SSブログ

仏教の生命観が子供を救う [釈迦]

 EPSON043.jpg-1.jpg

近年、子供たちの人命軽視の事件が後を絶ちません。
文部科学省では、
「これまでも『命を大切にする教育』の重要性が
言われてきたが、十分な成果を挙げていない」
との反省に立ち、
改めて家庭、学校、社会のすべての大人たちが、
次世代の子供たちに「命を大切にする教育」を、
実効あるものとしていく必要があると訴えています。


「人が死ぬとは、どんなことなのか」
「なぜ命は、かけがえがないのか」

正しい生命の実相を知らなければ、
大人も子供も救われません。
仏教を説かれたお釈迦さまから、
お聞きしましょう。


長崎で、12歳(中学生)の少年が、
4歳の男の子をビルの屋上から突き落とし、
殺害した事件は、昨年7月のこと。(平成16年の記事です)
子供たちによる、相次ぐ人命軽視の事件を受け、
全国の学校では「命の大切さ」を
繰り返し訴えてきたといいます。
ところが、そのさなか、またしても、長崎佐世保にて、
小学6年生の女子による同級生殺害事件が起きました。
命の大切さを、日頃から教えてきたことは無意味だった。
肩を落とす校長先生の姿が、
現代の闇を一層浮き彫りにしました。

“これまでの取り組みでは不十分”との反省に立ち、
文部科学省は8月末、新たな対策として、
「児童生徒の問題行動対策重点プログラム」を公表しています。
その中で文科省は、
「自他の生命のかけがえのなさ、誕生の喜び、死の重さ、
生きることの尊さなどを積極的に取り上げる場や機会を増やす」
とうたい、これまで子供たちに恐怖感を与えるとして、
意図的に避けてきた「死の問題」を、
積極的に授業で扱うことを提唱したのです。
NHKの人気番組「クローズアップ現代」は、全国に先駆け、
「死」の教育を始めた長崎県のある小学校を取り上げ、
反響を呼びました。

番組中、教師たちは、
“死をタブー視することが、かえって正しい「死」の認識を妨げ、
「生」を軽んずる結果にもつながっているかもしれない”
と、考え始めています。

●「死んでも、また戻ってこれる」
       ーーー子供たちの死生観

生死一如」という、有名な仏教の言葉があります。
生と死は、紙の裏表。
切り離すことはできない。
言い換えれば、
死を考えることを避けては、
本当の生を送ることはできない
、ということです。
命の大切さを知るのは、死の厳粛さに目を向け、
正しく知ることから始まります。

ところが先のNHKの番組では、
「死のイメージ」を尋ねられた子供たちは、
次のように答えています。
「死んだほうが、苦しみをずっと味わわないで楽になれる」
「魂が別の体に移って、一からもう一度やり直せると思う」

続いて、
「人間、死んだら生き返るか」の問いに、
33人中、実に28人の子供が手を挙げているのです。

「死んでも、また生き返り、やり直せる」
マンガやテレビの影響か、子供たちが、
こんな死生観を持っていることに、
驚かずにおれません。

しかし、それでは大人たちは、
死を正しく知っているといえるでしょうか。
子供たちの発言に危機感を抱いた教師たちも、
肝心の「死ねばどうなるか」については、全く触れていません。
正直、分からないからでしょう。

これでは、子供たちの誤った死生観を、
だれが正せましょうか。

子供たちが間違うのは私たち大人の責任なのです。

東大名誉教授の養老猛司氏が発刊した『死の壁』は、
いろいろな意味で話題になりました。
“タイトルに「死」と入れれば売れない”という、
出版界の常識を覆したのは、
多くの人が、死に関心を持っているからでしょう。
しかし、多くの読者が期待した同著の“最終解答”は、
「死について考えるといっても、
自分の死について延々と悩んでいても仕方が無いのです。
そんなのは考えても答えがあるものではない」
「死んだらどうなるのかは、
死んでいないから分かりません。
誰もがそうでしょう」

だったのです。
これでは肩すかしもいいとこ。

養老氏だけではありません。
死にゆくたくさんの患者と接し、
その臨床記録をまとめた『死ぬ瞬間』という
世界的ベストセラーを書いたキューブラー・ロス女史も、
自らの死に臨んで、
“あなたは長い間精神的分析を受けたので、
それが役立っているだろう”という、
インタビュアーの問いに、
精神分析は時間と金の無駄であった」と答えています。

