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真実の経は、大無量寿経なり [経典]

お釈迦さまが、弥陀の浄土から地球にお出ましになられたのは、
我々人間はどう生きれば幸せになれるのか、
そんなことを教えるために現れたのでは
ありません。
この世のものは無常ですから、
どれだけ手に入れても、何にすがってみても、
やがて手放さなければならず、苦しむばかりです。
例えば、ペットに猫や犬を飼っていたとします。
可愛がれば可愛がるほど、
死んだときには、苦しみます。
それが子供であれば、なおさらでしょう。
同じようにお金や、財や、名誉や、地位もみな、
執着すればするほど、
手放さなければならないときには、
より苦しみます。
臨終にはすべて一切のものを
失わなければならないから、
生木を引き裂かれる苦しみになるのは当然です。
我々の知っているこの世の幸せなど、
どれも我々を裏切るものであり、
本当に幸福にするものは何もないのです。
我々を本当に幸福できるものは、
死に際しても崩れるものであってはならないし、
我々の元から離れてしまうものであってはならないのです。
「そんなものあるの!?」
と無常の世界で生きている我々は思うのですが、
それがあるから、それ一つを教えに来られたのが、
お釈迦さまなのです。
それは、阿弥陀仏が創られた「南無阿弥陀仏」です。
それを流転輪廻している我々の本当の心である阿頼耶識が受け取り、
一体化(仏凡一体)すれば、この世は絶対の幸福に、
死ねば極楽に往生し仏となることができ

1000年後も一万年後も、
いやそれどころではなく、未来永遠に幸福に生きることができるのです。
夢物語をお釈迦さまは教えられたのではありません。
(地上に出て1週間しか生きないセミが春や秋を
理解できないのと同じことなのです。
無量寿の仏さまからすれば我々はセミのようなもの。)
阿弥陀仏に救われ、迷いから目を覚まさないと
「後生の一大事」が引き起ります。
(後生の一大事とは、お釈迦さまは「必堕無間」と言われ、
死ねば気の遠くなるような長年月、苦しみのたうち回らなければならない苦界に堕ちること)
人間界に生まれた時にできた頭でいくら考えても、
六道輪廻して、迷いの世界を、
生まれ変わり、死に変わりして、
今まで延々と苦しみ続けたことは分かりませんが、
生命は始まりがなく、終わりがないのです。
三度の飯が美味しくいただける生きているうちに、
阿弥陀仏に救われれば、
迷い(夢)の世界である六道から出離することができ、
生死生死を繰り返すことのない未来永遠の大生命を得ることができるのです。
「南無阿弥陀仏」をどうしたら受け取れるのか、
それを教えることが、お釈迦さまの仕事だったのです。

(ガンジス河の砂の数ほどおられる諸仏方は、阿弥陀仏の救いがあることを知らせるために、
大宇宙にある人間の存在している無数の惑星と弥陀の浄土を往復され、
説法されている。
お釈迦さまは8000回往復されたと経典にある。
全ての仏さまが総出で、我々の後生の一大事の解決のために力を尽くしてくだされている。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ここからは真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

天親菩薩造論説(天親菩薩は論を造りて説かく、)
帰命無碍光如来(「無碍光如来に帰命したてまつる」と)
依修多羅顕真実(修多羅に依りて真実を顕わし)
光闡横超大誓願(横超の大誓願を光闡する)
                    (親鸞聖人・正信偈)

七高僧のお一人、天親菩薩の偉大な功績を
讃えておられる親鸞聖人のお言葉です。
大意はこうです。
「釈迦の滅後、九百年後にインドに現れられた
天親菩薩は、『浄土論』を著された。
冒頭に、
『天親は、ひとえに阿弥陀如来のお力によって、
絶対の幸福に救われました』
と告白され、
その弥陀の真実の救いを一切経によって
明らかにされているのである」
天親菩薩は、生涯に多くの書を著され
「千部の論主」といわれていますが、
中でも有名な主著が『浄土論』。
仏教で「論」といえば、
天親菩薩の『浄土論』のことを指すほど有名です。
これは、お釈迦さまの説かれた
『大無量寿経』の注釈書であります。

では、『大無量寿経』とはどんなお経なのでしょうか。
お釈迦さまの教導を頂きましょう。

釈迦が仏教を説かれた目的は、何か

世界文化史の大家、H・G・ウェルズは、
世界の偉人のトップに釈尊(お釈迦さまのこと)を挙げ、
「私は公平にどの点からみても、
世界で最大の偉人は仏陀釈迦牟尼仏である」
と言っています。

