SSブログ

弥陀の本願一つ真実であることを知らせるためには! [龍樹菩薩]

 

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

仏法を正しく
  伝えられた龍樹菩薩

龍樹大士出於世(龍樹大士、世に出でて)
悉能摧破有無見(悉く能く有無の見を摧破し、)
宣説大乗無上法(大乗無上の法を宣説し、)
証歓喜地生安楽(歓喜地を証して安楽に生ぜん)

釈迦が亡くなって700年後(今から約1900年前)、
インドに現れられた龍樹菩薩は、
「有の見」と「無の見」をすべて打ち破られ、
真実の仏教(大乗無上の法)を明らかにされました。

無の見」とは「死後は何も無くなる
という考えで、「断見」ともいわれます。
唯物論などはこれに当たります。
有の見」は、「死後、肉体は滅びても、
固定不変の霊魂なるものが存続する

という思想で、「常見」ともいわれます。
キリスト教やイスラム教、日本神道などはこれです。

仏教を説かれたお釈迦さまは、
「有の見」「無の見」いずれも謬見(びゅうけん)であり
「外道」と断じられ、
「道理に外れた教えを信じていても、
幸福にはなれない」と、
徹底的に排斥されています。
(※謬見とは、誤った考えのこと)

その釈迦の教導どおり龍樹も、
迷える大衆に飛び込んで、
有無の二見を悉く打ち破り、
真実の仏教(大乗無上の法)を皆に伝えました。
その熱烈な布教は、外道の者たちの猛反感を買い、
遂には殺害されてしまったのです。

聖人は、殉教なされた龍樹菩薩を讃えられて、
“命懸けの布教のおかげで親鸞、
真実の仏教を知らされ、
この身に救われることができたのだ。
深いご恩に、とてもじっとしてはいられない。
龍樹菩薩のみ跡を慕い親鸞も、
身を粉に骨を砕きても、
真実の仏教を伝えずにおれないのだ”
と感泣なされているお言葉が、

龍樹大士出於世(龍樹大士、世に出でて)
悉能摧破有無見(悉く能く有無の見を摧破し、)
宣説大乗無上法(大乗無上の法を宣説し、)

EPSON054.jpg-1.jpg


●破邪顕正(はじゃけんしょう)とはどんなことか

今回はまず、仏教で「破邪顕正」といわれることについて、
お話しましょう。
「破邪顕正」とは「邪を破り、正を顕(あき)らかにする」
ことです。

「邪」とは、間違った考え方や思想・教えのことであり、
「正」とは真実の教えをいいます。
お釈迦さまは、ご遺言ともいわれる
『涅槃経』というお経に、
「破邪顕正せざる者は仏弟子に非ず、
仏法中の怨(あだ)なり」
“間違った思想や教えを信じている人を
見ながら黙視し、その誤りを破らず、
正しい教えを伝えない者は、仏法者ではない”
と厳しく教戒なされています。

世間では、「他人が何を信じていても、
本人が喜んでいるなら、それでいいじゃないか」
「思想信条や信仰のことは、他人がとやかく言う問題じゃない」
というのが常識でしょう。

特に寛容を美徳とする人は、
ほぼ100パーセントこれに賛同するに違いありません。
ところがお釈迦さまは、
そのようには教えられていない。
間違った教えを信じている人には、
「それは間違っていますよ」
と教えてやらねばならない、
と仰っているのです。

このように、相手の間違った考えを破ることを、
「破邪」といいます。

皆それぞれに、自分が信奉しているものは
「正しい」「間違いない」と思っているのですから、
それを「間違いだ」と指摘されれば、
当然、腹を立てるし人間関係もこじれて
面倒なことになる。
だが、それを恐れて破邪しない者は
この釈迦の弟子ではない、
「仏法中の怨なり」とまで言われているのです。

これは、お釈迦さまご自身が
徹底してなされたことであることは、
同じく『涅槃経』に、

世尊常に説きたまわく、
一切外学の九十五種(外道)は、皆悪道に趣く
釈迦は常にこう説かれていた。
仏教以外の教えは、人々を苦患へ沈ませるものである
と言われていることでも明らかでしょう。

では、なぜ釈迦は妥協なく外道を「破邪」され、
また私たちにも勧められているのでしょうか。

それは真実の仏教である「阿弥陀仏の本願」を
顕かにするためです。

大乗無上の法、弥陀の本願を、
一人でも多く伝えて、ともに無上の幸せに生きる。
その「顕正」のための、「破邪」なのです。

「破邪のための破邪」ではないし、
相手を論破して自己満足や
優越感に浸るためでもありません。

「阿弥陀仏の本願」を伝えるためにはどうしても、
「弥陀の本願」に反する教え(邪)を破らねばならない。
外道を信じていては、弥陀に救われることは
絶対にできないから、
「一切の外道を捨てて、弥陀の本願のみを信じよ」
と、お釈迦さまは80年の生涯をかけて徹底され、
私たちにも「破邪顕正」を勧めていかれたのです。

