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死後どうなる!釈迦が説く「後生の一大事」 [後生の一大事]

有名な『歎異抄』冒頭の、
弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」と親鸞聖人は、
阿弥陀仏に救われたと言われています。

また、『正信偈』の冒頭2行でも、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と言われ、
親鸞、「阿弥陀仏に救われたぞ、助けられたぞ!」
と叫んでおられます。

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では、「何を」阿弥陀仏に助けられた、
と親鸞聖人はおっしゃっているのでしょうか。

「後生の一大事」を救われた、助けられた、ということなのです。
仏教は、この「後生の一大事」を知るところから始まり、
「後生の一大事」の解決で終わります。

ですから、「後生の一大事」とはどんなことかを知らなければ、
仏法は何十年聞いても分かるものではありませんし、
親鸞聖人の『正信偈』は、一行も正しく読めません。
そこで今回は、「後生の一大事」について、お話いたしましょう。

後生の一大事とは、どんなことか

「後生」とは、一息切れたら後生です。
仏教と聞くと、「年を取ってから聞けばいいもの」
「若いからまだ聞く必要がない」と言う人があります。
後生は遠い先のことで、自分とは関係のないことだと
思っているのでしょう。
しかし、この世は「火宅無常の世界」(歎異抄)、
いつ何が起きるか分かりません。

当社近くの国道で早朝、凍結でスリップした大型トレーラーが、
寺に突っ込む事故がありました。
女性(23)の寝ている部屋の壁を突き破り、
ベッドの手前で止まったといいます。
運転手とも軽傷で済んだそうで何よりですが、
一歩間違えば・・・。

「まさか」は突然やってきます。
心臓マヒや脳梗塞、事故や震災など、
何かのことで吸った息が吐き出せなければ、
吐いた息が吸えなければ、その時から後生です。
吸う息吐く息と触れ合っているのが、後生なのです。

だから後生と関係のない人は、一人もいないのです。
次に「一大事」とは、どんなことをいわれるのでしょうか。
仏教に、こんな話が伝えられています。

・・・・・・・・・・・・・・・・

ある時お釈迦さまは托鉢中、
大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、
しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。
自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、
早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、
相手がお釈迦さまと分かった娘は、
心を開いてこう打ち明けました。

「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、
今は捨てられてしまいました。
世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、
死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。
どうかこのまま死なせてくださいませ」
と娘は、よよと泣き崩れました。

その時お釈迦さまは哀れに思われ、
こう諭されています。
「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。
ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、
朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。
つくづくその牛は思った。
なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、
自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。
そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、
牛は車を壊すことを決意した。
ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、
木っ端微塵に壊してしまったのだ。

ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、
頑丈な車でなければまた壊されると、
やがて鋼鉄製の車を造ってきた。
それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。
その車で重荷を同じように毎日引かせられ、
以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、
深く後悔したが後の祭りであった。

牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと
思ったのと同じように、
そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。
そなたには分からないだろうが、
死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。
その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この話は、すべての人に、死ねば取り返しのつかない一大事のあることを、
お釈迦さまが教えられたものです。
これを「後生の一大事」といわれます。
この「後生の一大事」を解決することこそが、
仏教を聞く目的なのです。

苦より苦に入る

お釈迦さまは、唯一の真実のお経である『大無量寿経』に、
「後生の一大事」を、
「従苦入苦 従冥入冥」(苦より苦に入り、冥より冥に入る)
とも説かれています。

今苦しんでいる人は、死んだ後もジゴクの苦を受ける。
「この世のジゴクから、死後のジゴクへと堕ちていく」
とおっしゃったお言葉です。

「ジゴク」というのは中国の昔の言葉ですが、
日本の言葉で言いますと、「苦しみの世界」ということです。

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この世のジゴクというのは、何のために生きているのか分からず、
毎日が不安で暗い日暮らししていることをいいます。
「人間に生まれてよかった」という飛び立つような生命の歓喜がなく、
ため息をつきながらぼんやりと日々を過ごし、
「こんな人生なら死んだほうがましだ」と心で泣いているのが、
この世のジゴクです。

自分の業(行為)が生み出す苦しみですから、
「自業苦」とも書きます。

蚕は自ら吐いた糸で繭に閉じこめられ、
湯玉に煮られて苦しむように、
心ない発言で人を傷つけ自らも傷ついたり、
暴力振るって妻(夫)に逃げられるなど、
「身から出たさび」の実例はあふれています。

多くの人が、お釈迦さまのいわれる「この世の自業苦」に
人知れず呻き(うめき)、悶えているのではないでしょうか。
このような、現在が心の暗い生活を送っている人は、
死後も必ず真っ暗なジゴクへ堕ちて苦しまなければならないことを、
お釈迦さまは、「従苦入苦 従冥入冥」
(苦より苦に入り、冥より冥に入る)と説かれているのです。

では、死後のジゴクとは、どんな世界なのでしょうか。
お釈迦さまは、「どんな言葉を使っても、ジゴクの苦しみは説けない」
と言われています。
それでは喩えでなりと、とお弟子が申し上げると、
お釈迦さまは、こんな喩えで教えられています。

