SSブログ

孤独地獄を救ってくださる方とは・・・ [孤独な魂]

世界一の長寿国となり、高齢化が急進する日本社会。
核家族の増加とともに、多くの高齢者が孤独を抱え、
寂しさをいやす心の支えを待望しています。
携帯電話やインターネットの爆発的な普及も、
孤独に悩む人々が、常にだれかとの
つながりを求めるからでしょう。

しかし、仏法は、「一人居て喜ぶ法」と、
蓮如上人はおっしゃっています。

底知れぬほど寂しい人生が、
無限に楽しい人生と大転換するのです。

●超高齢化社会へ
     老いと孤独

世界一の長寿を誇る日本。
少子化も急進し、このペースでいくと、
およそ10年後には、4人に1人が65歳以上の、
超高齢化社会に突入するといわれます。
(平成15年の記事です)

「老いてみて、孤独や不安に向かい合って生きる
重要さが改めて分かった」
かつて文部省で、学習指導要領の作成にも当たった
教育学者・上田薫さんは、
朝日新聞の連載「孤独のレッスン」で、
このように述べています。

氏は、82歳。
「私はいま元気ですが、やがてボケも骨折も起きようし、
限界は見えている。希望がない。
容赦のない生殺し、いや、いつ出られるか分からない牢獄です。
多くの老人が生かしようのない『ゆとり』の中にいる」

体験した人のみが知らされる実感でしょう。
氏の言葉は、さらにこう続きます。

「先哲の書物にはいろいろ書いてあるが、
この時代に通じるのでしょうか。(略)
宗教にしても、本当に有効なのか。
禅堂や修道院の世界もあるが、
日常の中で生身の悲しみや孤独と
どれだけぶつかっているか、考え直す必要がある。(略)
『教育基本法改正』などといっている場合じゃない。(略)
孤独や死や不安に人間や社会がどうかかわるべきか、
差し迫った問題がある」

世の識者たちも、孤独を生き抜く心の支えを
模索しているようです。

EPSON015.jpg-1.jpg

●「死ねないから
     ただ生きている」
       阪神大震災と孤独死

“ウサギは寂しいと死んでしまう”といわれますが、
耐えがたい孤独に取り残された時、
生きる力を失うのは、ウサギだけではありません。
平成7年の阪神大震災では、
仮設住宅での孤独死が続発しました。
家族や住居を失い、たった一人取り残され、
一から頑張れと励まされても、
生きる力を持てない人が多いのが現実です。

震災からちょうど一年、
仮設住宅で独り暮らしをしていた40代の男性が、
焼身自殺を遂げました。
仕事もなく、酒に浸る毎日を送っていた男性は
生前、周囲にこう漏らしていたといいます。

「いまとなっては死ねないから生きているという感が強い。
夜眠ってそのまま目が覚めなかったらいいのに・・・
というのは自分だけではなく、
他にもずいぶんたくさんいるのではないか。
そんな本音を正直に話しても、
世の中は被災者の気持ちをなかなか分かってくれない。
助かったんだから贅沢を言うな、
あまったれたわがままを言うな、
といった類の言葉がはねかえってくるだけだ・・・」

           (額田勲著『孤独死』)


●福祉が充実すると、
    自殺率が高くなる?
      豊かな暮らしと孤独

福祉が充実し、生活に不自由がなければ、
老いの孤独は解消するのでしょうか。
福祉国家として名高いのは、
ノルウェーやスウェーデンなどの北欧諸国です。
国民の生活水準は、米英をしのぎ、
社会保障制度と社会施設は完備して、
ユリカゴから墓場まで、
生活上の不安は何一つないといわれます。
ところが驚いたことに、
自殺率が世界で最も高いのはこれら北欧諸国で、
高齢になるほど、その率は高くなるのです。
福祉が行き届いていても、
孤独の不安に耐えられないのではないでしょうか。

