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人間にはどれほど生まれ難いのか? [六道輪廻]


(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

ああ 受け難き 人身
     人と生まれし意味を聞く

2月は、仏教を説かれたお釈迦さまが
お隠れになった月。
2600余の星霜(せいそう)を経て、
釈迦45年間の仏教は一層私たちを引きつけます。
「仏教とは、すべての人の出世の本懐(人生の目的)である」
と親鸞聖人は、一言で喝破なされています。

生きる目的をどのように教えられているのか、
詳しくお聞きしましょう。

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●祝福された産声が
  やがてウラミの声に
    変わるのはなぜ?

「産声を聞いた時、
赤ちゃんが生まれた喜びで
体中が熱くなり、
涙があふれて止まりませんでした」

ある母親の言葉です。
誰もが祝福されてこの世に生を受けました。
人間に生まれたことを、みんなが
「おめでとう」と歓迎したのです。

ところが歓迎された当の“主人公”は、
成長するにつれて、人生の荒波にもまれ、
「何で生まれてきたのだろう」
と生まれたことを後悔し、
「なぜ俺を産んだ」
と、親を恨む人さえあります。

人生を「ハズレくじ」のように思っているのでしょう。
本当は、誰もが、人間に生まれたことを
心の底から喜びたいはずです。

太宰治は小説『斜陽』の中で、
登場人物にこう言わせています。

「幸福の足音が、廊下に聞こえるのを今か今かと
胸つぶれる思いで待って、からっぽ。
ああ、人間の生活って、あんまりみじめ。
生まれて来ないほうがよかったと
みんなが考えているこの現実。
そうして毎日、朝から晩まで、
はかなく何かを待っている。
みじめすぎます。
生まれて来てよかったと、
ああ、いのちを、人間を、世の中を、
よろこんでみとうございます」

なぜ生まれ難い人間に生まれたことを
よろこべないのか。
それは「人生の目的」を知らないからだ、
と仏教で教えられています。
何のために生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
なぜ苦しくても生きねばならないのか。
この人生の根本問題に
真正面から答えたのは仏教なのです。

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん」  (釈尊)

生まれ難い人間に生まれることができてよかった。
聞き難い仏法をよくぞ聞くことができた。
何が何でも今生で救われねば、
いずれの生で救われようか。
永遠のチャンスは今しかないのだ。

今回はこの言葉を通して学びましょう。

●人間にはどれほど
    生まれ難いか?

「人身受け難し、今已に受く」
「人身」とは私たち人間のこと。
「人身受け難し」とは、
「人間に生まれ難い」という意味です。


人間に生まれることはどれほど難しいか、
他の生き物と比較してみましょう。
マンボウが一度に産む卵の数は3億個といわれます。
これだけで日本の人口の2倍以上。

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『蟻の自然誌』によるとアリの数は、
約一京(いっけい)(一兆の一万倍)で、
すべてのアリの重さを計算すると、
全人類の総重量に匹敵するそうです。
昆虫の総数になると100京にも上るといわれます。
人間は、爆発的に増えたといっても70億ですから、
かりに人口を100億にしても、
昆虫の数(100京)は、その1億倍になります。
単純計算すると、
人間に生まれる確率は昆虫の1億分の1です。
もちろん昆虫以外にもたくさんの動物がいます。
名前がついているだけで120万種といわれ、
未発見のものを含めると、
870万種に上るという説もあります。

全生命の総数ともなると、もはや計り知れません。
もし、自分が、あのアリの行列の一匹、ハエ、蚊だったら・・・。
そう思うと、人間に生まれることが、
いかに困難か、お分かりになるでしょう。

●お釈迦さまの説かれた 
   「盲亀浮木の譬え」

人間界に生を受けることがいかに有り難いか、
お釈迦さまは、譬えで教えておられます。

ある時、お釈迦さまが阿難というお弟子に、
「そなたは人間に生まれることを
どのように思っているか」
と尋ねられました。
「大変喜んでおります」
と阿難尊者が答えると、
お釈迦さまは盲亀浮木の譬え
お話なさっています。