他人の死をどれだけ研究しても、
いざ自分が死ぬとなると、
何の役にも立たなかったと告白しているのです。

有名な無神論者・ショーペンハウエルは、
臨終の苦悩に責められ、
「おお神よ、わが神よ」と幾度も叫んだ。
彼は平生、死後の世界を否定していたので、

あなたの哲学にも、神があるのですか」
と医者に問われて、
「死に向かっては、哲学も神がいなくては仕方がない。
もし病が治ったら、
今までとは余ほど違った研究ができるであろう」
と告白しています。


世界的文学者ゲーテも死ぬ数分前に、
ああ暗い。光がほしい。光がほしい」と言い、
平生「則天去私」を追求した文豪・夏目漱石が最後に、
ああ苦しい。今死んでは困る」と、
つぶやいたのは有名です。


臨終に際しては、どんな哲学者も文豪も、
平生の信念を覆され、
未知の後生に恐れ、泣いている。

「我未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」
かの孔子でさえ、あきらめてサジを投げています。
これでは、子供の幼稚な死生観を
しかることはできません。

EPSON044.jpg-1.jpg

どこにも明答が聞けぬ中、2600年前に、
この生命の実相を明らかにされたのが、
仏教を説かれたお釈迦さまなのです。

お聞きしましょう。

今のジゴクは、
    未来の地獄を生み出す

お釈迦さまは(釈尊)は『大無量寿経』に、
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」

と説かれています。
今苦しみ悩みの絶えない者は、
必ず死後も苦しみを受ける。
現在が闇の生活を送っている人は、
死後もまた、闇のジゴクへと堕ちていくと、
教えられているのが仏教です。

地獄とは中国の言葉。
インドではナカラといわれ、今
日の日本の言葉で「苦しみの世界」ということです。
ジゴクはこの世にも死後にもあるのです。

この世のジゴクといいますのは、
毎日が不安な、暗い心で、
生きがいのない生活をしている人をいい、
これをただいまがジゴクへ堕ちている人というのです。
自分の業(行い)が生み出す苦しみですから、
自業苦といわれます。

苦労して育てておけば、
老いても大事にしてくれるに違いない”
の思惑が外れて、生んだわが子に虐待され、
「こんなことなら生まなきゃよかった」
「子供の無いほうがましだった」
と愁嘆する老母の声は周囲に満ちています。

科学は進歩し、物は豊かになりましたが、
「生まれてきてよかった」と
人生を謳歌している人はどれだけあるでしょう。

満員電車に揺られている人々の顔は
決して明るいものではありません。
日々、同じことの繰り返しで、
「何のために生きているのだろう」
と空虚な心を抱えて暮らしている。


50も過ぎると、仕事の責任を負わされる。
親との死別、子供たちは去っていく。
糖尿、高血圧、神経痛などが持病となる。
更年期障害の妻はいつも不機嫌。
“なぜオレだけが、こんなメに”と
独りたたずむ男性も少なくないようです。
昨年の自殺者は、過去最悪の34400人。
(平成15年のことです)
日に換算すると、実に90人以上が、
この空の下、自ら命を絶っていることになる。
予備軍といわれる「自殺志願者」まで入れたら、
どれほどになるか。
幸せだから自殺する人は考えられません。

現在、闇(ジゴク)に生活を送っている人は、
未来も闇(ジゴク)の世界に
入っていかねばなりません。
死後の地獄について釈尊は、「必堕無間」と、
経典におっしゃっています。

「無間」とは無間地獄のこと。
「死後、必ず無間地獄に堕ちる」ことを、
後生の一大事というのです。

無間地獄とは、絶え間のない苦しみの世界をいいます。
死後の地獄と聞くと、おとぎ話か作り話のように思って、
あざけったり、疑ったりする人があるでしょう。
しかしそれは、本当の仏教を知らない人です。

●八万劫、覚めない悪夢

かつてある布教使が体験した、
こんな話があります。
50年ほど前、ある寺に招待され、
説法に行った時のことである。
寺の住職から相談を受けた。
「先生、うちの寺の世話を永年してくれていた門徒総代が、
新興宗教に迷ってしまった。何とかしてほしい」
そこで、その総代の家に行ってみた。
いろいろ話すうち、だんだん心を開き、
やがて仏教を聞かなくなった本心をこのように、
打ち明けてきた。