EPSON015.jpg-2.jpg

名作として知られる映画「ショーシャンクの空に」の中に、
こんな場面があります。
終身刑で50年以上服役していた老人が、
70歳を過ぎて、釈放されました。
鉄格子の扉から外の世界へ解放された老人は、
どの町に行くのも、どの店に入るのも自由。
だれに監視されることもありません。
しかも、社会復帰を援助するため、スーパーでの仕事や、
アパートも、国から保証されていました。
にもかかわらず老人は、
数日後、アパートの天井からロープをつるし、
自ら命を絶ったのです。
服役中は話をする仲間もあり、
必要としてくれる人がありました。
しかし、壁の外では、家族も友達もいない、
独りぼっちだったのです。
自由な生活も、
孤独の寂しさを乗り越える力にはならないのでしょう。

●「妻はもう、どこにもいない」
      ある論客の自殺

どんな理性も論理も、
愛する人を失った悲嘆の前には、力を失うようです。
平成11年、日本最高の知性ともいわれた江藤淳氏が、
66年の生涯に自ら終止符を打ちました。
鎌倉の自宅で、倒れている江藤淳氏が発見されたのは、
慶子夫人を亡くして一年に満たぬ、7月の夜でした。
「家内の死と自分の危機を描き切りたい」
と筆を執った『妻と私』は、事実上の遺書といわれます。

「家内の命が尽きていない限りは、
命の尽きるそのときまで一緒にいる、
決して家内を一人ぼっちにしない、
という明瞭な目標があったのに、
家内が逝ってしまったいまとなっては、
そんな目標などどこにもありはしない。
ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕らえ、
意味のない死に向かって
刻一刻と私を追い込んで行くのである。」

EPSON016.jpg-1.jpg

やるせない哀感が描かれた手記は、
短期間に反響を呼びました。
だが、悲しみはいやされることなく、
激しい雷雨の夜、江藤氏は浴室で手首を切ります。
夜勤のお手伝いさんの通報で、
消防署員が駆けつけたが、
意識はすでにありませんでした。
自殺当時はしかし、「幼年時代」の連載を開始したばかり。
執筆活動も、生きるよりどころにはならなかったのです。
作家・高井有一氏は、死の2ヶ月前、
江藤氏のこんな言葉を聞いています。
「夜はまだいい。周りが闇に閉ざされているから。
昼は光が入って、家の隅々、庭まで見えてしまう。
そこに、それまで居た人がいない。
この空白感が耐え切れない」

●父親が仕事から帰ってくると、
    茶の間の子供たちは・・・
         ーーー家族の中の孤独

家族に囲まれていれば、
孤独がいやされるとも限りません。
平成6年の国民生活白書を見ると、
老人の自殺率がいちばん高いのは、
三世代同居のケースでした。
独りぼっちの孤独も確かにつらいですが、
一緒にいて、相手にされない孤独は、
さらに耐えがたい苦しみを伴うようです。

学校でのいじめも、周囲からの無視が
いちばんつらいといわれるのも、
うなずけます。

「父帰る 茶の間の子供ら 部屋帰る」
きくちカン 
(第一生命 「大14回私が選ぶサラリーマン川柳ベスト100より)

笑い話のようですが、
仕事から帰ってきたお父さんが、
安らぎを求めた子供たちから、
疎まれ避けられるのは、
何とも寂しい話です。
定年後は「ぬれ落ち葉」「産業廃棄物」などと
揶揄(やゆ)され、
邪魔者扱いされるに至っては
悲劇というよりないでしょう。
家族とともにいても、孤独なのです。

●独り生まれ、独り死に 
    独り去り、独り来る

お釈迦さまは、『大無量寿経』に、
「独生独死 独去独来」
と説かれています。

人は生まれた時が独りならば、死んでいく時も独り。
生きている間も独りぼっちなのです。
親や兄弟、友達や恋人など、
肉体の連れは、多くありましょうが、
魂は、寂しい、寂しいと震えています。

東京砂漠ともいわれるように、
大勢に囲まれるほどむしろ、
人は分かり合えず、
孤独を感じるものなのかも知れません。
大学のコンパや会社の飲み会で、
周りが盛り上がるほど、
なぜか、自分だけ居場所がないと感じた経験はないでしょうか。

親友や恋人を求めるのも、
皆、本当の自分を分かってほしいと思っているからでしょう。
心の奥底まで理解してほしいと思っています。
自分の本当の理解者を求めて、
私たちは生きていると言っても過言ではありません。