「果てしなく広がる海の底に、
目の見えない亀がいる。
その盲亀が、100年に一度、
海面に顔を出すのだ。
広い海には1本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は風のまにまに、
西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。
阿難よ。100年に一度、浮かび上がるこの亀が、
浮かび上がった拍子に、
丸太ん棒の穴にひょいと頭を入れることがあると思うか」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」
と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」
お釈迦さまが念を押される。
「何憶年かける何憶年、何兆年かける何兆年の間には、
ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、
無いと言ってもよいくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、
この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、
難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
と教えられています。

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「有り難い」とは「有ることが難しい」
ということで、めったにないことをいいます。
人間に生まれることは、
それほど喜ばねばならないことだと、
お釈迦さまは教導されているのです。

また、『涅槃経』には、

人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。
三途に堕つるものは、十方の土のごとし

人間に生まれるものは、
爪の上の砂のように少なく、
三悪道(地獄・餓鬼・畜生に苦しみの世界)に堕つる者は、
大宇宙の砂の数ほど多い。

とも説かれています。

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●人生の目的を
  達成してこそ・・・

ところが、これほど生まれ難い人間に生まれながら、
喜んでいるどころか、
「なんで生まれてきたのかなあ」
「人間に生まれさえしなければ、
こんなに苦しまなくてもよかったのに」
と恨んでいる人さえあります。
それは、何のために人間に生まれ、
生きているのか、人と生まれし本懐は何か。
人生の目的が分からないからです。

「人間に生まれたのはこれ一つのためであった」
と人生の目的を達成させていただいた時こそ、
「人身受け難し、今已に受く」
「人間に生まれてよかった!」
という生命の大歓喜が起きるのです。

では、仏教で生きる目的を
どのように教えられているのでしょう。
明らかにしたいと思います。

●悲劇の輪から離れ出るには

仏教に説かれる生きる目的を、
自らハッキリ知らされ、
生涯多くの人に伝えていかれた親鸞聖人は、
こう仰っています。

昿劫多生のあいだにも
出離の強縁知らざりき
本師源空いまさずは
このたび空しく過ぎなまし
        (高僧和讃)
(※昿劫・・・果てしない長期間
  多生・・・生まれ変わり死に変わりして、
       多くの迷界をさまよってきたこと
  本師源空・・・親鸞聖人の師・法然上人
  高僧和讃・・・親鸞聖人がインド・中国・日本の
         7人の高僧を讃歎された詩)

このご和讃のこころです。
果てしなき長い間、迷いの世界を
生まれ変わり死に変わりして、
苦しみ続けてきた。
よもやこの身が、この世で
阿弥陀仏のお力(出離の強縁)によって
無量光明土(極楽浄土)に必ず往生できる身に
救い摂られるとは、
親鸞知らなかったなあ。
もし、真の恩師・源空(法然)上人にお会いできなかったら、
二度とないチャンスを失い、
永遠に苦しんでいたに違いない。
危ないところを親鸞、法然さまに救われたのだ。

まず「昿劫多生のあいだにも」とは、
遠い過去から幾度も生死を繰り返してきたことを
表されています。
その間、真の救いを求めたがかなわず、
迷いの世界(六道)を経巡って苦しんできた、
ということです。

私たちが今、生まれ難い人間界に生まれるまでには、
過去果てしない長期間、
6つの苦しみの世界(六道)を
生死輪廻してきたのだと
お釈迦さまは教えられています。
これを「六道輪廻」とか「流転輪廻」ともいわれます。

「輪廻」は輪が廻る(まわる)と書くように、
ゴールのない円周を、限りなく回っているさまです。

 

試合に負けたバツだ、と部活動の顧問が生徒に言いつける。
「私がいいと言うまで、おまえたち、
グラウンドを走っておれ!」
ところが罪なことに気分屋の顧問は、
生徒を走らせていることをすっかり忘却、
帰宅してしまった。
夕食を取ってくつろいでいた時に思い出して、
慌てて学校に駆けつけると、
生徒たちはまだ黙々と走り続けていたという。
トラックから外れることもできず、
ゴールの見えないランニングを続けていた
彼らの未来は、悲惨な走り倒れです。
その苦しみの輪を出て、
往生一定(極楽往き間違いなしとハッキリすること)
の身に救ってくださる教えが、実に仏教なのです。

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●一瞬の人生で、永の(ながの)迷いを晴らす

次に「出離の強縁知らざりき」の「出離の強縁」とは、
六道輪廻を断ち切り、
迷界から出て離れ、二度と迷わぬ絶対の幸福の身に
助けてくだされる強烈なお力を「強縁」といわれます。
これは、阿弥陀仏の本願力のことです。

