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我々の苦しみは、未来が暗いからである! [苦しみの根源]

アニメ『世界の光 親鸞聖人』

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています。 )  

難思の弘誓は
  難度の海を度する大船、
無碍の光明は
  無明の闇を破する慧日なり

          (教行信証)


阿弥陀さまは苦しみ多い世間の海を、
明るく楽しく渡す大きな船を造られています。
阿弥陀さまにはその大船に、私たちを必ず乗せて
極楽浄土まで届けて下さるお力があります

親鸞聖人の主著『教行信証』の
冒頭のお言葉について学びましょう。

親鸞聖人が、生涯かけてお書きくだされた
『教行信証』のいちばん最初には、
どんなことが教えられているのでしょうか。
今回は、
「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」
についてお話したいと思います。

●「無明の闇」とは?

ここに「無明の闇」というお言葉が出てきます。
「無明」とは「明かりが無い」と書くように、
「暗い」ことです。
暗いことを「闇」ともいわれますから、
意味を重ねて「無明の闇」といわれています。
ここで言われる「暗い」とは、
「分からない、ハッキリしない」ことです。

例えば、経済がよく分からなければ
「私は経済には暗くって」と言いますし、
女性の気持ちに鈍感な人は、
「あなたって、女心に暗い人ね」と言われます。
では、「無明の闇」は何が分からず、
ハッキリしないのでしょう。
それは、「死ねばどうなるか」が
ハッキリしないのです。
つまり、「無明の闇」とは
「死後(来世)に暗い心」
をいうのです。

●「現在」と「未来」の関係

親鸞聖人が『教行信証』の最初に「無明の闇」について
書いておられるのは、
私たちにとってとても大切なことだからです。
ですが、「死後に暗い心」と聞いても、
「あまりピンとこない」という方もあるかもしれません。
「そんなことより今が大事では」
と感じられる方もあるでしょう。
そこで、「生と死」という大きなテーマを、
ひとまず「現在と未来」に置き換えて考えてみましょう。
現在と未来は、密接不離な関係にあります。
未来が明るければ現在も明るくなりますし、
未来が暗ければ現在も暗くなります。
例えば、大好きな人とのデートを
明日に控えた恋人の心境は
言うまでもないでしょう。
まだ恋人が隣にいなくても、
明るい未来に今からときめき、
気がつくと一人で笑顔になっています。

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逆に、一週間後に内蔵を取り出す大手術を
控えていたらどうでしょう。
「まだ一週間あるから今を楽しもう!」
と思えるはずがありません。
また、トイレが故障して使用不能なのに、
「今さえよければいい!」
と、思いっきり食べたり飲んだりも
できないでしょう。

安心して思いっきり出せるところが
確保されていなければ、
今、安心して思う存分、飲食もできないのです。
このように、現在と未来は切り離せない
関係にあります。
未来を無視して、明るく楽しい現在は
築けないのです。

では、人生の未来はどうなっているのでしょう?

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●人生を船に例えると

ここで、人生を船旅に例えてみましょう。
“今、川を下る船に乗っている”
と想像してみてください。

あなたは、船の中で人生を送っています。
船の中で、好きな人ができたり、嫌いな人とケンカしたり、
損した得をした、勝った負けたと、
泣き笑いしつつ、あくせく日々を過ごしています。

時折、こんな思いが、ふと頭をよぎるでしょう。
「特に何というわけでもないけど、何だかむなしい」
「家庭や友人に恵まれているはずなのに、
私は独りぼっちと感じることがある。
この孤独感はどこからくるのかしら」
「成功したはずなのに達成感がない。なぜだろう?」
「肩書きをなくしたら、自分には何もないなあ」
「毎日、同じことの繰り返し。
こんな人生に一体どんな意味があるのだろう」

この心はどこからくるのかな?と、
しばし悩みますが、答えは見つからず、
結局は目の前のことを何とかせねばと、
その日その日を精一杯生きています。

しかし、そうこうしている間にも、
船はどんどん進んでいくのです。

では、自分の乗っている船の行き先(確実な未来)は
どうなっているのでしょうか。

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誰もよく考えていないようですが、滝壺です。
船の中でどれだけ稼いでも、
趣味にいそしんでも、
最後、船もろとも落ちていかねばなりません。
人生は、「死」という「滝壺」への
旅路にほかならないのです。