EPSON045.jpg-1.jpg

「私はね、仏教で、地獄がある、極楽がある、
というのが信じられない。
あなたは本当に地獄があると思っているのかね」
「地獄は厳然としてある」と答えると、
「それなら、地獄で罪人がまないたの上で切られたり、
鬼がいたり、
地獄の釜があったりするのが事実だと言うんだね」
と食ってかかる。
「ならば、地獄の釜を造った鍛冶屋もいるだろう。
あんた、その地獄の釜をこしらえた
鍛冶屋の住所と名前知っているか」
と畳みかけてきた。
「知っている。住所・氏名だけでなく、
生年月日も知っている」
総代は意外な顔をして、
「あんた面白いこと言うなぁ。
なら地獄の釜をこしらえた
鍛冶屋の住所・氏名を聞かせてくれ。
そうしたら仏教聞いてもよい」
そこで私は、静かにこう言った。
「鍛冶屋の名前は教えるが、
その前に聞いておきたいことがある。
あんた夢を見たことがあるだろう、
それも何か恐ろしいものに追いかけられて逃げている夢を」
「そりゃ見ることもある」
とキッパリ答えるので、
「その時あんたは何で逃げる」
「そりゃ、この足だ」
「その足でか、本当に?」
念を押すと、「足でなきゃ、手で逃げられるか」
と総代は憤慨する。
「しかし、その足は布団の中にあるのじゃないか。
それで逃げるのではないだろう」
「そりゃそうだ、逃げるのは夢の中の足で逃げるのだ」
「つまり、その時のあなたには、
横にしている足と夢の中の足とがあるわけだね」
うなずく総代に、
「逃げる時、振る手も、逃げる体も、
あんたの夢の中の手や体だね」
と確認した。
総代はやはり、黙ってうなずいている。

EPSON046.jpg-1.jpg

私はその様子を見て、
「実は、地獄というのは夢なんだ。
お釈迦さまは地獄というのは夢だと説いておられる」

と諭すように言った。
「何だ、地獄というのは夢かね」
総代は拍子抜けしたように言う。そこで、
「夢かね、と言っても、それは恐ろしい夢で、
八万劫の間、覚めることなく苦しみ続ける夢なんだ。

(八万劫とは、一劫が4億3千2百万年の八万倍の長い期間)
覚めた時は、何だ夢だったのかと思うが、
夢の中ではそうは思えない。
忽然と現れる山も川も、実在だ。
汗を流して苦しみ続ける恐ろしい夢の世界が
地獄ということなのだ」

総代は神妙な面持ちになった。

「しかも、地獄だけが夢じゃない。
この人生もまた夢なのだ。あの豊臣秀吉も臨終に、
“露とおち露と消えにしわが身かな、

難波のことも夢のまた夢”と言っている。
あんたも奥さんと結婚した時を思い出してみなさい。
その奥さんも亡くなった。
その間はあっという間に過ぎてしまったはずだ。

過ぎてしまえばそれも夢じゃないかね」
奥さんの話になると、しみじみ、
「夢ですね。本当に」と言う。

「人生は皆、夢で、“儲かった”“銀行に貯金した”、それも夢だ。
人間界は苦しみの少ない夢だが、
地獄という世界は大変恐ろしい夢が
八万劫中続くということなのです」

このように言うと、総代はハッと思い出したように、
尋ねてきた。
「夢のことは分かったが、あの鍛冶屋の話はどうなった」
「これだけ言えば分かると思うが、
地獄の釜を造った鍛冶屋は私だ」
と答えると、
「私?それはどうして?」
「あなたはこんな歌を知りませんか。
『火の車 造る大工はなけれども 己が造りて 己が乗りゆく』
地獄というのは夢のように一人一人が造って
一人一人が堕ちていく世界なのです」

このように話すと、総代は次第に理解し、
やがて自己の浅はかさに気づき、
再び仏法を聞くようになった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

先の歌の中で、「火の車」とは、苦しい状態、
つまり地獄を表します。
自らが造った悪業が、生み出す世界が地獄なのです。
親鸞聖人は、この一大事を、
「呼吸の頃(あいだ)すなわちこれ来生なり。
一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず(かえらず)。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
願わくは深く無常を念じて、徒(いたずら)に
後悔を胎す(のこす)ことなかれ」

と、おっしゃっています。

“呼吸の頃(あいだ)すなわち来生なり”とは、
吐いた息が吸えない時から来生、
死後が始まるということです。
「一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず」
一息切れたら、永遠に戻らぬ人生になるぞと、
後生の一大事を警鐘乱打しておられるのです。

