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なぜ生命は尊いのか [なぜ生きる]


テストの成績を知られたくなくて、
保護者面談の日に自宅に火を放ち、
母と幼い兄弟を死なせた16歳少年がありました。
女性との交際をめぐって人を生き埋めにしたり、
隣近所の子供を狙ったり、
生命の尊厳を踏みにじる犯罪が相次いでいます。
悲劇が起きるたび、
「尊い命を守りましょう」
「命の大切さを実感させる」
「人命は地球より重い」
という言葉が多く掲げられます。
しかし、これは本当に、説得力のある言葉として
人々の心に響いているのでしょうか。
大人も子供も、「命は尊い」と本心から思っているのでしょうか


呼吸器取り外し問題と仏法

無理やり生かされるのはかわいそう?

「日本人の8割は、病院で死ぬ」
といわれます。
大多数の人が、そう遠くない将来、
かかわるであろう医療現場で、
末期患者の人工呼吸器が取り外され、
全国に議論を巻き起こしました。
(平成18年のことです)
奇しくも本誌編集部のすぐ近くの病院で
起きた出来事を通して、
仏教から“命の尊厳”を学びましょう。

今年の3月下旬、
富山県の射水市民病院の外科部長(当時)が、
ガン患者など7人の人工呼吸器を取り外していたことが
明らかになりました。

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病院長と外科部長の意見の相違から、
発覚したといわれますが、
両者の主張を整理すると、
まず病院長が指摘する外科部長の問題点は2つ。

1つは患者の意志がハッキリせず、
得られた家族の同意も口頭のみであったこと、
2つに、病院や他の医師に相談していないことです。
「明確な本人の意思が分からぬうえに、独断であった」
ことを問題視しています。

対して、外科部長は、
「快復の見込みもないのに、
人工的に無理やり生かされているのはかわいそう。
家族の同意も得たし、
患者のためにも死なせたほうがいい」
という考えです。

すべての人の100パーセント確実な未来である
死にかかわる問題に、大きな関心が寄せられました。
双方の見解に対して、新聞、雑誌などで論争が広がり、
さまざまな立場から、真摯に問う声が上がりました。
「医師が、『生命』のチャンスを断ってしまうのは
いかがなものかと疑問に思う」
「いかなる病院であっても人の生命を、
何の取り決めもなしに軽んじてはならない」

一方で、このような意見も多く見られました。
「意識もないのに生かされる延命治療は必要ないと思う」
「死に際しては、自然体が尊重されるべきだ」
「寝たきりの母を見ていると、
つい、楽にしてあげられたらと思う」
「意味のない延命は、医療費の無駄遣いでは?
家族の負担も心配だ」
その後、この病院では、「人工呼吸器は、
つけたら外さないことを基本方針として確認し
た」
と発表しました。

問われる大前提
     「延命の意味」と「命の尊厳」

それぞれの主張を突き詰めていくと、
このような論点が浮き彫りになります。
「延命に意味はあるのか」
「なぜ生命は尊厳なのか」

これはどういうことでしょうか。

例えば、「延命は是」という意見は、
「生きる=よいこと」という方程式が
正しいことを大前提にしています。
それが覆れば、延命は意味を失います。

逆に、「延命は患者に苦痛を与えるのみ」
と主張する人は、「延命は無意味、無目的」
と思っているのでしょう。
延命に重大な意味があれば、
苦痛があっても死なせてはならないからです。

いずれも、「延命に意味はあるのか」に
明解な答えがなくては、語れないことです。

ただ、多くの人は、この延命について、
「本人の意思を尊重せよ」
と結論づけています。
一見、もっともらしい回答ですが、この結論も、
「万人が命の尊厳を十分に知っている」
ことを大前提にしないと言えないことではないで
しょうか。

生死に無知なのは誰?

ところで私たちは、
「死」というものの実態をどれだけ知っているでしょう。
そもそも人が「死」を考える、という場合の「死」とは、
多くは「他人の死」であって、「自分の死」ではありません。

例えば肉親や知人が亡くなるのを見て、
「自分もいつか死んでいくんだな。
でもあんなふうに体中に管を巻かれて死にたくない」
と思ったり、
「できれば自分の意志で、
皆に送られながら自然に死にたいものだ」
と思っていますが、
これは、自分で見聞きした「他人の死」を
基準にして考えているだけで、
本当に「自分が体験する死」ではありません。
生きている私たちが、
「死」を体験するのは、すでに死んでしまった時で、
生きている人間には想像できないことなのです。