その間、何しにこの世へ生まれてきたのか。
何を求めて、あくせく働いてのでしょう。
この家を建てにに来たのだと胸を張る人。
子供を生みに来たのだと苦笑いする人。
金や財産をためるために来たのだとうそぶく人。
名誉や地位を誇る人。
中には酒飲みに来たのだとわめく人もいます。

果たして誰か、これ一つに誕生したと
いえるものがあるでしょうか。
これでは一生空奉公(からぼうこう)ではないのか。
命を懸けてわがものと思っていますが、
この世のものは皆離散する。
あるというのは今しばらくそばにある
ということなのです。

天下を取った太閤秀吉も
「難波のことは、夢のまた夢」
と言い遺してこの世を去りました。

その400年前に、日本の権力を掌中にした平清盛も、
一昨年の大河ドラマで、
こんなセリフを吐露しています。
「誰か、助けてくれ。
暗闇ばかりじゃ」
「手に入れても、手に入れても、
光は・・・光には届かぬ・・・」
未来が暗ければ、現在も暗い。
100パーセント確実な未来に
一大事を抱えていては、
何を、どんなに手に入れても、
心に明かりが灯らないのです。

ならば、船の中の栄華より、
船ごと落ちていく滝壺の一大事こそ、
急ぐべきではないでしょうか。

                                                                                  
●蓮如上人は仰せです。
まことに死せんときは、予て、
たのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず
」 
                (御文章)
いよいよ死んでいかねばならないとなった時、
今まで頼りにしてきた妻も子供も財産も、
皆、わが身から離れていきます。
人間は最後、丸裸になって、
たった一人で暗黒の滝壺へと
落ちていくのです。
咲き誇った花も散る時が来るように、
死ぬ時には、必死にかき集めた財産も、
名誉も地位も、すべて私から離れて、
一人で地上を去らなければなりません。
これほどの大事があるでしょうか。

これを「後生の一大事」といいます。
この悲劇の滝壺を、
魂はウスウス予感しているので、
何をしても、何を手に入れても、
現在の心が晴れないのです。

人は皆、笑顔の裏に、悲しみを抱えています。
たとえ一時は楽しめても、スグに言いようのない
むなしさや寂しさに襲われるのは、
生きている根底が暗いからなのです。

滝壺に落ちたあとは、どうなるのか?
誰もハッキリしません。
このような「後生(来世)に暗い心」を
「無明の闇」といいます。

●無明の闇を破ってくださる仏さま

滝壺行きの船から、
極楽行きの船へと乗り換えねば、
私たちは本当の幸福になれません。

ですが、無明の闇を抱えたままでは、
極楽往きの船には乗れないのです。

では、どうすれば無明の闇を
晴らすことができるのでしょう?
大宇宙に多くの仏さまがおられても、
無明の闇を破る力を持っておられるお方は、
阿弥陀仏以外にましまさぬと、
お釈迦さまも親鸞聖人も教えられています。

親鸞聖人は阿弥陀仏に無明の闇を晴らしていただき、
『教行信証』の冒頭に、
無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり
“阿弥陀仏には、無明の闇を晴らし、
私たちを絶対の幸福に救うお力がある”
と明言なされ、
『正信偈』には、
「已能雖破無明闇」(すでによく無明の闇が破れた)
と書いておられます。
生きている現在ただ今、
阿弥陀仏のお力によって
無明の闇(後生暗い心)を
破っていただけば、
いつ死んでも極楽往生間違いなしの
後生明るい心に
生まれ変わります。
阿弥陀さまが、極楽浄土に向かう
大きな船に乗せて
必ず渡してくださるからです。

極楽のことを、無量光明土(無限に明るい世界)ともいい、
親鸞聖人は『正信偈』に、
「必至無量光明土(必ず無量光明土に至る)」
と教えられています。
未来、明るければ、今も明るい。
弥陀に救われれば、
最高に明るい未来となりますから、
輝く未来に向かって生きる現在の
一息一息が、光明輝く、
絶対の幸福になるのです。

阿弥陀仏は「聞く一つ」で助けると
誓っておられます。
無明の闇が晴れるところまで、
阿弥陀仏の御心を真剣に
聞かせていただきましょう。


タグ:弥陀の大船
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