EPSON017.jpg-1.jpg

すべてを理解されたら、私たちは救われます。
しかし、そのような人は果たしてあるでしょうか。
自分が、他人を完全に理解することができないように、
私のすべてを理解してくれる人もいないのです。
皆、心の中に、だれにも言えない秘密を持っているからです。
私たちは心のすべてを、
だれかに打ち明けることができるでしょうか。
これだけは人に言えないという秘密があるでしょう。
親兄弟にも恋人にも言えない。
60億の人があっても、
だれにも打ち明けられない秘密です。
この人になら何でも言えるというのは、
その程度までは言えるということです。
自分にさえ、気づいていない秘密があるのですから。

●誰もが、
  自分だけの世界に
      生きている

私たちは、一人一人、
自分の心が生み出した世界に生きていると、
仏教では教えられます。

夫婦といえど、
お互いの世界をかいま見ることはできません。

例えば、同じ絵画を眺めていても、
全く同じように感じる人は、一人もいないでしょう。
才能や知恵、趣味や人生経験などは、
各人各別だからです。

分かり合えない孤独な魂は、
何かでごまかさずにはおれません。
パチンコ、カラオケ、遊園地などの娯楽施設が林立するのも、
そのためです。
コンサートなどでワーッと盛り上がれば、
一時は一体感を得られますが、
後から、言いようのない寂しさに襲われます。

60年代を代表するアメリカのロック歌手・ジャニス・ジャップリンは、
“ステージの上では、あんなに一つになれるのに、
ホテルの部屋では、どうしてこんなに孤独なの”
と嘆いています。
彼女はやがて、麻薬中毒となり、死んでいきました。

EPSON018.jpg-1.jpg

科学が進歩し、経済が繁栄しても、
人間の孤独は変わりません。
ケータイ、パソコン、インターネットなど、
世の中便利になりましたが、
寂しさは一層深刻なようです。
人は皆、心に無底の寂寥(せきりょう)を抱えています。
自分を取り巻く、さまざまな生きがいや娯楽は、
この底無しの寂寥を隠していますが、
ごまかしは決して解決にはならず、
魂はおののき、震えているのです。

●どんなに愛した人とも
      二度と会うことはできない

独りで生まれてきた魂は、
独りぼっちでこの世を去っていかねばなりません。

蓮如上人は、
「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず、
されば死出の山路のすえ・三途の大河をば、
唯一人こそ行きなんずれ」

「かねてから頼りにし、力にしている妻子も財宝も、
死んでいく時には、何一つ頼りにならぬ。
みんなはぎ取られて、一人で地上を去らねばならない」

と仰っています。

どんなに愛した人とも二度と会うことはできない。
生涯独りぼっちの旅ならば、
何のためにこの世に生まれてきたのか。
私の心のすべてを分かってくださる方は、ないのか。

孤独地獄から救ってくださる方が、
ただ一人だけあるのだよと、
釈尊はおっしゃっています。
それが、本師本仏の阿弥陀如来です。

●「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば
        ひとえに親鸞一人が為なりけり」

わずか8歳でご両親と死別され、
天涯孤独の身となられた親鸞聖人は、
不安な魂の解決を求め、
9歳で比叡山天台宗の僧侶となられました。
しかし、20年のご修行の末、
「この山に私の救われる道はない」と下山され、
大徳・法然上人の教化により、
阿弥陀如来の本願に魂を救い摂られたのです。

峻厳(しゅんげん)火を吐く法然上人の
ご説法に遇われた聖人は、
「いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし」
と悲泣悶絶、助かる望みの一切が断たれた時、
「そのまま救う」
声なき声に全身を射抜かれ、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり」
と、躍り上がられました。

“親鸞の心の底まで知り尽くし、
摂取してくだされた方は、阿弥陀如来だけだった。
大千世界一の極悪人、苦悩の私が如来の独り子だった”、
弥陀の御心に感泣される、聖人の大歓喜です。

阿弥陀如来は、私たちの本心を知り抜かれたうえで、
“そのまま救うぞ”と誓っておられる。
すべての人は、この阿弥陀如来の救いにあい、
絶対の幸福になるために生まれてきたのです。

●諸仏菩薩から
    百重千重に護られる
   
ーーー必獲入大会衆数(ひつぎゃくにゅだいえしゅう)