●仏教に説かれる唯一のこと

釈尊は、この生死の一大事、後生の一大事の解決は、
大宇宙最高の仏、阿弥陀仏の本願によらなければ
絶対にできないのだとおっしゃっています。

よく、「釈迦も、阿弥陀仏も名前が違うだけで、同じ仏だろう」
と言う人がありますが、
弥陀と釈迦は全く違う仏なのです。

ここは大切なところなので、よく知ってください。
地球上で仏のさとりを開かれたのは釈迦だけですが、
大宇宙には地球のようなものは無数にあり、
その大宇宙には数え切れないほどの仏が現れていると
経典に説かれています。
これを十方諸仏といい、釈迦もその中の一仏です。

その十方諸仏の本師本仏が、
阿弥陀如来なのです。

蓮如上人は、『御文章』に、
「弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば」

とハッキリ教えられています。
本師本仏とは、師匠、先生ということですから、
阿弥陀仏と釈迦仏の関係は、師匠と弟子、
先生と生徒に当たります。

弟子の務めは、先生の御心を正しく、
一人でも多くの人に
お伝えする以外にありませんから、
弟子である釈迦は、
先生である阿弥陀仏の本願一つを生涯、
教えていかれました。

それを親鸞聖人は『正信偈』に、
「如来所以興出世、唯説弥陀本願海」
(釈迦如来、この世に興出したもう目的は、
唯、弥陀の本願を説くためであった)
と、おおせになっているのです。

EPSON047.jpg-1.jpg

●かけがえのない命の意味

弥陀の本願とは、すべての人を、
“必ず浄土へ往けるに間違いない身に救う”
というお約束ですから、
弥陀に救われれば、
後生の一大事が解決し、いつ死んでも、
弥陀の極楽浄土へ往生できる身となります。

“必ず浄土へ往ける”大満足に生かされ、
生きてよし、死んでよし、
恨みとのろいの人生が、
感謝と懺悔の光明の人生と転じ変わり、
同時に、
「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く」
人間に生まれたのは、
この幸せを獲得するためであったのだと、
手の舞い、足の踏むところのない
生命の大歓喜がわき起こるのです。

では、この一大事は、いつ解決できるのでしょうか。
親鸞聖人は、
「この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん」
とおっしゃり、死んでからではないぞ、
生きている今、解決できなかったら、
仏さまといえど、救うことはできないのだぞ

教えられています。
私たちは無常の身です。
いつ死がやってくるか分かりません。
吐いた息が吸えなかった時から、次の生です。
だから聖人は、
「呼吸の頃(あいだ)すなわちこれ来生なり」
とおっしゃっているのです。
吸う息吐く息が、
死と触れあっていることが知らされます。
されば、「生きている今」といっても、
「呼吸の頃(あいだ)」におさまり、
今の一息一息に、
未来永遠の浮沈がかかっていると、
知らされるではありませんか。
永遠のチャンスは今しかありません。
私たちはこの一瞬の人生で、
弥陀の本願を聞信し、
未来永劫の魂の解決をするために
生まれてきたのです。

なぜ自殺をしてはいけないのか。
なぜ、命はかけがえないのか。
この大目的があるからです。

●天上天下、唯我独尊

そのことを教えられた釈尊の有名なお言葉があります。
約2600年前、ルンビニー園で誕生された釈尊は、
天と地を指さされて、
「天上天下、唯我独尊」とおっしゃいました。
これを多くの人々は、
「この世でいちばん偉くて尊い者は、自分一人である」
と、釈尊が威張られたことのように誤解し、
大変うぬぼれた言葉のように扱っています。
しかし、これは、決してそのような心で
おっしゃったものではないのです。
この「我」は、釈尊だけのことではなく、
人間一人一人のことです。
だから、人間だれしも釈尊と同じように、
「天上天下、唯我独尊」
なのであり、またそう言えるのです。
「独尊」とは、たった一つの尊い使命ということです。
ですから、
「天上天下、唯我独尊」
の正しい意味は、我々人間は、天上天下広しといえども
たった一つしかない聖なる使命を果たすべく、
この世へ生まれて来たのだということなのです。

それは、弥陀の本願を聞信し、
未来永遠の幸福を獲得することにほかなりません。

この使命を知り、この使命に向かって全力を挙げ、
この使命を成就した時にこそ、
すべての人が、天と地に向かって、
「天上天下、唯我独尊」
と、絶叫せずにおれなくなるのです。

仏法に明らかな、
かけがえのない命の尊厳を知り、
自殺や殺人がなぜいけないのか、
生きる目的、幸せとは何か、
子供たちにも
ハッキリと伝えていきたいものです。

EPSON048.jpg-1.jpg

 





nice!(34)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

nice! 34

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。