「死」があいまいなのですから、
生命の実態や、死後のこともだれも分かりません。

解剖学の権威という東大名誉教授も、
このようにサジを投げています。

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死について考えるといっても、
自分の死について延々と悩んでも仕方がないのです。
そんなのは考えても答えがあるものではない。(略)
死んだらどうなるかは、死んでいないから分かりません。
誰もがそうでしょう。
しかし意識が無くなる状態というのは
毎晩経験しているはずです。
眠るようなものだと思うしかない。
そんなわけで私自身は、
自分の死で悩んだことはありません。
            (養老孟司「死の壁」)

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「自分の死」ほどの大問題はないのに、
「仕方がない」とか、「悩んだことがない」で、
本当に納得できるでしょうか。

「死んだらどうなるか」が分からないから
「延ばした命で何をするのか」も
「なぜ命は尊いのか」も分からないのです。

だれしもが「生きる意味」「生命の尊厳」という
人生の根本問題に、
全く無知だということはないでしょうか。


仏陀・釈尊の教え
    「天上天下 唯我独尊」

ではそれを知るにはどうすればよいのか。
それは、人智を超えた仏さまの教えによって
知る以外にありません。

世界の三大聖人の筆頭に挙げられるお釈迦さまは、
35歳で大宇宙最高の仏のさとりを開かれ、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
教えを説かれました。
では、生命の尊厳を、
仏教ではどのように教えられるのでしょうか。
釈尊は、
「天上天下 唯我独尊」
とおっしゃっています。

お釈迦さまが誕生された時、
天と地を指さされておっしゃったといわれるお言葉です。
多くの人は、これを
「この世でいちばん偉くて尊いものは、
自分一人である」
と、釈尊が威張り、
うぬぼれて言われたことのように扱っています。
しかし、このお言葉は、
決してそのような思い上がった御心で
おっしゃったものではありません。
なぜなら、この「我」というのは、
決して釈尊だけのことではないからです。
この「我」は、人間一人一人のことなのです。
「独尊」とは、たった一つの尊い使命ということで、
自分一人が偉いのだということではありません。

このお言葉は、我々人間は、天上天下、広しといえども、
たった一つしかない聖なる使命を果たすべく、
この世に生まれてきた、という意味なのです。

ですから、人間だれしも釈尊と同じように、
「天上天下 唯我独尊」
なのであり、またそういえるのです。
「私たちは、過去無量劫の永い間、
生まれ変わり、死に変わり、流転を重ねてきたが、
人間に生まれなければ絶対に完成できない
尊い目的があるのだ」
ということです。

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よくぞ人間に
     生まれたものぞ
  
      盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ

この尊い使命を果たした喜びを、
お釈迦さまはこうおっしゃっています。

「人身受け難し、今已(すで)に受く。
仏法聞き難し 今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん」

「人身受け難し、今已に受く」
とは、
「生まれ難い人間に、生まれることができてよかった」
という喜びの言葉です。
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
という生命の大歓喜です。
仏教では、
「人間に生まれたことは大変ありがたいことだから、
喜ばねばならないよ」
と説かれています。

『雑阿含経』の中には、
有名な盲木浮木の譬えがあります。

ある時、お釈迦さまが阿難というお弟子に、
「そなたは人間に生まれてきたことを
どのように思っているか」
と尋ねられました。
「大変喜んでおります」
と阿難尊者が答えられると、
お釈迦さまは次のような話をされています。
「果てしもなく広がる海の底に、
目の見えない亀がいる。
その盲亀が、100年に一度、海面に顔を出すのだ。
広い海には一本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は風のまにまに、西へ東へ、
南へ北へ漂っているのだ。
阿難よ。100年に一度、浮かび上がるこの亀が、
浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴にひょいと
頭を入れることがあると思うか」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」
と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」
お釈迦さまが念を押されると、
「何億年かける何億年、何兆年かける何兆年の間には、
ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、
無いと言ってもよいくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、
この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、
難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
とお釈迦さまは教えられています。

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「有り難い」とは「有ることは難しい」ということで、
めったにないことをいいます。
『涅槃経』には、
「地獄に堕つる者は十方世界の土の如く、
人間に生まれる者は爪の上の土の如し」

とも説かれています。
人間に生まれることは、それほど喜ばねばならないことだと、
お釈迦さまは教えられている
のですが、
喜んでいるどころか、何で生まれてきたのだろう。
人間に生まれさえしなければ、
こんなに苦しまなくてよかったのに、
と恨んでいる人さえあります。

それは、何のために人間に生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
なぜ苦しくても生きねばならないのか。
人生の目的が分からないからです。

受け難い人身を受けたということは、
人間に生まれなければ果たせない大切な聖使命があり、
それを達成するための命なのだということです。

唯一無二の聖使命

ではその聖使命とは何でしょう。
それこそがお釈迦さまがこの世へ生まれられた、
たった一つの目的です。
その釈尊の出世本懐を、
一切経を何度も読破せられた親鸞聖人は、
『正信偈』に次のように仰せられています。