ドイツのハイラー教授も、
「仏陀釈迦は世界の最も偉大な宗教家であり、
世界の光である」
と絶賛しています。

このように世界の三大聖人、二大聖人といわれても
トップに挙げられるお釈迦さまは、
インドのカピラ城主、浄飯王(じょうぼんのう)の長男として
生まれ、仏のさとりを開かれるまでは、
シッタルタ太子と呼ばれていました。
生まれながらにして社会的に最高の地位、名誉、
財産を持ち、親の溺愛を受けて
思うままの生活が約束された人でした。
19歳の時には国内一の麗人といわれた
ヤショダラ姫と結婚し、
翌年、男子ラーゴーラをもうけています。

さらに春夏秋冬の四季の御殿に住まわされ、
500人の美女と戯れ栄耀栄華を尽くした方です。
私たちが日々、その中の一つでも得ることができればと、
必死に求めているものすべてを、
シッタルタ太子はすでに持っておられました。
ところがその太子が、
なお満足できない魂の叫びに驚き
29歳の2月8日、突如、
城を出て一切の名誉、地位、財産も
妻子も捨てて入山学道の人になられたのです。

「すべてのものは常住しないのだ。
いずれの日にか衰え、滅ぶのだ。
歓楽尽きて哀情多し。
快楽のカゲには無常の響きが聞こえる。
美女の奏でる弦歌(げんか)は、
欲をもって私を惑わす。
ああ、人生は苦悩に満ちている。
猛き(たけき)火、浮かべる雲のごとく、
幻や水泡のごときもの。
若きを愛すれど、
やがて老と病と死のために壊れるのだ」

人生の実相を洞察なされた太子は、
常住不変の絶対の幸福とは何か。
いずこにあるのか。

それこそ万人の求める究極のものではないか
勤苦(ごんく)6年、
35歳の12月8日、ついに大悟徹底、
仏陀となられたのです。

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かくて80歳2月15日、
ご入滅になるまでの45年間の
布教活動が開始されました。
この45年間の釈尊の説法のすべての記録が、
一切経といわれるものです。
ゆえに一切経は7000余巻という膨大な数に上り、
数の多いことから「八万四千の法門」ともいわれます。

その多くの経典を、「このお経が釈迦の真意だろう」
「この経文の意味はこうだ」と、
各々の理解や信仰で解釈するものですから、
諸宗派に分かれているのです。

色々なことを説かれたのが仏教だ、
と思う人があるのもうなずけます。
しかし、釈迦が仏教を説かれた目的(釈迦出世の本懐)は
ただ一つ、
「阿弥陀如来の本願」であったのだと、
釈迦ご自身が明示されています。

その明証は幾つもありますが、
いよいよ阿弥陀如来の本願を説かんとされた時、
釈尊は五徳現瑞(ごとくげんずい)されて、
弟子たちを驚嘆させられています。

「五徳現瑞」とは、
釈尊が『大無量寿経』を説かれる直前に、
今までにないお姿を種々に現されて、
「阿弥陀如来の本願」こそ出世の本懐であることを
身をもって示されたことです。

あまりの尊い変わられように、
最も長くお使えした弟子の阿難も驚いて、
「世尊、一体どうなされたのですか」
とお尋ねせずにおれなかったほどでした。

その問いに釈尊は大変喜ばれ、
『大無量寿経』の巻頭にこう明言されています。

如来、世に出興する所以は道教を光闡し、
群萌を拯い(すくい)恵むに
真実の利を以ってせんと欲してなり

                (大無量寿経)

私がこの世に現れた目的は、
一切の人々を阿弥陀如来の真実の救いに
値(あ)わせるためである
」 


これは、釈尊がこの世に生まれた目的を、
「全ての人に弥陀の本願を説き聞かせ、
絶対の幸福に導くためであった」
と自ら宣言されたお言葉です。

巻頭のこの経文だけでも『大無量寿経』が
真実の経であることは明らかですが、
さらに巻末にも釈尊は、次のように仰っています。

当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲を以て哀愍し、
特に此の経を留めて止住すること百歳せん。

               (大無量寿経)