『正信偈』に、
「必獲入大会衆数」(必ず大会衆の数に入る)
とあるように、大慈大悲の阿弥陀如来に救い摂られると、
大会衆の数に入り、心はいつも明るく楽しくなります。
「大会衆の数に入る」とは、
正定聚の菩薩の仲間入りをさせていただくことです。
正定聚とは、「正しく仏に成ることに定まった人たち」ということ。
つまり阿弥陀如来に救われた人は、
死ぬと同時に弥陀の浄土に往生し、
阿弥陀仏と同じ無量寿無量光の仏に成れるということです。
大会衆の仲間入りをするのは、
死んでからではありません。

生きている時に、広くて、大勢の人が集まっている、
にぎやかな世界、常に、釈尊や七高僧、
親鸞聖人や蓮如上人、往生された方々が、
語りかけられる世界に出させていただけるのです。

お釈迦さまは、『大無量寿経』に、
「我が善き親友なり」といわれ、
“苦悩に満ちた世の中で、
難信の法をよくぞ聞き抜いた。
そなたこそ私の親友だ”
と、手を差し伸べてくださっています。

幼なじみ、同級生、仕事の仲間、趣味の友など、
友達はさまざまですが、
親友は、「喜びを倍にし、悲しみを半分にする」といわれる、
人生の貴重な財産でしょう。
つまらぬ人から親友になろうと
言われてもうれしくありませんが、
世界最高の偉人、釈尊に、
「私の親しい友よ」と呼びかけていただけるとは、
何という幸せでしょうか。

「信じられない」と思う人もあるかもしれませんが、
阿弥陀如来は、大宇宙の諸仏方が異口同音に、
“最高最尊の仏”と仰がれる仏です。

その師匠の阿弥陀如来に救い摂られた人だから、
弟子である釈尊は、「親友」と手を差し伸べられ、
大宇宙の諸仏方も、昼夜を分かたず百重千重に、
護ってくださるのです。

これを諸仏護念の利益といい、
聖人は『和讃』に、
「南無阿弥陀仏をとなうれば、十方無量の諸仏は、
百重千重囲繞(ひゃくじゅうせんじゅういにょう)して、
よろこびまもりたまうなり」
            (現世利益和讃)
と教えられています。
すべての仏方から、常に護られ、
大事にされるわけですから、
その弟子の菩薩や諸神から
守護されるのは言うまでもありません。

「南無阿弥陀仏をとなうれば、
観音勢至はもろともに、
恒沙塵数(ごうじゃじんじゅ)の菩薩と、
かげのごとく身にそえり」

「南無阿弥陀仏をとなうれば、梵王帝釈帰敬す、
諸天善神ことごとく、よるひるつねにまもるなり」
          (現世利益和讃)

これらの方は、嫌々ではなく、
つきあいや仁義で護るのではありません。
喜び護るのだと、おっしゃっています。
だから他力の大信心を獲得すると、
あらゆる恐怖観念から解放されて明るく、
たくましく生き抜くことができるのです。

破天荒な肉食妻帯の断行で、仏教界や世間から、
八方総攻撃を受けられながら、
親鸞聖人に悲壮感はありませんでした。
「浄土の真宗は証道今盛んなり」
        (教行信証)
たとえ、周りに味方が一人もなくとも、
諸仏や菩薩に囲まれて、百重千重に護られている聖人の心は、
常に大安心だったのです。
それを蓮如上人は、
「信の上は一人居て喜ぶ法」
とおっしゃっています。

●仏法者に孤独はない
     ーーー苦しむ者ほど、重くかかる仏の慈悲

光に向かう仏法者に、孤独はありません。
阿弥陀如来と親鸞聖人が、いつでもそばに寄り添って、
励ましてくださるからです。
親鸞聖人は、

「一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり」
とご遺言なされています。

それは、阿弥陀如来に救われた人だけのことと、
思う人があるかもしれません。
如来の大悲は平等ですが、
苦しんでいる者にひとえに重くかかるのが、
仏の慈悲です。
衆生の苦悩をわが苦悩とされる親鸞聖人が、
苦しんでいる者を放置されるはずがありません。
苦しい時も、寂しい時も、悲しい時も、うれしい時も、
真実の仏法を求める者は、
常に如来聖人とともにあるのです。

聖人とともに、
たくましい人生を生き抜かせていただきましょう。


タグ:孤独 老人
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。