「如来、世に興出したもう所以は
唯、弥陀の本願海を説かんがためなり」
「釈迦如来が、この世に生まれ出られ、
仏教を説かれた目的はただ一つ。
弥陀の本願を説くためであったのだ」


「すべての人々を、
必ず絶対の幸福にしてみせる」
と誓われた、大宇宙の仏方の本師本仏である
阿弥陀仏のなされたお約束のことです。
「この世界広しといえども、
唯一無二の弥陀の本願を説くという、
たった一つの尊い使命を担って、
この釈迦は生まれてきたのだ」

という、釈尊の使命感が、
「天上天下 唯我独尊」
という格調高き宣言となったのです。

お釈迦さまはこのように、
弥陀の本願を説くという、たった一つの聖使命を、
「唯我独尊」とおっしゃいました。
同時に、
一切の人々は、
その仏陀・釈尊が唯説なされた
弥陀の本願を聞くことが、
人間に生まれた、
たった一つの使命なのだと示されています。


釈尊と私たちとは、「弥陀の本願」という一点において、
共通の人生の目的を持っているのです。

ところが、それを知らぬ人々は
人生の目的を何と心得ているでしょうか。
人生の喜びを金儲けと見定め、
マネーゲームに興ずる者たち、
地位を追い、名誉に明け暮れて、
むなしく一生を過ごす人。
スポーツや芸術に醍醐味を見出し、
花鳥風月をめでる人。
人の数だけ人生はあっても、
「わが人生こそ『独尊』なり」
と、心から叫べる人はどれだけあるでしょうか。

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「人の一生は
重荷を負うて
遠き道を行くがごとし」
と、徳川家康は天下を取ってもなくならぬ
人生の苦しみを告白し、
「花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ 多かりき」
と、作家の林芙美子は振り返っています。
いずれも涙とともに、
はかなく一生を閉じているではありませんか。
仏教に説かれた本当の人生の目的が
明らかに自覚されていない人は、
決して、
「天上天下 唯我独尊」
と叫ぶことはできないのです。

そこで釈尊は次に、
「仏法聞き難し 今已(すで)に聞く」
と仰せられています。
「聞き難い仏法、よくぞ聞かせていただいたものぞ。
仏教の真髄、弥陀の本願を聞くことができてよかった」
の法悦です。

しかも、このように
弥陀の本願を聞かせていただくことは、
何億年に一度しか巡ってこない
絶好のチャンスなのだ
と、
「この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん」
と仰せられ、真剣な聞法求道を勧めておられます。

弥陀の救いは
    ハッキリする
     臨終 息の切れ際でも

弥陀の救いは「一念」で完成します。
「一念とは時尅(じこく)の極促」と
親鸞聖人はおっしゃっています。
何億分の一秒より短い、時間の極まりをいいます」
阿弥陀仏は「ひとおもい」で
絶対の幸福にしてみせると誓っていられるのです。

これを聖人は、
「一念往生」とか、
「一念の信心」
ともおっしゃっています。
いずれも、アッという間もない時尅の極促に、
無上の幸福を与えてくださるのです。
この身今生、ただ今の一念で、
迷いの世界から出離できる。
かくて、仏法を聞き、
未来永遠の絶対の幸福を獲得(ぎゃくとく)した時にこそ、
人間に生まれた本当の有り難さ、
輝く生命の尊厳が知らされるのです。

仏法を聞き開かぬ限り、
人界受生(じんかいじゅしょう)の本当の喜びなど
絶対に分かるものではありません。

弥陀の救いに値う(あう)ことこそ、
人生の目的であり、
それは臨終、息の切れ際でも達成できます。
だからこそ、一分一秒でも命を延ばすことが、
極めて大切になるのです。

人間に生まれてきた唯一の聖使命を知り、
その使命に向かって全力を挙げ、
この使命を成就した時にこそ、
すべての人々が、天と地に向かって、
「天上天下 唯我独尊」
と、絶叫せずにいられなくなるのです。

これを機縁に我々の生きる聖なる目的について、
深く考えてみようではありませんか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
読者の声

人間に生まれた意味をしらせていただいたことが、
何よりの喜びであります。
私の命の尊さも知らされた。
       (石川県・70代男性)

一刻も早く生命の歓喜する身となり、
家族や周りの人たちにも
伝えられる人になりたいと思います。
       (栃木県・30代女性)

生まれ難い人間に生を受けた喜びに手を合わせ、
日々仏法を心にかけて暮らします。
       (富山県・70代女性)

正しい生命の実相を知らねば、
大人も子供も救われません。
       (石川県・80代女性)

有り難く尊い生命を頂いたことを、教えていただきました。
        (滋賀県・80代男性)

 


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