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「本願」とは「誓願」ともいい、お約束のこと。
十方諸仏の師匠の仏である阿弥陀仏が、
苦悩から離れ切れない私たちを哀れに思われ、
必ず絶対の幸福に救い摂り、
来世は極楽に往生させ、仏にしてやりたい、
と誓われたのが「弥陀の本願」です。

この弥陀の強い強い願力によって、
六道出離の身になれるのは、
仏法が聞ける人間界でなければできないこと。

三悪道(地獄・餓鬼・畜生界)のように苦しみが激しくても、
天上界のように楽しみが多すぎても、
仏法は聞けないからです。

釈尊は仏教を聞けない八つの障り「八難」を挙げられ、
チャンスは人間に生まれた今しかないことを
教えられています。
ですから「人生の目的」といっても、
本当は「多生永劫の目的」のことなのです。

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過去無量劫から果てしない未来へと続く、
永遠の生命から見たら、50年、100年の人生など
あっという間。
その一瞬で、永の迷いの打ち止めをさせられる。

これをお釈迦さまは
「今生でこの身を度する」
(今救われる)
と言われています。

●本当の先生には会い難い

ところが、そんな大事を教えた仏教は、
誰もが聞きたいのにもかかわらず、
ほとんどの人が知りません。
なぜなら、「出離の強縁(弥陀の本願)」を説かれる先生は
雨夜(あまよ)の星で、めったに会うこ
とはできないのだと、
聖人はご自身の体験を通して仰せです。

真の知識にあうことは
難きが中にもなお難し
        (高僧和讃)

「真の知識」とは、阿弥陀仏の本願を
正しく伝える先生のこと。

9歳で出家なされた親鸞聖人は、
天台宗の僧侶として20年間、比叡山で学ばれました。
比叡山といえば、当時の仏教の中心地。
全国の俊秀(しゅんしゅう)が集まっていましたが、
弥陀の本願を教える知識には会えなかった
とお弟子たちの前で述懐されています。
アニメ『世界の光・親鸞聖人』(第6巻)
の場面で見てみましょう。

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親鸞聖人「親鸞、後生が苦になってのぉ、
     どこかにこの一大事、助かる道教える大徳はないか、
     導く高僧知識いまさぬかと、
     狂い回ったが、会えずに泣いた」
お弟子A「比叡山や奈良にもですか?お師匠さま」
お弟子B「あそこには、全国の高僧知識が集まっていなさると
     聞いていますが・・・」
     (聖人、静かに首を横に振られる)
親鸞聖人「その比叡や、奈良にも、教える知識はなかったのだ。
     今にして思えば、仏法に暗き者ばかりだったと知らされる。
     そんな親鸞が、よき人・法然上人に巡り会えた時の喜びは、
     そなた方にも思い知らされるであろう」

苦闘20年の末、なおも暗い心の解決ならず、
泣く泣く比叡の山を下りられた聖人が、
間もなく弥陀の本願を説かれる明師・法然上人との
邂逅(かいこう)をいかに喜ばれたか。
(※邂逅・・・巡り会うこと)

「本師源空いまさずは
このたび空しく過ぎなまし」
もし、法然(源空)上人にお会いすることができなかったら、
出離の強縁を知らず、二度とないチャンスを失い、
永遠に苦しんだに違いない。
危ないところを法然上人に救われた。

のお言葉からも分かるでしょう。
実際に助けてくださるのは阿弥陀さまですが、
その救いのあることを教えてくだされた
法然上人がおられなければ、
救われることもなかった
のですから、
「法然さまに、親鸞すくわれたのだ」
「会い難い善知識に、よくぞお会いできたものぞ」
との仰せも深くうなずけることです。

まさに、
「仏法聞き難し」
のお釈迦さまのお言葉を痛感せられたでしょう。

その聞き難さを釈尊は、
「ヒマラヤの山頂より糸を垂らして、
麓にある針の穴に通すことよりも難しい」
と説かれています。

ちょっとボタンを付け替えようと、
針と糸を取り出して、目をしばたたかせつつ、
目の前の針の穴に通すのさえ難儀するのに、
八千メートルの頂上からでは針の影さえ分からない。
その難しさたるや想像も及ばないでしょう。
考えてみますと、地球上に70億の人あれど、
仏縁あって無上仏(阿弥陀仏)の本願が聞ける人は、
どれだけあるか。

