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刹那の命、なぜ生きるか。(阿弥陀仏の本願) [阿弥陀仏]

十方衆生が相手の
     阿弥陀仏の本願


星空を眺めて想う 
       刹那の命  なぜ生きるか

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都会の人は可哀想である。
満天に、無数にきらめく星空を、スモッグのために
なかなか見られないからだ。
そこへゆくと、富山県小杉町などはよい。
見上げれば、雄大な世界に吸い込まれるかのように思える。
わずかな土地を奪いあい、裁判ざたになったり、
戦争まで起こしている人間社会がバカらしくもなるではないか。
大宇宙から見れば、地球は星クズの一つに過ぎず、
その中にうごめく人間は、なんと表現したらよいのだろう。

かまびすしく鳴くセミも、
地上へ出て一週間で死ぬと言われる。
日本人ならば人生80年、しかし宇宙の生命と比べれば、
それがどうした。
セミよりもはかない、一瞬のできごとではないか。


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藤村操


「悠々たるかな天壌、
遼々たるかな古今、
五尺の小躯をもって
この大をはからむとす。
ホレーショの哲学、
ついに何等の
   オーソリティに
 価(あたい)するものぞ。
万有の真相は
   唯一言にして悉す(つくす)。
曰く『不可解』。
我この恨みを懐いて(いだいて)煩悶
ついに死を決す」

明治36年5月22日、日光華厳の滝に投身自殺した、
藤村操(ふじむらみさお)の遺言である。
旧制一高で西洋哲学を学んでいた18歳の藤村操が、
巌頭の大樹の幹を削り、書き残したもので、
「巌頭の感」と言われる。

二ヶ月後、滝壺で遺体が発見されると、
一大センセーショナルが巻き起こった。
明治初期、「デカンショー、デカンショーで半年暮らす」
とうたいはやされるほど、西洋哲学は熱狂的に受け入れられた。
「デカンショー」とは、デカルト(仏)、カント(独)、
ショーペンハウエル(独)という高名な哲学者の名前から
作られた言葉である。
彼らの哲学を学んで半年、残り半年は寝て暮らすという、
当時の学生気質(かたぎ)だった。
ところが、西洋哲学を学んだ天才青年の結論は、どうだったか。
「悠々たるかな天壌」
人間の存在に比べれば、あまりにも大きな天地自然。
「遼々たるかな古今」
はかない人間の寿命に比して、宇宙の歴史は悠久である。
「五尺の小躯をもってこの大をはからむとす」
五尺の体で、人生の意義を考えてみた。
「ホレーショの哲学、ついに何等のオーソリティに価するものぞ」
西洋哲学は、私に何も教えてくれなかった
「万有の真相は唯一言にして悉す(つくす)。
曰く『不可解』」
結論はただ一言、「人生は不可解」である。
この一瞬の人生、何のために生まれてきて、なぜ生きるのか、
生きねばならないのはなぜか。
「生きる目的は不可解である」と、
藤村操は言いたかったのだ。


以後、人生に悩む青年が後追い自殺を繰り返し、
四年間に185人もが、華厳の滝へ投身している。
「哲学を学ぶと自殺する」とまで言われ、
親は子に哲学をさせないようにしたという。

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●伝染する自殺

藤村操の例からもわかるように、自殺は伝染する。
ペスト(黒死病)は、ネズミを媒介として大流行した。
自殺はマスコミが媒介する。
報道が自殺志願者を駆り立て、実行へと走らせるのだ。

昭和61年に、アイドル歌手だった岡田有希子が、
18歳で7階建てのビルから飛び降りたときも、
後追いと見られる遺書を残し、少年少女が次々と自殺した。
この年の日本の自殺者は、25000人を突破している。
(現在は、毎年3万人ほどの自殺者がいます。)
それだけ、自殺志願は多いのだ。
1日、65人に上る自殺者の陰で、
その4倍とも10倍とも言われる未遂があり、
さらに機会があらば自殺したいと思っている、
危険性の高い(ハイリスク)人がいる。
これらの人が、有名人などの自殺を聞き、
「私も同じ場所で・・・」と思うと、
たちまち自殺の名所ができてしまう。
報道各社も、気を使っているようだが、
「『なぜ生きるか』が不透明」という、
人間存在の根底にあるテーマに、
切り込むジャーナリストはいない。


