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一息切れると、なぜ大苦悩の世界に堕ちるのか! [後生の一大事]

親鸞聖人は『正信偈』の冒頭2行に
次のように書かれています。 

帰命無量寿如来
南無不可思議光

「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」

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と、弥陀に救われた喜びを
叫ばれた聖人の大歓声であり、
その「救われた」とは、
「後生の一大事」のことであることを、
繰り返し述べてきました。


「後生」とは、一息切れた後。
「死んだらどうなるか」の大問題を、
仏教では「後生の一大事」といわれます。

私たちの百パーセント確実な未来ですから、

「誰の人も、早く後生の一大事を心にかけよ」
             (白骨の御文章)
と蓮如上人は訴えておられるのです。
「一大事」といっても、世間で使われる意味とは、
全く異なります。

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例えば自宅の全焼や会社の倒産などは、
確かに大変な出来事でしょう。
「一大事」と普通は思いますが、
それらはまだやり直しがきく。
火事ならば「焼け太り」もあり、
経営失敗から再起し
大成功する人もあります。
恋人にフラれた心の傷も、
時間が癒してくれるでしょう。
取り返しのつくことは、どんな深刻な事態でも、
仏教では「小事」です。

「一大事」とは、一度起きたならば、
二度と取り返しのつかないことだけをいわれます。

一息一息触れ合っている、この「後生の一大事」を、
親鸞聖人はこう説かれています。

呼吸のあいだ、すなわちこれ来生なり。
一たび人身を失いぬれば、万劫にもかえらず。
この時さとらざれば、
仏、衆生をいかがしたまわん。
願わくは深く無常を念じて、
いたずらに後悔をのこすことなかれ

            (教行信証)

一息つがざれば次の生である。
永久に後悔する後生を迎えねばならぬ。
ただ今、救われねば、
いつするというのだろうか。
いつできるというのだろうか。
永遠のチャンスは今しかない。

刻々と迫る無常を凝視して、
決して後悔をのこさぬように
永久に後悔する後生を一大事といわれ、
この一大事の解決を急げ
、とのご文です。

蓮如上人もまた、

命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得(おんこころえ)あるべく候
           (御文章)

生きている時に、
「後生暗い心」が晴れなければ、
必ず後悔しますよ、
仏法は生きている間が勝負なのだ

とお叫びです。

では、なぜ後生に一大事が起きるのか。
「火の車 造る大工はなけれども 
己が造りて 己が乗りゆく」
私に現れる運命のすべては、
他の誰が生み出したものでもない、
全部わが身のまいたタネ。
厳粛な「善因善果 悪因悪果 自因自果」の
因果の大道理にしたがってのことであるのです。

(因果の道理に関しての記事は以下にアクセスしてください。
運命を決めるものは何?

すなわち、まいたタネに応じた結果が、
まいた本人に現れる、
自業自得に寸分の狂いもない、

しかもそれは、現世のみならず
過去・現在・未来の三世を
貫いて成立している

だから後生未来の結果は、
現在の自己のタネまき(行為)を
徹見すれば分かる
のだと、
お釈迦さまは仰せなのです。

では、私たちは日々、
どんな行いをしているでしょうか。

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○心、口、体で犯す十の罪悪

仏教では、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて、
「十悪」と教えられています。
貪欲、瞋恚、愚痴、綺語、両舌、
悪口、妄語、殺生、偸盗、邪淫の十の罪です。

初めの貪欲、瞋恚、愚痴の三つは、
心で犯す罪悪をいいます。
仏教では「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」
といわれて、口や身体で犯す罪よりも、
心で思う罪はもっと恐ろしいといわれます。


最初の「貪欲」とは、底の知れない欲の心。
金が欲しい、物が欲しい、
褒められたい、認められたい、
もっともっとという限りない欲に、
私たちはどれだけ恐ろしいことを
思い続けていることでしょう。

「あいつがいなければ」「こいつさえ消えれば」
「あの人が失敗したらいいのに」と、
心で蹴落とし、殺してはいないでしょうか。
親子兄弟、友人、恩人、だれに対してであれ