「朝と昼と夜の三度、それぞれ100本の槍で突かれるのだ。
その苦しみを何と思うか」
と尋ねられました。
「わずか一本の槍で突かれてさえどんなに苦しいだろうに、
一日三百本で突かれる苦しみは想像も及びません」
とお弟子が答えるとお釈迦さまは、
小さな石を拾われて、
「この石と向こうのヒマラヤ山と、どちらが大きいか」
と突拍子もないことを言われる。
「それはそれは、とても比較になりません。
大変な違いでございます」
と答えると、
「毎日、三百本の槍で突かれる苦しみをこの石だとすれば、
ジゴクの苦しみはあのヒマラヤ山のごとしだ」
とおっしゃっています。

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これでは私たちに、地獄の苦しみを分からせることは、
私たちが犬や猫にテレビやパソコンの説明をするよりも、
大変なことであったに違いありません。
「地獄」と聞くと、虎の皮のフンドシの鬼や湯玉たぎる釜を想像して、
あざけったり笑ったりするのは、
苦しみを表す表現であることを知らないからです。
特にインテリを自負する人たちの中には、
「死後の地獄など架空の物語だ」と蔑視するのが聡明な知識人の証、
とさえ錯覚している人が多いようです。
相当の仏教学者や自称「親鸞聖人のファン」の作家でもそうですから、
いかに仏教を正しく理解するのが難しいか、
ということでしょう。

「地獄」とは、自分の業(行為)が生み出す実在の世界なのだと、
仏智を体得されたお釈迦さまは、説かれているのです。

弥陀のねらいは、平生の救い

大宇宙の諸仏の王である阿弥陀仏は、
このジゴクからジゴクへ綱渡りしようとしている私たちを、
「この世のジゴクも未来のジゴクも救い摂り、
永遠の幸福にしてみせる」という約束をしておられます。
これを「弥陀の誓願」といいます。

こんな凄い誓願は、ほかに絶対にありませんから、
親鸞聖人は「無上殊勝の願」とも「超世の悲願」とも言われているのです。

現在の延長が未来です。
現在の自業苦が救われなければ、未来の地獄は助かりません。
眼前の小川さえ渡れないのに、
どうしてその先の大きな河が渡れましょうか。

生きている平生に救われる「平生業成」の教えこそが、
弥陀の誓願のねらいになっているのも、
お分かりになるでしょう。

阿弥陀仏の誓願不思議によって、後生の一大事を解決していただき、
いつ死んでも浄土往き間違いない「後生明るい心」に救い摂られたことを、
「正しい信心」とか、「信心決定」「信心獲得」といわれます。

「決定(けつじょう)」とはハッキリすること。
「獲得(ぎゃくとく)」とは、わがものになったこと。
これを「他力の信心」ともいわれるのは、
全く弥陀のお力によって頂くからです。
「他力」とは、弥陀から賜ること。
『歎異抄』の最初に、
「弥陀の誓願不思議に助けまいらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて」
と言われているのも、この「他力の信心」一つで、
後生の一大事の解決が果たされますから、

ただ信心を要とす」(『歎異抄』第一章)と“信心肝要”を説かれ、
聖人自作のお聖教では、

涅槃の真因は唯信心を以てす」(教行信証)
(浄土往生の真の因はただ信心一つである)

正定の因は、ただ信心なり」(正信偈)
(仏になれる身になる因は、信心一つだ)

と、“信心正因”を打ち出されています。

親鸞聖人90年の生涯、教えられたことは、
この「他力の信心」以外にありません
から、
蓮如上人は、
聖人一流の御勧化(ごかんけ)の趣は、信心をもって本とせられ候
祖師聖人御相伝一流(そししょうにんごそうでんいちりゅう)の肝要は、
ただこの信心一(ひとつ)に限れり

と、“唯心独達の法門”を宣揚(せんよう)され、
一日も片時も急いで信心決定せよ」(御文章)
後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし
」(帖外御文)
と訴えておられるのです。
それは死んでからではない、生きている「平生」に果たされるから、
「平生業成」といわれます。

「平生」に、「他力の信心」を獲得する一つで、
永遠の幸福になるという「人生の大事業」が、
「完成」するということです。

この解決は、大宇宙に無数の諸仏ましませども、
本師本仏の阿弥陀仏以外には絶対できませんから、
お釈迦さまは仏教の結論に、

一向専念 無量寿仏(大無量寿経)
「阿弥陀仏一仏に向かい、信じよ」

と説かれ、親鸞聖人は、

一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり(御伝鈔)
「永遠の楽果を得るか、永久(とわ)の苦患(くげん)に沈むか。
それは『一向専念無量寿仏』になるか、否かで決まる」

と断言され、
蓮如上人は、よく親しまれている「白骨の御文章」に、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのめ
と、教えられているのです。

では、なぜそんな一大事が引き起こるのでしょうか。
このことが本当に分からねば、
『正信偈』冒頭に、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
と叫ばれた聖人の大歓喜は、毛頭分かりません。
初めの2行が分からなければ、『正信偈』は最後まで、
全く分からなくなってしまいます。
それに関しては、以下の記事を読んでいただければ
理解できると思います。

一息切れると、なぜ大苦悩の世界に堕ちるのか!

一息切れると、なぜ一大事が起きるのか!

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特に関連の深い記事は

仏教で一番大事なことが教えられていないのは何故?

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