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弥陀に救われるのは現在ただ今、急がねばならない! [信心決定]

成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証することは、)
必至滅度願成就(必至滅度の願、成就すればなり)
            (親鸞聖人・正信偈)

今回はこの2行について学びましょう。
初めに、
「成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証する)」
と言われているのは、
「まず『等覚』に成り、『大涅槃』を証しなさい」
ということです。
親鸞聖人は私たちに、
「『等覚』に成らねば、『大涅槃』を証することは
絶対にできないのだから、早く『等覚』に成りなさい」
と勧めておられるのです。

そこで「等覚に成る」とはどんなことか、
お話しいたしましょう。

等覚に成る

「等覚」とは、さとりの位の一つです。
一口に「さとり」と言っても、
低いさとりから高いさとりまで、
全部で五十二の段階があり、
これを仏教で「さとりの五十二位」といわれます。
その最高位を「仏覚(仏のさとり)」とも
「無上覚」ともいわれ、
「等覚」とは、その「仏覚」まであと一段の、
五十一段の位をいうのです。

「等覚」はまた「正定聚」とも「信心決定」ともいわれ、
今日の言葉で「絶対の幸福」といえます。

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親鸞聖人が『正信偈』に朝晩、「早く等覚に成りなさい」
と教えられていることを、
蓮如上人はご遺言に、

あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、
朝夕思いはんべり

              (御文章)

と仰っています。
初めに、
「あわれあわれ(あわれだなあ、不憫だなあ)」
と嘆かれているのは、どういうことでしょうか。

私たちが「かわいそう」と思う相手は、不幸な人です。
幸せの絶頂にいる新郎新婦に向かって、
「あわれあわれ」とは誰も言わないでしょう。

地震の被災者や、飢餓で苦しむ子供たちなどを見て、
「気の毒だなあ」と思うのです。
ところが蓮如上人が哀れんでおられるのは、
一部の人だけのことではありません。
「皆々」とあるように、
「すべての人」に「不憫だなあ」と言われているのです。

「ん?なんでだろう。別に私はそれほど不幸ではないが」
と思われる人も多いでしょう。

なぜ蓮如上人は、私たちすべてを「あわれ」と
悲嘆されているのでしょうか。

今日でも、仏教といえば「死んだら極楽」「死んだら仏」
と思っている人がほとんど。
「この世はどうにもなれない、助かるのは死んでから」
が常識になっています。

せっかく生まれ難い人間に生まれながら、
本当の仏教も知らず、
何のために生まれてきたのか、生きているのか、
真の人生の目的も分からぬまま、
金だ財産だ、地位だ名誉だ、酒だ女だと、
浮かれ騒いで酔生夢死(すいせいむし)していく。
“人間に生まれてよかった”という命の輝きはなく、
人生こんなもんさとアキラメてはいないでしょうか。

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そんな私たちを蓮如上人は、
「かわいそうに。情けないことだ」
と悲しんでおられるのです。

そして、仏法は、
「存命の中に」
“生きているときが勝負なのだ。
死んでからでは手遅れですよ”
と道破され、
「皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり」
“すべての人に「信心決定」してもらいたい。
そのこと一つをこの蓮如は、
朝から晩まで、思い続けているのだよ”
と、述懐されているお言葉です。

私たちが朝夕考えていることは、
「どうしたらお金が儲かるか」
「人から褒めてもらえるか」ということばかりですが、
親鸞聖人や蓮如上人が念じ続けられているには、
私たちの「信心決定」一つであることがお分かりでしょう。

人間は、ただ生きるために生きるのではない。
崇高な目的があって、生まれてきたのであり、
生きているのです。

どんなに苦しくても生きねばならないのは、
「信心決定」するためであることを、
親鸞聖人も蓮如上人も、
「早く等覚に成れ」
「命のあるうちに、片時も急いで信心決定せよ」
と教示されているのです。

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ところがそう聞いても、なにしろ「等覚」とは、
最高位の「仏覚」に次ぐさとりの位ですから、
「そんな等覚に、私なんかがホントになれるのかな」
と、途方に暮れる人もあるかもしれません。
しかし、「成れない」ことを
「成れ」とおっしゃる聖人ではありません。
「等覚に成れ」と言われているのは、必ず成れるからです。
「信心決定せよ」と言われているのは、できるからです。

それでもなお、「どうしても、等覚にならねばならないんですか」
「信心決定なんて、できっこない」と、
尻込みする人もあるでしょう。
しかし、現在「等覚」にならねば、
死後「大涅槃を証する」ことは絶対にできないのです。
「大涅槃を証する」とは、
「阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、
弥陀と同じ仏のさとりを開く」こと。
先述のように、みんな「死んだら極楽」「死んだら仏」
と思っているのは大間違いで、
誰でも仏になれるのではない。

この世で等覚になった人だけが、
死ぬと同時に極楽へ往って仏に成れる
」のだから、
「成等覚証大涅槃」
“まず「等覚」に成り、「大涅槃」を証しなさいよ”
と聖人は朝晩、『正信偈』に仰せなのです。

後生の一大事

浄土真宗には、
「この世はどうにもなれない、死んだら極楽、死んだら仏」
と言う人が多いのですが、
この世と死後の関係を知れば、それはおかしいと分かります。
お釈迦さまは、
唯一の真実の経である『大無量寿経』に、