今こうして、聖人のみ教えに出遇えた皆さんは、
大変深い仏縁に恵まれているのです。

“軽い気持ちで読み始めただけ”
という人もあるかもしれませんが、
聞法を重ねていくと、
「本当に聞き難いことであった」
と知らされ、尊い仏縁を喜ばずにおれなくなってきます。

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●大目的を果たすのは「今」

「人身受け難し、仏法聞き難し」
この二大難関を突破して、今、
あなたは人間に生まれ、仏法を聞いている。
今、幾億兆年にもないチャンスが巡ってきたのです。

“今日は用事があるし、仕事や家事も忙しいし・・・
聞法はまたの日に”
などと言っている場合ではありませんね。

いつ仏法聞くのか?
いつ救われるのか?
今である。
とお釈迦さまは仰っています。

それが、
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん

のお言葉です。
この多生永劫の目的を知ったならば、
いかなる人生の荒波にもまれても
「大目的を果たすため、乗り越えなければ」
と力が湧いてくる。
あるかないか分からぬ幸福の足音を
胸つぶれる思いで待つ日々は、
今ハッキリする弥陀の救いに向かって
たくましく前進する人生に大転換いたします。
「何で俺を生んだのか」
の恨みが、
「生んでくれてありがとう」
の感謝に転回するのです。

その身に救われるのは、仏法は聴聞に極まる。
「人間に生まれたのはこのためであった」
と生命の歓喜を獲るところまで、
真剣に仏法(阿弥陀仏の本願)を聞き抜きましょう。

(聞き抜くは、弥陀に救われるの意味)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
体験手記
(25歳の時から、往生極楽の道を探し求めていた川田さん。
しかし、本当の親鸞聖人の教えに出遇うまで、
長い年月を費やさねばなりませんでした。
当時の心境を語ってもらいました)

60年訪ね歩いて
ようやく真実に遇えた
   岐阜県 川田 貞子さん(仮名)

ーー仏法を求めるようになったきっかけは?

3つの時に地獄・極楽の絵を見て、
「あんな怖い所は行きたくない、お浄土に往きたい」
と思いました。
若い頃から自分の心が汚く思え、
結婚して家族と暮らすようになると、
舅や姑を大事にしなければと分かっておりながらも、
「この人たちがいなければ楽になれる。早く・・・」
と邪魔にする心が出て、これでは絶対、
地獄にしか行けないから何とかしたいと。
これが出発点でした。
実家も嫁ぎ先も真宗の盛んな地ですが、
どの寺も葬式法事ばかり。
教えは聞けませんでした。

ーーそれで遠方にも聞きに出かけるようになったのですね。

善知識を求めて、広島、大阪、神戸と訪ね歩きました。
神戸では、真宗の学校の校長先生から学びました。
「『教行信証』は漢字で読まないとダメだ」と言われましたが、
漢文を習って読んでも難しくて・・・。
スラスラと読めず、中身も分からず、ますます苦しくなる。
善知識とはどんな方か。
それすら分からなくなりました。
 
ーーではどんなご縁で、正しいみ教えに出遇ったのですか?

3年前、新聞広告を見て『歎異抄』の解説本を買ったのです。
これまでの本と大違いで、ハッキリ分かり、
寝ずに読みました。
その感動を知人に電話で伝えたところ、
「聞法のつどい」に誘ってくれました。
素晴らしいお話にバンザイしました。
何にバンザイしたかというと、
本師本仏が阿弥陀仏と教えていただいたことです。
今までお釈迦さまに助けてもらうと思っていたのです。
お釈迦さまの先生が阿弥陀さまであった。
長い間聴聞したけれど誰もはっきり教えてくれなかった。
いちばん大切なことを教えていただき、
うれしかった。

阿弥陀仏以外にない。
大悲の願船に乗せていただく以外に絶対に助かる道はない。
この教えを聞けて本当にバンザイしました。

ーー60年かけてようやく巡り遇えたのですね。

そうです。聴聞は皆出席です。
一回休むと100万円を落としたように思います。
真の知識に会うのは、これほど大変なことであり、
幸せやなあと喜んでいます。


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