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命の速さ、知っていますか?(白骨のお文) [蓮如上人]

屈指の名文として名高い、
蓮如上人の「白骨のお文(御文章)」は、
さまざまな仏事法事で読まれています。
連綿とつづられた切々たる無常観は、
だれの心をも打たずにおきません。
この世は火宅無常。
いつ何が起きるか分からぬ世界です。

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(蓮如上人の白骨のお文)

(平成17年のことです)
今年四月、尼崎で起きた列車脱線事故は、
107人の命を奪い、
日本中に衝撃を与えました。
一寸先は闇。
一瞬で消えゆく儚い命を抱えるのは、
私たちも同じです。
流れるような美文で説き切られる
命の真実に耳を傾け、
古今の人類が忘れてはならない、
最も大切なことを聞かせていただきましょう。

敗戦から68年。
広島での被爆体験を描いた井伏鱒二の名作『黒い雨』で、
主人公が、後から後から運ばれる遺体を前に、
「白骨の御文章」を暗誦する場面がたびたび出てきます。
同じく原爆の悲劇をつづったマンガ『はだしのゲン』でも、
中学生のゲンが、生後まもなく死んだ妹を
荼毘(だび)に付しながら、
「白骨の御文章」を切々と読み上げるシーンが描かれ、
読者の涙を誘わずにおきません。

激しい無常を目の当たりにした時、
「白骨の章」が、人々の心をとらえるのは、
単に名文であるからではなく、
そこに古今変わらぬ、
人間の真実が説かれているからです。

お聞きしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに

         すがっては裏切られる 
                  人の一生

初めに蓮如上人は、人間の有り様を「浮生なる相」と、
言われています。
人生はちょうど、水平線しか見えない大海原を、
あてどもなくさまよっている浮き草のようなものと、
仏教で教えられています。
波にのまれて苦しいので、
何かにすがらずにはいられない。
そこで、近くに浮遊する丸太や板切れを目指します。
丸太や板切れとは、健康や妻、子供、お金、
地位や名誉のこと。
すがるとは、それらをあて頼りにすることです。

常に何かをあて力にしなければ、
私たちは生きてはいけません。
妻は夫を、夫は妻を力とし、親は子供を頼りにし、
子供は親をあて力にして生きています。
その他、自分の体や命、財産や金銭、
家や名誉や社会的地位など、
何かをあて力にして人は生きているのです。

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なぜ、丸太や板切れに例えられるのでしょうか。
丸太や板切れはすがった時には、一時、
ヤレヤレとほっとしますが、やがて波にのまれ、
くるっと回って裏切ります。

いつまでも安心、満足を与えてはくれません。
浮いているからです。
金や名誉や地位も、手に入れた時は、
つかの間、私たちに安心満足を与えてくれますが、
長くは続かない。

やがて、私たちを裏切っていく。
だから丸太に例えられます。
裏切るとは、あて頼りにならなくなることです。

例えば、医者にかかったことがないという健康自慢の人が、
たまたま受けた健康診断で末期ガンにかかっていた
という話は珍しくありません。
これは、健康という丸太に裏切られたのです。
妻や子を不慮の事故や病で亡くし、泣いている人は
家族という丸太に裏切られたといえま
しょう。
○○会社の課長だ、部長だと言っていても、
突然のリストラにあって苦しんでいる人は、
枚挙にいとまがありません。
定年まで勤め上げても、
退職と同時に見向きもされなくなる。
これは地位という丸太に裏切られたのです。
浮いたものにすがっては、裏切られる。
そこでまた、別の丸太を求めてすがる。
どこまでいっても苦しみ続けて、死んでいく。
そんな姿を、蓮如上人は、
「浮生なる相」とおっしゃっているのです。