やがて『法華経』など一切の経典がなくなる時が来ても、
この『大無量寿経』だけは永遠に残り、
すべての人を絶対の幸福に導くであろう

特に此の経を留める(特留此経・とくるしきょう)とは、
「特に『大無量寿経』だけは残る」ということで、
ここから『大無量寿経』を「特留此経」ともいわれて、
真実の経である根拠とされています。

「百歳せん」とは「永遠に」の意。
「百」は無限を表す満数(まんすう)で、
文字通りの「百年」でないのは仏教の常識となっています。
(「百年」ならば「一百歳」といわれます)

「他の一切のお経が滅んでも、
このお経だけは永遠に残る」
と説かれているのは、一切経多しといえども
『大無量寿経』だけです。

ですから、この巻末のご文も、
永遠不滅の真実経は『大無量寿経』のみだと
釈尊自ら告白なされているお言葉であり、

だからこそ、この経を説き終わられた時、
釈尊は、
「如来所応作者(にょらいしょおうさくしゃ)
皆已作之(かいいさくし)」
“これで如来としてなすべきことは、
みなこれをなせり”
と慶喜なされた、といわれるのも当然でありましょう。

真実の経は『大無量寿経』なり
        親鸞聖人の断言

天親菩薩は、これらの仏意を受けられて、
釈迦出世の本懐経である『大無量寿経』を解釈して
浄土論』を著され、弥陀の救いを弘宣されました。

そのご苦労を、親鸞聖人は朝晩の『正信偈』に讃えられ、

天親菩薩造論説(天親菩薩は論を造りて説かく、)
帰命無碍光如来(「無碍光如来に帰命したてまつる」と)
依修多羅顕真実(修多羅に依りて真実を顕わし)
光闡横超大誓願(横超の大誓願を光闡する)

「天親菩薩が『浄土論』に『大無量寿経』を解釈され、
弥陀の本願を明らかにして下されたのである。
そのおかげで親鸞、弥陀の救いに値うことができたのだ。
天親菩薩の深きご恩を忘れることはできない、
なんとしてもお返しせずにおれない」
と、合掌感泣されています。
そして、聖人ご自身も主著『教行信証』の初めに、

それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり
             (教行信証教巻)

「真実の教は、『大無量寿経』である」
と仰り、『正信偈』には、

如来所以興出世
唯説弥陀本願海

“釈迦如来が、この世に現れて仏教を
説かれた目的は、
ただ阿弥陀如来の本願ひとつを説かれるためであったのだ”
と断言され、弥陀の真実の救いを明らかにされているのです。

一切の滅びる中に、不滅の光とは

地震、台風、落雷、火災、殺人、
傷害、窃盗、病気や事故、
肉親との死別、事業の失敗、リストラなど・・・。
いつ何が起きるか分からない泡沫(うたかた)の世に、
私たちは生きています。
盛者必衰、会者定離、
物盛んなれば則ち(すなわち)衰う、
今は得意の絶頂でも、必ず崩落がやって来ます。
出会いの喜びがあれば、
さよならの悲しみが待っています。
ひとつの悩みを乗り越えても、
裏切りの尽きない不安な世界ですから、
火のついた家に喩えて聖人は、
「火宅無常の世界」と言われています。

たとえ災害にも遭わず病にかからずとも、
いざ死の巌頭に立てば、どうでしょう。
財も名誉も一時の閃光、
かの太閤の栄華でさえもユメのまたユメ、
天下人の威光は微塵もありません。
不滅の光はどこに見られましょう。

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煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
万のこと皆もってそらごと・たわごと
・真実(まこと)あることなきに、
ただ念仏のみぞまことにておわします 
                (歎異抄)

火宅のような不安な世界に住む、
煩悩にまみれた人間の総ては、
そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。
ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。
みな人よ、限りなき生命の歓喜(絶対の幸福)を獲て、
ただ念仏するほか、人と生まれし本懐はないのだよ」

(念仏とは、阿弥陀仏に救っていただいたことへのお礼の言葉。
「ありがとうございました」に当たる言葉。)

この世の一切は滅びゆく。
不滅の光は「阿弥陀如来の本願」のみですから、
親鸞聖人は「弥陀の本願まこと」を
一人でも多く伝えることに、
90年の生涯を捧げられたのです。

それは釈迦・七高僧方のご恩徳を深く感じられ、
そのご教導に順われて(したがわれて)の
ご布教であったのです。                


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