●自殺者は大バカ者
      死後に待つ地獄の苦

仏教では、自殺者は愚か者と言われている。
ある日、釈尊が、托鉢の道中、
大きな橋の上であたりをはばかりながら一人の娘が、
袂(たもと)へ石を入れているのを見られた。
自殺の準備である。
近寄られた釈尊は、やさしく事情を尋ねられた。
「お恥ずかしいことですが、
ある男と親しくなり妊娠しましたが、
その後捨てられました。
世間の眼は冷たく、おなかの子供の将来なども考えますと、
死んだ方がどんなによかろうと思います。
どうにかこのまま、見逃してくださいませ」

泣き崩れる娘を釈尊は、哀れに思われながらも、
厳然と仰せられた。
お前は何というバカ者なのか。
お前には譬(たとえ)をもって教えよう。
ある所に、毎日荷物を満載した車を引かねばならない牛がいた。
牛はなぜ、こんなに苦しまなねばならなぬのか、
オレを苦しめるものは何かと考えた。
そのとき、この車さえなければ
苦しまなくてもよいと思い当たったのだ。
ある日猛然と走って、
大きな石に車を打ち当て、壊してしまった。
ところが牛の使用人は、
やがて、鋼鉄製の車を造ってきたのだった。
今までの車の何百倍、何千倍も重い。
牛は、軽い車を壊したことを深く後悔したが、
後のまつりであった。

お前は、肉体さえ壊せば
楽になると思っているが、
死ねば地獄へ飛び込むだけだ。
お前にはわからぬことだろうが、
地獄の苦は、
この世の苦しみぐらいではないのだ。


釈尊は諄々(じゅんじゅん)と、地獄の苦しみを教えられた。
娘は初めて知る真実の仏法に驚き、
仏門に入って救われたという。

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●星空の説法
    真に意義ある人生に

私たちの後生にも、「必堕無間」
の一大事が待っている。
「必ず、無間地獄という苦しみの世界へ堕つる」
と仰った、経典のお言葉だ。
これを「後生の一大事」という。


なぜ私たちは、地獄へ堕ちねばならないのか。
それは暗い心で、
悪のタネまきしかしていないからである。

仏教の根幹は、因果の道理。
道理とは、三世を貫き(いつでも成り立つ)、
十方を普く(どこでも成り立つ)真理をいう。
何万年前も、何万年後も、
また宇宙のどこへ行こうとも、
因果の道理は正しいのだ。

因果とは、原因と結果のことで、
原因なしに現れる結果はありえない。
結果に対しては、
必ず原因を追究するのが仏法である。
原因と結果の関係は、


善因善果 
悪因悪果 
自因自果


と釈尊は仰る。
善い行いをすれば必ず、
善い結果が返ってくるが、
悪い行いには、
必ず悪い結果が引き起こる。
自分のやった行為は、善きも悪きも、
自分に結果をもたらすから、
自業自得とも言われるのだ。

一息切れた後、
堕ちねばならぬ地獄という悪果は、
間違いなく、わが身がまいたタネの結果である。


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そして、後生の一大事を解決することが、
人間に生まれてきた目的だ。
いかに苦しくとも、
自殺してはならない理由も、ここにある。

国会議員も日銀理事も、自殺してしまう。
銀行の貸し渋りで経営破綻に追い込まれれば、
妻子を残して中年男が3人、そろって首吊りしたではないか。
(平成10年の記事です)
すべてこれらは、「なぜ生きるか」の
人生の目的を知らぬからである。

「天上天下 唯我独尊」
「天の上にも天の下にもこの大宇宙で、
唯、私たちに、たった一つの尊い目的がある」と、
釈尊は道破された。
私たちも同じように、生きる目的を持っている。
後生の一大事を解決し、
絶対の自由の世界に生かされることだ、
宇宙の真理である因果の道理に従って、
悪しかできぬ自己を徹見(てっけん)せねばならない。
後生の一大事の解決という大目的に向かってこそ、
一瞬の人生が、真に意義あるものとなる。