 凡そはかなきものは、
この世の始中終、幻の如くなる一期なり

            目的なき人生の儚さ

始中終とは、人生の始め、中ごろ、終わりということです。
禅僧・一休は、
「世の中の 娘が嫁と 花咲いて
       嬶としぼんで 婆と散りゆく」
と言いました。
娘が嫁と花咲いて、お母さんからお婆さんになっていく。
これが、女性の始・中・終です。
いつまでも娘でいたいと思っても、
止まることはできません。
男性も呼び名が変わるだけで、皆、このコースを進みます。
「生きることは旅すること」と美空ひばりの歌にあるように、
人生はよく旅に例えられます。
旅人にとって最も大事なのは、行く先でしょう。
どんなものを食べるか、どんな服を着るかより、
もっと大事なのは目的地。
行く先がハッキリしていなかったら、
歩く意味がありません。
歩けば歩くほど苦しいように、生きれば生きるほど、
苦しみも多くやってきます。
目的なしに生きるのは、苦しむために生きるようなものです。
意味も目的もなく、最後死ぬために生きるのが人生ならば、
私たちは何のため生まれてきたのでしょうか。
なぜ人命は地球よりも重いといわれるのでしょうか。
蓮如上人は、“目的なしに生きる人間の儚さを知りなさいよ”と、
教えられています。

されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保べきや。

          あっという間の一生

いまだかつて、一万歳まで生きた人を聞いたことがない。
不老不死を追い求めた秦の始皇帝も、
50年足らずで死んでいます。
たとえ100年生きたとしても、一生は、
たちまち過ぎ去ってしまうのです。

その証拠に、戦争に負けて、60年たちますが、
「まるで昨日のことのよう」と、
体験者は口をそろえます。
振り返れば、だれもが、それまでに人生、
あっという間だったと思うのではないでしょうか。
これまでの50年があっという間なら、
人生100年になったといっても、あっ、あっ、と言う間です。
悠遠なる大宇宙の歴史から見れば、
まばたきする間もないのです。
一生過ぎ易し。
人の命の過ぎ行く速さを、お釈迦さまは、
このように教えられています。

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「例えば、ここの弓を射る名人が4人いるとする。
一人は東方、一人は南方、一人は西方、
もう一人は北方に向き、それぞれが同時に放った。
名人の放つ矢は目にも留まらぬ速さで四方に飛んだ。
そこに足の速い男がいて、サッと走り出したと見る間に、
4人が放った矢を捕らえてしまったとする。
この男の足は実に速いだろう」
「それは速いです。とても速いです」。
答えるお弟子に釈尊は、
「それよりも、もっともっと速いのが人間の命なのだよ、
命は実に足が速い」
と諭されたという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日でいえば、私の命は目の前を駆け抜ける
F1レーサーより速く、
過ぎ去っているということでしょう。


我や先、人や先、
今日とも知らず、明日とも知らず、

      一大事は、「明日死ぬと思えぬ心」

「死」と聞くと他人のこと、
自分とは何の関係もないように思っていますが、
蓮如上人は、
「我や先、人や先」とおっしゃっています。
生まれたからには、いつか死なねばならないと、
頭では分かっています。
しかし、「明日、死ぬと思えますか」と聞かれたらどうでしょう。
まさか、今日や明日には死なないだろうと、
安心してはいないでしょうか。
なぜなら翌日になれば、また、
「明日死なない」と思う心だからです。
次の日になれば、
また明日も死なないだろうと思うのですから、
結局、「永久に死なない」と思っている。
それが私たちの本心です。

「鳥辺山 昨日の煙 今日もたつ
      眺めて通る 人も何時まで(いつまで)」
という歌があります。
鳥辺山とは、今日でいう火葬場。
その前を通る人が、
「いやあ、昨日も煙が立っていたが、また煙が立っている。
今日も人が死んだのか」
と眺めている。
しかし、いつまで眺めていられるのか。
自分が焼かれて、他の人がその煙を眺める時が、
必ず来るのだ。
死ぬのは「人や先、人や先」と思っていないでしょうか。
よく考えている人でも、
「人や先、我や先」まででしょう。
親しい人が亡くなると、
私もやがて死んでいかねばならない時があるのだと、
厳粛な気持ちになりますが、
それでも、人が先に死んで、
そのあとで私は死ぬと思っているのです。
しかし、その思いは正しいでしょうか。

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(平成17年のことです)
107人の命を一瞬に奪った尼崎列車脱線事故。
一人一人の悲劇が、『毎日新聞』に連載されました。

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運送会社に勤める34歳の女性は、
2人の子供を残し、他界した。
事故の前日、新しい自転車を買い、
子供を乗せる荷台を取り付けたばかりだったそうです

プロの照明家だった男性(34)は、
大阪狭山市に出勤途中だった。
配線がきれいで作業が早いと、
評価されていた仕事はまさにこれから。
家庭でも4ヶ月前に男の子が生まれたばかり。
死の間際、彼の目からは、
一筋の涙がスーッと流れたといいます。

