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阿弥陀仏の大慈悲心とは! [阿弥陀仏]

大悲の願船に乗じて、
 光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風しずかに、
  衆禍の波、転ず
        ーー教行信証

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●私たちを唯一救ってくだされる
         大慈悲の仏


大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風しずかに、
衆禍の波、転ず
       (教行信証行巻)

“大悲の願船に乗って見る人生の苦界は、
千波万波きらめく明るい広海ではないか。
順風に帆をあげる航海のように、
なんと生きるとは素晴らしいことなのか”

親鸞聖人は、初めに「大悲の願船」と仰っています。
「大悲」とは、「大慈悲心」のことです。
ここに、「慈悲」という言葉が出てきます。
日常でも、「あの人は慈悲深い方だ」とか、
「あんな無慈悲なやつとは思わなかった」など、
「慈悲」という言葉を使いますが、
本来、「慈悲」とはどういう意味なのでしょう?
「慈悲」とは、慈の心と、悲の心に分けられ、
親鸞聖人が大変尊敬しておられる、
中国の曇鸞大師は、
「苦を抜くを『慈』という、
楽を与うるを『悲』という」

と教えられています。


大事なわが子が病気で苦しんでいると
居ても立ってもいられない、
真夜中でも病院へ連れていって苦しみを
抜いてやりたいと思うのは、
親の「慈」の心。

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動物園や遊園地に子供を連れていき、
楽しませてやりたい思いは、
親の「悲」の心といえましょう。


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 慈の心は、
抜苦(苦しみをぬいてやりたい)の心、
悲の心は、
与楽(幸せを与えてやりたい)の心ともいわれます。

苦しみをなくして幸せになりたいのは、
誰もが願っていることですが、
現実はどうでしょう。

●人生は「苦しみの花咲く木」

人生は「苦しみの花咲く木」といわれます。
病気という苦しみの花が咲き、
治療に専念していると、
経済的に困窮するという別の花が咲く。
病気も治り、何とか仕事がうまく回って、
貧苦の花の枝をやっと切り落とせたと思ったら、
今度は家族との関係がこじれていた。
その修復をしているうちに、
体調を崩したり、思わぬ事故やトラブルに
巻き込まれたりと
新たな苦しみの花が咲き乱れる。
天災や人災、リストラや大切な人との死別など、
さらに深刻な苦の花が咲くことも・・・。
生きるって、本当に大変。
とにかく目の前のことを一つ一つ解決していこうと、
私たちは頑張っています。
一人の力ではどうにもならぬと、
政治、経済、科学や医学と、
総力挙げて苦しみの花を
切り落とそうとしています。
景気や雇用の問題を解決するのが
政治の役目ですし、
快適に過ごすには科学技術も必要。
病苦を除くには医学の力が欠かせません。
明日への活力を与えるスポーツや芸術も大切でしょう。
人間の営み全ては、いかに苦しみを減らし、
幸せを得るかの努力にほかなりません。
言うまでもなく、いずれも大事なことばかりですが、
もう少し踏み込んで考えてみましょう。


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かつて、政治や経済、科学、医学などによって
人生苦がなくなり、
「人間に生まれてよかった!」
との生命の歓喜を得られたことがあったでしょうか。
古今の歴史をひもといてみれば、
どの時代でも、どこの国でも、
人生には常に深刻な不安や悩みが付きまとい、
私たち人間は一時的な幸せしか得られませんでした。

一つの枝を切ってヤレヤレと思っても、
また別の枝に苦しみの花が咲く。
どれだけ努力して枝を切ったところで、
苦の根っこがある限り、
また新たな苦の花が咲く。

どこまでいっても、
人間に生まれた真の喜びにはたどり着けません。
歴史を直視すれば、それが、
私たちの現実の姿です。
終わりなき苦しみを根本解決するには、では、
どうすればいいのでしょうか。

その答えを示されているのが、
実に仏教なのです。

●阿弥陀さまは「大慈悲」の仏

仏教とは、仏さまの説かれた教えです。
一口に「仏」といいましても、釈迦は、
大宇宙には地球のようなものは
数え切れないほどあり、
そこには無数の仏さまがまします
と説かれています。
それらの仏方を、「十方諸仏」とか「十方三世の諸仏」
といわれます。

「仏心とは大慈悲これなり」
と言われるように、仏さまは皆、
慈悲深いお方ですから、
仏教は「慈悲の教え」ともいわれます。
苦しみを抜き、楽しみ(幸せ)を与える。
これ以外に仏さまの願いはありません
から、
仏教の目的を漢字四字で示すなら、
「抜苦与楽」で100点満点です。
しかし、苦しみを抜いてやりたいと
どれだけ願っても、
重すぎる病は治せぬように、
力及ばぬことがあります。

十方諸仏は、苦しみにあえぐ私たちを、
何とか助けようとされたけれど、
とてもかなわぬと
さじを投げてしまわれた
のだと、
蓮如上人は、『御文章(御文)』にこう書かれています。

それ、十悪・五逆の罪人も、
(乃至)空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

凡夫とは、私たち人間のこと。
私たちは煩悩の塊で、
罪が重く、「十悪・五逆の罪人」と言われる
「救い難い者」なのです。
助けてやりたいのはやまやまだが、
とても我々の手には負えぬと、
十方諸仏は、私たちを救うことを
断念せざるをえなかった。

では私たちは、真の幸せを知らぬまま、
あくせく生きて、
むなしく死んでいくばかりなのでしょうか。
そうではありません。
諸仏に見捨てられた極悪人なら、
なおかわいいと、ただ一仏、
「われひとり助けん」と立ち上がってくだされた
仏さまがいらっしゃいます。
その方こそが、
十方諸仏の師・阿弥陀如来なのです。
大宇宙最高の仏である弥陀だけが、
「どんな人も我をたのめ、
必ず絶対の幸福に助ける」
という無上の誓願を建立してくださいました。

蓮如上人は、それを次に明示されています。

ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
(乃至)弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」
という超世の大願を発して、
われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して、
すでに阿弥陀仏と成りましましけり

        (御文章二帖目八通)

苦しみの花咲く木の根元から
解決できる仏さまは、
この大宇宙に弥陀一仏だということです。

私たちの苦悩の根元を断ち切り、
「人間に生まれてよかった」と
生命の歓喜を与えてくださるお力を持つ
唯一の仏さまですから、

阿弥陀仏はすべての仏から、
「われらが師匠だ。本師本仏だ」
と褒めたたえられています。

阿弥陀仏の御心は
「衆生苦悩 我苦悩
衆生安楽 我安楽」
“衆生の苦悩は、我が苦悩であり、
衆生の安楽は、我が安楽である”

弥陀にとって、人々の苦しみは
ご自分の苦しみであり、
人々の幸せがご自身の喜びなのです。

「おまえを助けるためなら、
どんな苦労もいといはしない。
見捨てはしないぞ。我にまかせよ」

の阿弥陀仏の御心は、
まさに限りなき大慈悲心にほかなりません。
この阿弥陀仏の大慈悲心の願いによって
造られた衆生救済の大船を
「大悲の願船」と親鸞聖人は仰っています。


聖人は、「必ず絶対の幸福に救う」
弥陀の誓願どおりに、
この世で無上の幸福に救い摂られ

「親鸞は、弥陀の大悲の願船に
乗せていただいたぞ!
この広大な世界、皆にも知らせたい」

と、歓喜の叫びを『教行信証』に
書きつづっておられるのです


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