美しい星空が、悠遠な彼方より全人類へ、
生きた説法をしているのだ。


●2600年前、驚異の仏知見
       仏教の大宇宙観

古来、人々が夜空を見上げ、
輝く星々に思いをはせてきた大宇宙は、
我々の想像をはるかに絶する広大さである。
現在なら小学生でも知っているような
銀河や銀河団などの知識も、
決して、昔からあったものではない。
概して言えば、近代科学が誕生した16世紀以降の
天文学者らによって得られたものである。

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だが、この天文学的知識を、
2600年前の昔に知見されていた方があった。
仏陀釈迦牟尼世尊である。
物理学者や天文学者等が驚嘆するような卓越した宇宙観を、
釈尊はすでに展開されていたのだ。




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ガリレオ・ガリレイ


ここで仏教の宇宙観を述べる前に、
人類の歴史を少し顧みよう。
近代科学は、ニコラウス・コペルニクスや
ガリレオ・ガリレイらが活躍した
16世紀のヨーロッパで生み出された。
当時の西洋世界は、
キリスト教が人も思想も支配する社会であった。
当時の宇宙観は天動説(地球中心説)に立脚していた。
すなわち地球は宇宙の中心であり、太陽などは、
その周囲を回るという考えである。
この説は、『聖書』の字句に合致するもので、
多くのキリスト教徒に信じられてきた。
ところが、科学が進歩し、望遠鏡が発明されると、
地動説を唱える天文学者が現れはじめ、
教会は権力で彼らを徹底的に弾圧した。
コペルニクスの唱えた地動説に深く傾倒した
ジョルダノ・ブルーノは、
宗教裁判にかけられ、7年間、投獄された後、
焚刑に処せられている。
同様に、宗教裁判で、
ガリレオ・ガリレイは地動説の放棄を命じられた。
しかも、残る生涯をフィレンチェ郊外アルチェトリにある自宅で
幽閉の身となって過ごさなければならなかった。
このように、教会の激しい抵抗を受けたのである。
しかし、今では、誰も地動説を疑う人はいない。

●天文学者も驚嘆

次に、仏教の宇宙観を示そう。
仏教では、人間に生息する世界(地球のような惑星)を、
須弥世界(しゅみせかい)という。
その須弥世界が、千(無数の意)集まった世界を、
小千世界という。
その小千世界の千集まった世界が中千世界であり、
中千世界の千集まった世界が大千世界である。
これら小千世界、中千世界、大千世界を、
三千大千世界と称するのである。
さらに釈尊は大宇宙を、十方微塵世界と説かれている。
略して、十方世界ともいう。
例えば、
「設い我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、
悉く咨嗟(ししゃ)して我が名を称せずば、正覚を取らじ」
           (大無量寿経)
「光明遍く十方世界を照らし、
念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」 
           (観無量寿経)
などと用いられる。

ここで十方とは何か。
東西南北の四方に、北東、北西、南東、南西を加えて八方、
さらに上方と下方を加えると十方となる。
一般的に、東西南北上下四唯と呼んでいるものだ。

次に、微塵とは、文字通りに、微かな塵の意。
つまり、大宇宙は、東西南北上下四唯の十方に、
前述の三千大千世界が、空中に塵が浮くように存在していると
説かれているのだ。
何とも広大なスケールではないか。


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ここで対比のため、現代天文学による宇宙観を述べよう。
太陽の回りを、水星、金星、地球、火星などが、
それぞれの周期で回っている。
これを太陽系宇宙という。
太陽系は、自ら光を放って位置を変えない太陽のような恒星、
地球のように、その回りを公転する惑星、
さらには惑星の周囲を回る衛星(月)などで構成されている。
太陽系を直径200メートルの円とすれば、
地球は1mmに満たぬ粒に過ぎない。
人類は、月に氷があるらしいとようやく分かったり、
せいぜい火星の表面を撮影しているに過ぎず、
太陽系さえも、未知なる世界である。

ところがさらに、地球109個分の直径をもつ太陽を
直径1cmの球とすると、
最も近い恒星(隣の太陽)ケンタウルス座アルファ星までの
距離は、約290キロ(東京ー名古屋間)になる。
これだけでも、宇宙がいかに果てしないか、分かるだろう。
この広大無辺な宇宙空間で、
星は、一様に分布していない。
無数の星々が集まり、銀河と呼ばれる集団を作っている。
大宇宙には、アンドロメダ銀河や大マゼラン雲のほかにも、
無数の銀河が存在する。