兵庫県の美容院店長・30代の男性は、生前、父親に、
「近いうちに、独立して自分の店を構えるんだ、
父さんと母さんを立派なマンションに住ませてあげるんだ」
と、語っていました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
無常の風に誘われた方々の中で、
一体だれが、朝起きた時、
これが今生最後の洗顔と思って泣いたことでしょう。
私たちと同様、今日死ぬなんて、
夢にも思っていなかったのです。

無常は私たちの思いや都合などと、一切関係がない。
「“人や先”ではありません。
私が先に死んでいかねばなたないのですよ」
と蓮如上人は教えられているのです。


おくれ先だつ人は、
本の雫・末の露よりも繁しといえり。

       雨のように堕ちてゆく人々

人が死にゆくさまは、雨の日に木の枝から
雫が滴り落ちるよりも激しいと仰せです。

お釈迦さまにある時、お弟子が尋ねました。
「世尊は一切の知人、
何事でも苦痛におぼしめすことはないのでしょう」
その時釈尊は、こうおっしゃっています。

「そのとおりだ。
しかし、ただ一つ苦痛に思われることがある。
刻々と縮まる儚い命を持ち、
念々に近づいている後生に驚かず、
雨の降るごとく地獄へ堕ちてゆく人々のことを思うと、
胸が張り裂ける思いがする。
私の苦しみはこのことだ

世界の年間死亡数は、6000万とも7000万ともいわれます。
今日1日だけで、何十万の死者が出ているか分かりません。
まさに雨が降るがごとくでありましょう。
時計が針がカッチンと時を刻む間にバタバタと数人が死に、
次のカッチンでまた幾人かが死ぬ。
そこにいつか必ず自分も入るのだ。


されば、朝(あした)には紅顔ありて、
夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。

        死は突然やってくる

朝、「行って来まーす」と、元気に家を飛び出すのは、
「行って帰って来ます」と言っているのです。
「だから、おいしい晩御飯を用意しといてね」
という意味も含まれているでしょう。
しかし行ったきりで、帰って来れない。
そんなことが、新聞やテレビで
どれだけ報道されていることでしょうか。

八月になるたび、回顧される日航機墜落事故。
10代の娘2人を亡くしたある母親は、
事故後も2人のために玄関を開けていると語りました

「おもてで自転車がキイーッて止まったら、
あ、帰ってきたって」

           (吉岡忍著『墜落の夏』)

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あの夏の日、出かけて行ったきり、
帰ってこないとは夢にも思っていなかったのです。


既に無常の風来りぬれば、
すなわち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ
一の息ながく絶えぬれば、
紅顔むなしく変じて
桃李の装を失いぬるときは、
六親・眷属集りて歎き悲しめども、
更にその甲斐あるべからず。

      一陣の風で消える

“人は病で死ねない。
だが、無常の風に吹かれたら、ひとたまりもない”
といわれます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
徳川時代、谷風という有名な関取がいた。
ある日、所用があって野原へ差しかかると
向こうから小さな小僧がやってきて、
「関取、一番取ろうか」
と、途方もないことを申し出る。
「何じゃワシを日の下開山と知ってのことか」
「知っていればこそ、一番取り組もうと言ったのだ」
「生意気な奴。さあ、どこからなりとかかってこい」
と大声でどなりながら取り組んだところが、
この小僧、なかなか腕力がある。
満身の力を込めたが、ついに谷風、
草むらの中に投げられて驚いた。
「やあ小僧、しばらく待った。
この谷風は天下無敵の日の下開山と、
われも人も許したものじゃが、おぬしはワシよりも一倍強い。
一体全体、おぬしは何者じゃ。
名前を聞かせてくれないか」
「私は谷風よりも強いわけじゃ。
あなたが谷風でも私は無常の風じゃもの」
と言った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

かつて名大関といわれた二子山親方も、
ガンに倒れ、過日、わずか55歳でこの世を去りました。
鍛え上げた肉体も、
無常の風の垣根にはならないのです。
一陣の風によって、
ろうそくの火がたちまち消えてしまうように、
私たちの命の灯もまた、
無常の風の前にはひとたまりもありません。