これでお分かりのように、
釈迦が「破りなさい」と言われる「邪」とは、
「弥陀の本願」を妨げる一切のことであって

決して、政治や経済、科学・医学・法律・倫理・道徳
の世界で「正しい」とか「間違っている」と
議論されている主義主張のことではありません。

つまり、どうすれば快適・安全に生活できるか、
という「生き方」についての「正邪」ではないことを、
確認しておかねばならないでしょう。
例えば「地球温暖化」や「デフレ」「円高」
などについて、
どんな見解を持つかなどは十人十色です。
「子供手当」や「消費税引き上げ」についての考え方は、
各人が受けた教育や性格、
生活環境などによって変わるでしょう。
「正義とは何か」も、国益を闘わせる外交の場では
まったく逆になることさえあります。
価値観は多様化しているから、
「みんなちがって、みんないい」
のフレーズが共感を呼ぶのでしょう。

EPSON055.jpg-1.jpg

 

お釈迦さまが「破邪顕正しなさい」
と勧めておられる「正」「邪」とは、
そんな次元の問題ではありません。

時代や国によって変わることのない唯一の真実、
「弥陀の本願」についてのことなのです。

「仏教は排他的で狭量な教えなのか」
という疑問も、ここが正しく理解されていないところに
起因するのでしょう。
誤解されやすいところですので、
念を押しておきたいと思います。

では「弥陀の本願」とは何か。
本師本仏の阿弥陀仏が、
「すべての人よ、後生の一大事を解決し、
必ず絶対の幸福に救う」
と誓われているお約束のことです。
「有の見」も「無の見」も、
この「後生の一大事」を否定する教えですから、
「有無の見」を破らなければ、
弥陀の救いを鮮明にすることは絶対にできない。

だからこそ龍樹菩薩は、
有無の見を徹底的に打ち破られた
のだと、
熱火の破邪顕正を親鸞聖人は、

悉能摧破有無見(悉く能く有無の見を摧破し、)
宣説大乗無上法(大乗無上の法を宣説し、)

と仰っているのです。
では、「後生の一大事」とはどんなことでしょうか。

後生という事は、
ながき世まで地獄におつることなれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、
他力の信心を決定すべし 

           (御文章)

後生の一大事とは、未来永く堕ちて苦しむことだから、
急いでこの一大事の解決を心にかけて、
阿弥陀仏の救いを求めねばならない

このように、すべての人に訪れる「後生の一大事」を、
「弥陀の本願」によって平生に解決して頂き、
“必ず浄土へ往ける大安心の身”
に救い摂られたことを、
「他力の信心を決定(けつじょう)」とも
「信心獲得」「信心決定」とも言われます。

この弥陀の救いを、次に、
「証歓喜地生安楽(歓喜地を証して、安楽に生ぜん)」
と明らかにしているのです。

EPSON056.jpg-0.jpg

●弥陀の救いは二回ある

「歓喜地」とは、さとりの位の一つです。
一口にさとりといっても、
低いさとりから高いさとりまで五十二の位があり、
これを「さとりの五十二位」といわれます。

あえて例えると、相撲取りにも下はフンドシ担ぎから
上は大関、横綱までいろいろあるようなもので、
さとりにもピンからキリまで全部で五十二の位があるのです。
その最高位を仏の覚りといい、
この仏覚を開かれた方のみを「仏」といわれます。

地球上ではお釈迦さまただお一人ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
とも言われます。
いかに仏覚を開くことが難しいか、知られましょう。
「歓喜地」とは、下から数えて五十一段目、
あと一段で仏覚という大変高いさとりのことで、
「正定聚」ともいわれます。
“間違いなく仏になれる身”のことですから、
現代の言葉では「絶対の幸福」といえるでしょう。
弥陀の誓い通り「後生の一大事」が解決された一念に、
五十一段高飛びさせられ、
絶対の幸福に救い摂られる
ことを親鸞聖人は、
「歓喜地を証する」
と言われ、
これを蓮如上人は有名な「聖人一流の章」には、
「その位を一念発起・入正定之聚(にゅうしょうじょうしじゅ)とも釈し」
と明示されているのです。
次に「安楽」とは、弥陀の浄土のことですから、
「歓喜地を証して、安楽に生まれる」
とは、
弥陀の救いに値えば、この世は絶対の幸福、
死ねば弥陀の浄土へ往って、
仏に生まれることができるのだ

と言われているお言葉です。
このように弥陀の救いは、
この世と未来の二度あることを
「現当二益(げんとうにやく)」といわれます。

「現益」と「当益」の二つです。
「現益」とは現在(この世)の救い、
「当益」とは死後(当来)の救い、ということです。
「歓喜地を証する」はこの世の救い(現益)、
「安楽に生ずる」は死後の救い(当益)。
弥陀の救いは「現当二益」あることを、
龍樹菩薩は明らかにされているのだよ

と、親鸞聖人は、
「証歓喜地生安楽」の一行で教えられ、続いて、
弥陀の本願によらねば誰も助からないのだから、
皆さん早く弥陀の救いに値(あ)ってもらいたい

と、真剣な聞法を勧めておられるお言葉が、
「顕示難行陸路苦
信楽易行水道楽」
の二行なのです。
(※値<あ>うは、一度きりのものに使われる)

EPSON056.jpg-1.jpg


 


タグ:龍樹菩薩
nice!(27)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

nice! 27

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。