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我々の太陽系が属する銀河系も、その中の一つだ。
我々の銀河系は、直径10万光年で、その中には、
太陽のような恒星が2000億個ある。
さらに、銀河は集まって銀河群を作っている。
また、銀河群より大きな銀河集団の名称として、銀河団がある。
これら銀河群や銀河団は集合して、
直径3億光年ほどの超銀河団を形作っている。
しかしながら、150億光年といわれる大宇宙の広がりには、
まだほど遠い。

現代天文学は、
仏教の宇宙論に酷似していると知らされる。

釈尊が、この大宇宙について説かれたとき、
当時、何人が理解できただろうか。
今日、目覚ましい観測機器の発展で、
ようやく十方微塵世界の概念が
認識できたかどうかと思われる。
物理学者や天文学者が、
仏説の深遠さを驚嘆せざるを得ない理由は、
ここにある。


●釈尊の師 阿弥陀如来

次いで釈尊は、十方衆生と十方諸仏を説いておられる。
これらは、科学では、いまだ未確認の分野であろう。
十方衆生とは、十方微塵世界の衆生の意である。
人類が地球に住むように、大宇宙には、無数の惑星があり、
我々と同じような生命が存在すると説かれる。
また大宇宙には、ガンジス河の砂の数ほどの
仏がましまして、真実を叫んでおられる。

経典には、大日如来、薬師如来など、
仏方の名前が多く見られ、
これらの仏方を十方諸仏という。
釈尊といえども十方諸仏の中の一仏に過ぎず、
十方諸仏が皆、本師本仏(先生)と仰ぐ仏が、
阿弥陀仏なのだ。

人類最高の偉人である釈尊が、
合掌礼拝される仏である。

本師本仏の阿弥陀仏は、
悪因悪果で必堕無間の十方衆生(私たち)を
必ず救い摂ると誓願を建てておられる。

どのようなお約束であろうか。

●歴代の善知識方も涙
      弥陀五劫思惟の願

親鸞聖人は29歳の御時、阿弥陀仏に救い摂られ、
「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば
ひとえに親鸞一人がためなり」
               (歎異抄)
と、五劫思惟のご苦労に感泣なされた。
五劫思惟とは弥陀が法蔵菩薩であられた時、
4億3千2百万年の5倍という長年月をかけて
思惟に思惟を重ねて建立された本願、
お約束のことであり、誓願ともいわれる。


親鸞聖人の師・法然上人も、
「弥陀五劫思惟の願」に涙しておられる。
法然上人は阿弥陀仏に救い摂られた43歳以降、
『大無量寿経』を読まれる時、
いつも弥陀五劫思惟の御文のところで落涙しておられたという。
ある時、弟子がいぶかしく思って尋ねてみると、
この愚痴の法然、十悪の法然を助けんがために
阿弥陀仏が法蔵菩薩となられて
五劫思惟というほどのご苦労をしてくだされたかと思えば
広大なお慈悲のほどが身にしみて涙がこぼれる

と仰せられたという。
阿弥陀仏に救われた人は皆、
法然上人や親鸞聖人が涙を流された
「五劫思惟」のご苦労を知らされ、
ご恩に報いようと恩徳讃の心になる。


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「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
       (親鸞聖人)

インドでは龍樹菩薩、天親菩薩、
中国では曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、
日本では源信僧都、法然上人、
真宗で七高僧と仰ぐこれらの方々も
親鸞聖人と同じく「弥陀思惟の願」に救われ、
それが真実であることを生涯叫び抜かれた
歴史の生き証人である。




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●罪悪深重の十方衆生
     大宇宙の諸仏も力及ばず

では弥陀五劫思惟の願とはいかなるものか。
蓮如上人はそれを『御文章』に述べられておられる。

「十悪五逆の罪人も、五障三従(ごしょうさんしょう)の女人も、
空しく皆、十方三世の諸仏の悲願に洩れて(もれて)、
捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり」
          (御文章二帖八通)

「十悪五逆の罪人・五障三従の女人」とは
罪悪を造り通しの我々十方衆生のことである。
仏教で十方微塵世界といわれる大宇宙には、
地球のような惑星は無限にある。
そこには我々のように苦悩にあえぎながら
この世もジゴク、未来も地獄、
と苦から苦の綱渡りをしながら
生きている衆生が限りなくいる。
これを十方微塵世界の衆生、十方衆生という。


