の掌、肉眼や虫眼鏡でみるなら、そう汚いとは思わない。
しかし、顕微鏡で見たら、どうだろう。
大腸菌、その他のバイ菌が、ミミズの如く、
無数に這っているに違いない。
冗談にも、きれいな手とは思えないだろう。
法律や道徳は、肉眼、虫眼鏡の類である。
仏教は顕微鏡なのだ。

「掌中(てのひらじゅう)、どこもきれいなところはない。」
と言うように、心、口、身は常に悪に汚れていると、言われるのだ。

●蛇か蠍(サソリ)のような心

我々の心は、どのような、悪業を重ねているのであろうか。
親鸞聖人は、
悪性さらに止めがたし、
心は蛇喝(じゃかつ)のごとくなり
と懺悔告白なされている。

とても他人に言えないような悪性が止まらず、
心は蠍(さそり)を見るようにゾーッとするほど恐ろしい。
美しい女性を見れば、愛欲の心が即座にうごめき、
心中でその女性を犯している。
気にくわない者は、死んでくれたらよいと、
願い続けているではないか。
鉄道事故でも病死でも、何でもよいから、死んでほしいと、
思い続けている心がある。
実の親でも、病気で長患いとなれば、
看病疲れから「いいかげんに死んでくれればよいのに」
と心で殺す五逆罪。
隣に倉が建つと、こちらは腹が立つ。
立派な家が建つとネタミ、ソネミの固まりとなってしまう。
挙げ句、隣の不幸を願う心が生じる。
「隣は、どこで金儲けしたのか。
相当、借金して、無理しているのでないか。
それにしても、腹が立つ、隣の主人、
交通事故か何かで死んでくれれば、面白いな。
借金を返せなくなり、売りに出したら、
叩いて叩いて叩きまくり、徹底した安値で買い取ってやろう。
そうしたら、どんなに気持ちのよいことか」
そんなことを思いつつも、隣の主人と顔を合わせれば、
「立派な家を建てられましたね。
毎日、見て楽しんでおりますよ」
と、平然とお上手を言っているではないか。
旅先の火事は大きいほど面白い、と言われる。
他人が突然出火にあわてふためいている姿を、
眺めて楽しむ心があるのだ。
恐ろしいことではないか。
欲、怒り、愚痴で、日々、どれだけの悪を造っているのであろう。


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●身体で造る悪業

加えて、口や身でも、悪の連続である。
殺生罪とは、生き物の命を奪うことだ。
直接、殺さなくても、殺した魚や肉を買って食べていれば同罪だ。
生まれてから、今日まで、我々は、どれ程、生命を奪ってきたことか。

あののろい牛でも、屠殺場にひかれていく時は、
目に涙をためているといわれる。

これまで何百、何千、いや何万の生き物の命を奪ったに違いない。
まさに限りない悪業を積み重ねている。
すでにこれまで造り続けてきた悪業は確実に業の障りとなって
我が身の人生に悪果として、次々と生えているのだ。

まさに悪業のナワで、ギリギリに縛られているのである。
その無明業障の恐ろしき病を治して下さる名医が、
本師本仏の阿弥陀如来だ。


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