お釈迦さまは経典に、
「出息入息(しゅっそくにゅうそく)
不待命終(ふたいみょうじゅう)」
(出る息は入る息を待たずして命終わる)と、
説かれました。

ほとんどの人は、死は遠い先のことで、生と死とは、
全く別もののように考えています。
しかし、吐いた息が吸えなかったら、
吸った息が何かの拍子で吐けなかったら、
その時から後生、一息一息が、死と触れ合っています。

これほど近いものはありません。
「無常の風」とは死の風です。
手術で助かったと言っても、死が少し後れただけで、
やがて死ぬときが来ます。
日本中の名医や看護師を集めても、どんな薬を使っても、
無常の風を止めることはできないのです。
テレビなどで、遺体に身内の人が取りすがる光景が映されます。
「口を開けて」「もう一度笑って」「もう一度何か言って」
どれだけ嘆き悲しんでも、どうしようもない、
永遠の別れがやってくるのです。


さてしもあるべき事ならねばとて、
野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、
ただ白骨のみぞ残れり。
あわれというも中々おろかなり。

      すべての人の最期

どんなに大事な人でも、
いつまでもそのままにしてはおけませんから、
葬儀の相談が始まります。
野辺送りをして、火葬場の煙となったあとに残るのは、
一つまみの白骨でしかありません。
これが人間の本当の姿です。

生きているときは、これこそ本当だ、
間違いないものだと思って、
必死にかき集めた金も地位も、家族も、
一切を置いていかねばなりません。
あくせく働いた人生は一体何だったのか。
それまでの苦労に、どんな意味があったのか。
「無駄だった。バカだった、バカだった・・・・」
と、泣いて死んでゆく人生の末路を、蓮如上人は、
「あわれと言うも哀れ、おろかと言うも愚か」と、
悲しんでおられるのです。

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されば、人間のはかなき事は
老少不定のさかいなれば、誰の人も、
はやく後生の一大事を心にかけて

        万人共通の一大事

「老少不定」と言われるように、年の順に死ぬ、
ということは決まっていません。

若者の交通事故死も多くあります。
無常の前では皆、同い年。
だから、「誰の人も」と言われ、
後生の一大事の解決を急ぎなさいよ、
とおっしゃっています。

すべての人の行く先は後生です。
後生の一大事と無関係の人はいません。
浮世の丸太に心を奪われている私たちに、
後生の一大事を心にかけよ、
後生の一大事を忘れるな、と教えておられるのです。


阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり。

         一大事、解決の道

後生の一大事の解決は、
本師本仏の阿弥陀仏のお力によるしかないから、
釈尊は、
「一向専念無量寿仏」
“阿弥陀仏一仏を信じよ”とおっしゃっています。

それを蓮如上人は、
「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」と言われているのです。
早く弥陀にうちまかせ救い摂られよ、ということです。

阿弥陀仏は、
「すべての人を、必ず絶対の幸福に助ける」
との、とてつもないお約束をなされています。
たとえどんなことが起きても、
絶対に崩れることのない幸福を「絶対の幸福」といいます。
“すべての人を、あっという間もない一念で、
いつ死んでも極楽参り間違いない大満足の身に救う”と、
阿弥陀仏は誓っておられるのです。
世の無常を切々と訴え、“弥陀一仏を信じて、
早くこの一大事を解決し、
人と生まれし本懐を果たしなさいよ”というのが、
「白骨の御文章」に込められた蓮如上人の御心であります。

 


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コメント 5

minsuke

皆さん、ご訪問ありがとうございます。
nice押しだけで申し訳ないです。
皆さんに、どうしても真実の仏教を知らせたいと思っています。
知らなければならない、大変なことをお釈迦さまが
教えられています。
色を変えたところを少しでも読んでいただければ、
分かると思います。
また更新のお知らせに行くと思いますが、
よろしくお願いします。
by minsuke (2014-01-26 18:30) 

すもも

ご本人&niceありがとうございます。
by すもも (2014-01-26 20:33) 

ぽちの輔

ご訪問&nice!ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします^^
by ぽちの輔 (2014-01-26 20:57) 

ニッキー

ご訪問&niceありがとうございます。
by ニッキー (2014-01-26 22:46) 

minsuke

すももさん、ぽちの輔さん、ニッキーさん、
コメントありがとうございました。
今後もよろしくお願いします。
by minsuke (2014-01-26 23:19) 

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