自分の欲のためには、
どんなことでも平気で浮かんできます。

遺産相続で、兄弟や親戚同士、
骨肉相食む(あいはむ)争いは
この欲の心が引き起こす惨劇です。

その欲が妨げられると、
出てくるのが「瞋恚(しんい)」、
怒りの心です。

「あいつのせいで儲け損なった」
「こいつのせいで恥かかせられた」
と、怒りの心が燃え上がります。

離婚話にカッとなった男が、
部屋に灯油をまき火をつけ、
妻も子供も焼き払った事件がありましたが、
この瞋恚のなせる業(わざ)でしょう。

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次の愚痴」とは、ねたみ、そねみ、恨みの心。
欲を起こしても、怒ってみても、
かなわぬ相手と知ると、
ねたみ、そねみ、うらみの心が

わき上がってはこないでしょうか。

相手の才能や美貌、金や財産、
名誉や地位をねたみ、そねみ、
相手の不幸を喜ぶ悪魔の心。

災難に遭って苦しんでいる人に、
「お気の毒に」と言いながら、
心ではニヤリとする心です。
親鸞聖人は、ヘビやサソリを見たときのような、
ゾッとする心だといわれています。

これらの心が口に表れれば、
綺語、両舌、悪口、妄語となります。
綺語」とは、心にもないお世辞です。
両舌」とは二枚舌ともいわれ、
仲のよい人の間を裂いて、
仲悪くするようなことを言うこと。
悪口」とは、中傷でありワル口のこと。
妄語」とは事実無根のウソをつくことです。

これらの言葉で、
深く傷ついた経験のない人はいないでしょう。

「『2ちゃんねる』さえなければ、と思った。
ネットの怖さをもっと分かってほしい」。
インターネット掲示板の誹謗で被害を受けた、
ある学校法人の学園長は、
いわれなき中傷に翻弄された二年間を
苦渋の表情で振り返ったといいます。
元生徒の父親の心ない書き込みに、
多くの者が「祭り」と称して便乗したものと確認され、
父親は罰金刑。
ネット上には、匿名を利用した
悪質な中傷があふれています。
言ったほうは自覚がなくても、
言われたほうは死ぬまで忘れられないもの。
面白半分の言葉が、どれだけの人を苦しめ傷つけ、
殺しているかしれません。

さらに、体では殺生、偸盗、邪淫の悪を造っています。
殺生」とは生き物を殺すこと、
偸盗」は他人のものを盗むこと、
邪淫」はよこしまな男女関係をいいます。

このように、心や口や体で
十悪を造り続けているのが
私たちだと、教えられているのが仏教です。

●親を殺す五逆の大罪

その「十悪」よりも重いのが「五逆罪」。
五つの恐ろしい罪のことですが、
中でも最初に挙げられているのが、
親殺しの罪です。
十六歳の少年が金属バットで
お母さんを殴り殺したとか、
五十代の男が年老いた母親を
刺し殺したなどという事件が、
時々耳に入ってきます。
赤ん坊のころは、
お乳を飲ませてもらったり、
おむつを取り替えてもらったのではありませんか。
病気になれば寝ずに看病してもらったり、
離れていれば、いつも心配してもらって
成長してきたのです。
そんな大恩ある親を自らの手で殺すなど、
人間の心を持たぬ
鬼の仕業ではないかとさえ思われます。

仏教では、このような親殺しの大罪は、
最も苦しみの激しい無間地獄へ堕つる恐ろしい
「無間業」であると教えられています。

ところが親鸞聖人は、このように手にかけて
殺すばかりが親殺しではないのだ
と、

親をそしる者をば五逆の者と申すなり 
            (末灯鈔)
と言われています。
親をそしるのも五逆の罪なのです。
「早く死んでしまえ」などと言うのは無論ですが、
「うるさい」「あっちへ行け」
などとののしるのも、親を殺しているのです。

また前述のとおり
教では、心を最も重くみられます。
一つ屋根の下に暮らしておりながら、
ろくに口もきかず、食事も別々に取り、
呼ばれても聞こえないふりして
親を邪魔者扱いしているのは、
心で親を殺しています。

親が病気にでもなり
寝たきりになったらどうでしょう。
世話を嫌って、「邪魔だなあ」
「いい加減死んでくれたら」
という、とても他人にはいえない心が
噴き上がってこないでしょうか。


数年前、女手一つで、
四人の男の子を大学まで出させ、
一流企業に入社、
結婚させたお母さんの悲劇が
紹介されていました。


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その四人の兄弟夫婦が集まり、
年老いた母の面倒を誰が見るか、
ということで深夜まで激論したが、
誰一人として面倒を見ると言う者がいなかった。
その一部始終を隣の部屋で聞いていた母親は、
翌朝、電車に飛び込み、自殺したのです。
手にかけて殺さずとも、
私たちは心でどれだけ親を
殺しているか分かりません。