従苦入苦 従冥入冥

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と説かれています。これは、
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」
と読みます。

今苦しんでいる人は、死んだ後もジゴクの苦を受ける。
「この世のジゴクから、死後のジゴクへと堕ちていく」
と仰ったお言葉です。


「ジゴク」というのは中国の昔の言葉ですが、
日本の言葉では「苦しみの世界」ということです。
この世のジゴクというのは、
何のために生きているのか分からず、
毎日が不安で暗いことをいいます。
「私ほど業なものはない」
と他人を恨み世間をのろい、
「こんな辛いのなら死んだほうがましだ」
と苦しむ暗い生活が、この世のジゴクです。
このような、現在が真っ暗闇の生活を送っている人は、
死後も必ず真っ暗闇のジゴクへ堕ちて
苦しまなければならないことを、
お釈迦さまは、
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」
と教えられているのです。

続けて、
「教語開示すれども信用する者は少し(すくなし)。
生死休まず(やまず)、悪道絶えず」
と、現在の苦が救われなければ、
永遠に苦しみ続けなければならぬ一大事を説示され、
その「本当の地獄の苦しみは、
どんな喩えでも説けない」ことを、『賢愚経』には、
「諸々の比丘よ、如何なる喩と雖も、
如何に地獄の苦なりやを説くこと能わず」
と警鐘乱打されています。
かかる死後の大きな苦しみを助け、
極楽へ生まれさせる力が阿弥陀仏にあると、
本当に思っている人なら、
この世の苦しみを助けられることも分かるはずです。
「この世はどうにもなられません、死んだら極楽」
と言うのは、理屈に合いません。

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それはちょうど、
「目の前にある小さな川は渡れないが、
向こうの大きな河なら渡れる」
と言っているようなもの。

眼前の小川さえ渡れない人に、
どうして後方の大河が渡れましょう。

同様、この世の苦さえどうにもならなければ、
死後の大変な一大事を助かるはずがないのです。


別な例えで言うと、
「1万円の買い物するお金はないけど、
100万円の物なら買える」
と言っているのと同じです。

100万円の物を買える人なら、
1万円の買い物は楽にできるに決まっています。

後生の一大事の大苦悩を救う力のある阿弥陀仏なら、
わずか100年の人生の苦しみを助けてくださるのは
当然ではありませんか。

それを「この世はどうにもなれない、死んだ後だけ助かる」
ように思っている人はこの世も死後も助からないことを、
蓮如上人は、

この信心を獲得せずば、極楽に往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり

            (御文章)

と教誡されています。

ただ今「信心獲得(信心決定)」しなければ、
死んで極楽どころか、一大事が起きますから、
親鸞聖人も、蓮如上人も、
「早く等覚に成れ」
「存命の中(うち)に皆々信心決定あれかし」
と、手に汗握って勧化なされているのです。

弥陀の救いは二度ある・・・二益法門

「成等覚証大涅槃」とは、
“現在、等覚になった人は、死ねば極楽浄土へ往って
弥陀同体の仏のさとりを開くことができるのだ”
と、「弥陀の救い」は現在と死後の二度あることを
言われています。

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このように、二度の弥陀の救いを
明らかにされた方が親鸞聖人ですから、
親鸞聖人の教えを「現当二益」の法門(教え)といわれます。
「現当二益」とは、「現世(この世)の利益」と
「当来(死後)の利益」の2つの利益(救い)のこと。
「等覚に成る」現在の救いを
「現世の利益(現益)」と言われ、
「大涅槃を証する」死後の救いは
「当来の利益(当益)」と言われます。

この現当二益の親鸞聖人の教えを、
少しでも分かってもらいたいと、
蓮如上人は問答形式で次のように教えておられます。

問うていわく、
「正定と滅度とは、一益と心得べきか、
また二益と心得べきや」。
答えていわく、「一念発起のかたは正定聚なり、
これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。
されば二益なりと思うべきものなり」
           (御文章)

弥陀の救いは一度でしょうか、二度あるのでしょうか」
と問いを出され、
この世は、弥勒菩薩と同格(正定聚・等覚)に救い摂られ、
死ぬと同時に弥陀の浄土で、
無上のさとり(滅度・大涅槃)が得られる。

弥陀の救いは二度(二益)ある

と明快に答えておられます。
この二度の「弥陀の救い」を親鸞聖人は『正信偈』に、
「成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証する)」
と、一行で言われているのです。

必至滅度の願、成就

ではどうして、この世で「等覚」に成った人が、
死後「大涅槃」を証することができるのか。

それは、
必至滅度願成就(必至滅土の願、成就すればなり)」
と言われています。

「必至滅土の願」とは、阿弥陀仏の「十一願」のこと。
十一願とは、弥陀が四十八の約束をされている中の、
十一番目のお約束をいいます。

弥陀は十一願に、
“この世で正定聚(等覚)に成った人を、
死後、滅度(大涅槃)に至らせてみせる。
もしできなければ命を捨てる”
と誓われている
ので、
十一願を「必至滅度の願」といわれているのです。
“現在「正定聚」に成った人が、
必ず死後「仏覚」を開くことができるのは、
この弥陀の十一願が完成されているからなのだ”

と言われている『正信偈』のお言葉が、

成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証することは、)
必至滅度願成就(必至滅度の願、成就すればなり)
に二行です。


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