そんな我々を大宇宙にまします
無数の諸仏が
大慈悲心を起こして
何とか助けてやりたいと立ち上がって下された。
しかし、残念なことに我々の罪悪が余りにも重く、
諸仏の力では
到底助けることは不可能だったのだ。

「捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり」
と蓮如上人が仰せられるように
諸仏に見捨てられてしまったのが我々、
十方衆生である。


諸仏は我々の「屍の心」にアキレてしまわれたのだ。
「屍の心」とは、地獄と聞いても驚かず、
無常と聞いてもあわてない、
悪を悪とも思わず、罪を罪とも感じない、
真実の仏法に向かっては
ウンともスンとも反応のない心である。

大宇宙の諸仏に見捨てられたままならば、
十方衆生は永遠に生死の苦海を流転輪廻するしかない。

●法蔵菩薩の願い

ところが、諸仏が見捨てたならばなお放置しておけないと
立ち上がってくだされた方がおられたのである。

蓮如上人は仰せられる。

「しかれば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば弥陀に限りて、
『われ一人助けん』という超世の大願を発して、
われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して、すでに阿弥陀仏と成りましましけり」
 
阿弥陀如来は、
十方無量の諸仏の王であり、
師匠であられるから、
弟子の諸仏が見捨てた極悪人なら、
なおさら捨ててはおけぬと、
大慈悲を起こして、十方衆生救済に
立ち上がってくだされたのである。


そのために、仏の位から、
菩薩の位に下りられ(従果降因という)、
法蔵菩薩と名乗られた。
ある時、法蔵菩薩は師匠の世自在王仏に
自らの願いを申し出られた。

「師の仏よ、私にあの苦しみ悩む
十方衆生を助けさせてください」
「法蔵よ、そなたの願いは誠に尊い。
だが、それを許すことはできない」
「何故でございましょうか」
「法蔵よ、そなたは十方衆生が、
どれほどに罪悪深重であるか知っているのか。
五逆罪、謗法罪という重罪を造り続け、
その上、地獄と聞いても驚かず、無常を無常とも思わず、
悪を悪とも思わない。
死骸の如き心の持ち主だ。
かつて十方諸仏も、大慈悲を起こして一度は助けようとしたが、
十方衆生の罪悪の重さに、救うことは不可能と、
背走(はいそう)を見せて逃げているのだ。
そなたに諸仏と同じような無駄な苦労をさせる訳にはゆかぬ」
「諸仏が見捨てた者ならば、
なおさら誰かが助けねば、十方衆生は、
永遠に苦しむだけではありませんか。
私は、どんな苦難に身を沈めても後悔いたしません。
どうか、助けさせてください」
「法蔵菩薩よ、あの十方衆生を助けることは、
大海の水を一人で人間が升(ます)でくみ取り、
大海をカラにして、海底にある宝物を体を濡らさずに
取ってくるほどに難しいのだ。
しかし、そなたが、それほどの決心をもって、
真心をこめて、一心不乱に道を求め止まねば、
必ず、その目的を果たし遂げ、
如何なる願いでも成就せぬものはないであろう。」

大海の水をくみ干し、海底の宝を体をぬらさずに手に入れる、
それほどの難事であると示されながら、
世自在王仏が許されたとき、
法蔵菩薩は心から礼を述べておられる。
助けてくださる方が
「助けさせてください」と頭を下げておられる。
普通は救いを求めるものが
「助けてください」と頭を下げて当然なのだ。


ある妙好人が、
「よくよくお慈悲を聞いてみりゃ、
助くる弥陀が手を下げて、まかせてくれよの仰せとは、
ホンに今まで知らなんだ」
と言ったのはこのことだ。


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●絶対の幸福に救う妙薬
      南無阿弥陀仏の大功徳

世自在王仏の許可を得られた法蔵菩薩は、
どのようにしたら、十方諸仏があきれて逃げた
罪悪深重な十方衆生(我々)を、
助けることができるのか。
思惟に思惟を重ねられ、その年月は五劫に及んだ。
一劫が4億3千200万年、五劫思惟とは、その5倍の年月、
考え抜かれたということだ。