●もっとも恐ろしい謗法罪

「五逆罪」よりも、もっと恐ろしいのが
「謗法罪」です。

謗法」の罪とは、真実の仏法を謗ったり
非難することをいいます。

なぜ仏法を謗ったり非難することが、
そんなに重い罪なのか。
それは、仏教はどんな教えかを知れば、
はっきりとお分かりになるでしょう。

今日も多くの人に尊敬されている
かの聖徳太子は、
有名な十七条憲法に、
仏教を「四生の終帰、万国の極宗」
と言われています。
「四生」とは、生きとし生けるものすべて。
「終帰」とは最後、帰依するところという意味で、
生きとし生けるものの救われる
唯一絶対の教えであるということです。
聖徳太子が断言されているように、
古今東西のすべての人が救われる
たった一本の道が仏教ですから、
「万国の極宗」とも言われているのです。

親鸞聖人は、
九十五種世をけがす、唯仏一道きよくます
ただ念仏のみぞまことにて在します」(歎異抄
私たちを真に救いきる教えは
仏教以外にないぞ、
弥陀の本願念仏のほかに
助かる道はないのだよ

と、明言されています。
そんな仏教を謗り、
弥陀の本願念仏を非難することは、
すべての人の救われる
たった一本の道をぶち壊すことですから、
こんな恐ろしいことはありません。

それは何十億、何百億、幾億兆の人を
地獄へ突き落とすことになりますから、
これ以上重い罪はないのです。

念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまう  

        (正像末和讃)

「最尊の念仏を謗る者の報いは恐ろしい。
必ず阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちて
八万劫という永い間、
ひまなく大苦悩を受けねばならぬと、
経典に説かれている」

それだけではありません。
地獄と聞いても驚かず、
極楽と聞いても喜ばず、
あの人が死んだかと驚いて
一時は同情の涙が出ても、
自分は当分は死にはせぬと
平気でいる心が「闡提(せんだい)」で、
ドタ牛のように動かない。
頭は承知していても肝が承知しない。
道理は分かっても納得できない。
なんの不足もないのに満足がない。
分かって分からず、知って知らず、
急いで急がず、泣いて泣かず、
なんともかんとも言えないような奴が闡提です。
十悪・五逆・謗法・闡提

照らし出された人間の実相を、
親鸞聖人は、次のように記されています。
一切の群生海、無始より已来、
乃至今日・今時に至るまで、
穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心無く、
虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心無し
「無始より已来、一切群生海、無明海に流転して、
諸有輪に沈没し、衆苦輪に繁縛(けばく)せられて、
清浄の信楽無く、法爾として真実の信楽なし」
            (教行信証信巻
「然るに微塵界の有情、煩悩海に流転し、
生死海に漂没(ひょうもつ)して、
真実の廻向心無く、
清浄の廻向心無し」
            (教行信証信巻
繰り返し、後生の一大事を
警鐘乱打されているのです。

これが単なる合点ではなく、
自身の実相として照らし出された時、
一切の助かる望みが絶え果てて、
必ず火だるまになって
必定地獄を実感させられる。

いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし

         (歎異抄)

は、その時の聖人の悲痛な
叫びでありました。
同時に、
弥陀の呼び声を聞き
破闇満願させられて、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり、
されば若干の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ
            (歎異抄


と躍り上がっておられます。
『正信偈』冒頭の、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」

「阿弥陀如来に親鸞、
いま救われた、助けられたぞ」
の叫びは、
この「後生の一大事」を救い摂られた時の驚き、
喜び、感動の告白なのです。

ですから、
「後生の一大事」が分からなければ、
この二行の意味がサッパリ分からず、
冒頭が分からねば、
『正信偈』は最後の行まで、
何を言われているのか
全く分からないことになってしまいます。
よくよく知っていただきたいと思います。

では、この極悪の親鸞が、
どうして救われることができたのか。
それは全く、阿弥陀仏のこのような
ご苦労があったからなのだ。
広大無辺なご恩を、喜ばずにはおれない」
と詳しく説かれているのが、次に、
「法蔵菩薩因位時
在世自在王仏所」
と続くお言葉です。

それは、以下の記事を
読んでいただければ分かると思います。

法蔵菩薩(阿弥陀仏)のご苦労とは

 

 


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