「大海の水をすべて升でくみ取り、
海底の宝を体をぬらさず手に入れる」
それを実行するには、どうしたらよいか。
聞いただけで、「それは不可能」と無量の諸仏方が、
サジを投げてしまったことなのだ。
十方衆生を病人に例えるなら、
あらゆる医者が、助ける手段はない、
と見捨ててしまった重病人だ。
それを、阿弥陀仏のみが、「我一人助けん」と、
難病の原因とその治療法、解決法を
開発して助けようとしてくだされたのだ。

五劫の思惟をなされた結果、
ついに、いかなる薬を製造したらよいか、
その方策を確立なされた。
それは善根功徳のかたまりである、
南無阿弥陀仏の名号という薬を造り、
それを衆生に与えれば、
苦悩の根源を破って、
大安心大満足の絶対の幸福に救うことができる、
というものであった。


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法蔵菩薩は、そのような名号大功徳を完成させるために
さらにそれから兆載永劫というご修行をなされた。

兆載永劫とは、量り知れない長年月である。
ご自身のためではなく、一切衆生を助けるために、
兆載永劫というご修行をしてくだされ、
ついに、今を去ること十劫の昔に、
我々を助ける能力を有する名号六字を
完成してくだされたのである。


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それが本願の名号、南無阿弥陀仏であり、
それを阿弥陀仏から賜った瞬間に、
凡夫がさとりの五十二位中の五十一に相当する、
正定聚に入る
から、親鸞聖人は、
「本願の名号は正定の業なり」
        (正信偈)
と仰せられる。
さらに死後には浄土往生させていただき、
弥陀同体の覚りを開かせていただく。


29歳の御時、阿弥陀仏に救い摂られた親鸞聖人は、
「五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身に満てり」
       (高僧和讃)
と記されている。
言うことも説くことも、想像もできない
「不可称・不可説・不可思議の大功徳」
とは勿論名号の大功徳のことであり、
それが身に満ち満ちてしまうとは、
救われた世界の実感である。

「功徳の大宝界に帰入すれば」
        (正信偈)
「功徳の大宝界」も名号大功徳のことだ。
親鸞聖人の曾孫(そうそん)・覚如上人も、
「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」
               (執持鈔)
と、本願の名号と、
行者が一体になった喜びを記しておられる。
妙好人・おかる同行もまた名号と一体になった体験を
次のように述べている。
(※妙好人とは、弥陀に救われた人のことです。)

「頭叩いても南無阿弥陀仏、手を叩いても南無阿弥陀仏、
足を叩いても南無阿弥陀仏、お尻叩いても南無阿弥陀仏、
座った姿も南無阿弥陀仏なら立った姿も南無阿弥陀仏、
歩く姿も南無阿弥陀仏、本願や行者、行者や本願」
救われれば誰もが叫ばずにおれないのである。

釈尊一代の仏教は、
畢竟(ひっきょう)この阿弥陀仏の本願と
その名号の大功徳を明らかにされるためであった。


「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」
        (親鸞聖人・正信偈)
(如来、世に興出したもう所以は、
唯、弥陀の本願海を説かんとなり)

●万人の終帰、弥陀の本願海

ここで親鸞聖人は、本願を海に例えておられる。
海の特徴は広くて深い。
さらに地上に降った水が、最後に行き着く所である。
これを終帰という。

広い本願・・・大宇宙のすべての衆生を助ける、
という広い誓いであるから弘誓願ともいわれる。

深い本願・・・どんな罪悪深重の衆生をも助けるという本願。

終帰・・・山の頂上に降った雨水は、
渓流を下り、湖に流されても、
やがて川を下って大海に流れ込む。



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苦悩の衆生はキリスト教やマホメット教などに
救いを求めるが、真の救いは得られない。
最後は、阿弥陀仏の本願によらねば、
完全な救いにあずかることはできない。

弥陀の本願に救われ、
南無阿弥陀仏の六字の名号という宝の主となり、
苦悩から離れるチャンスは、
仏法を聞ける人間界の今しかない。

法然上人や親鸞聖人のように、
阿弥陀仏の五劫思惟、兆載永劫のご苦労に、
心から報恩の涙を流せる身に一日も早くならせていただこう。
それにはどうすればよいか。

「たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏のみ名を聞く人は
永く不退にかなうなり」

       (親鸞聖人)

真剣な聞法あるのみである。


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