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亡き父母の恩に報いたい [葬儀・法事とは]

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(真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています。 )  

「孝行のしたい時分に親はなし」

亡き父や母をしのぶほど、
“ああすればよかった・・・”
“こうもしておけば・・・”
と後悔したり、自分を責めたり。

いつまでも尽きぬ、そんな思いは、
仏法によって、計り知れない親の恩を知らされた
私たちにとっては、特に強いものです。

受けし両親の恩に報いるには、
どうすればよいのか。
亡き父母の最も喜ぶことは何なのでしょう。

アニメーション
『世界の光・親鸞聖人』を通して、
親鸞さまからお聞きしましょう。

●盛大な葬儀が死んだ人の
    ためになるって本当ですか?

「大切な人が亡くなるたび、亡くなった人々に
何をすればよいのか分からず困っていました。
寺の住職が、お通夜や初七日法事で説法しましたが、
内容が全く理解できず、
仏法を知りたいと思うようになりました。」

富山県のとどろき読者(60代男性)から、
先日、このような感想が届きました。
肉親や家族を失って初めて、
当たり前のように受けてきた
ご恩の大きさが知らされ、
悔やむ人は少なくないようです。

墓に布団もかけられず、
遺骨にご馳走を食べさせられもせず、
どうすればこの心が落ち着くか、
ご恩に報いるにはどうすれば・・・、
今からでもできることはないものか、

と思い悩まれる心情は、よく分かります。
では、亡くなった方の最も喜ぶことは何でしょう。
一般に、盛大な葬式や法事を勤め、
お経を読んでもらい、墓も立派にすることと言われ、
これが常識のようになっていますが、
本当なのでしょうか。

アニメーション『世界の光・親鸞聖人』
の第6巻に、亡き父の葬儀を
どのように執り行うか悩んだ同行(良作とハル)が、
親鸞聖人に教えを求めている様子が描かれています。

(アニメ『世界の光・親鸞聖人』 今回の記事そのままの場面は、12:30ぐらいからです。)

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追善供養とは、死んだ人を幸福にすると
信じられている行為。
葬儀も法事もそのためだと思っている人に、
親鸞聖人は『歎異抄』にこう仰っています。

「親鸞は、父母の孝養のためとて念仏、
一返にても申したること未だ候わず」
“亡き父母の追善供養に、一回の念仏も、
一巻のお経も読んだことがない”

と告白されています。
4歳でお父さまを、8歳でお母さまを亡くされ、
聖人はどんなにご両親を恋しく思われたかしれません。
「孝心厚い聖人さまが、どうして?」と、
聖人のこの告白に驚く人は少なくないでしょう。
しかし、これは決して、親の孝行を軽視したり、
否定されているのでは、もちろんありません。
29歳にして法然上人に巡り会われ、
弥陀に救い摂られた聖人は、
盛大な葬式や立派な墓と、
死んだ人が極楽往生できるかどうかは
全く関係ないことを知らされて、
仰ったお言葉なのです。

●お釈迦さまのご教導

仏教を説かれたお釈迦さまご在世中の、
こんな話が伝えられています。

ある日、一人のお弟子が、
「お釈迦さま、長いお経を読んでもらったら、
地獄に堕ちている者でも、
極楽に往けると言う人がいるのですが、
本当でしょうか」と尋ねた。
お釈迦さまは無言で立ち上がって
庭に出て行かれ、
小石を一つ拾って大きな池に投げられる。
沈んでいく石を指さされながら、
「そなたたち、この池の周りを、
石よ浮かび上がれ、石よ浮かび上がれと
言いながら回ったら、
あの石が浮かんでくると思うか」
「お釈迦さま、そんなことで石が
浮かぶはずがありません」
とお弟子が答えると、こう仰せになった。
「そうだろう。石は、石の重さで
沈んでいったのだ。
どんなに浮かび上がれと言ったところで、
浮かぶものではない。
人は、己の過去に造った悪業によって、
悪因悪果、次の世界に沈むのだ」

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葬式や墓をいかに盛大にしても、
読経や念仏をどんなに多く称えても、
死んだ人の後生は変えられないことを、
お釈迦さまは説いておられるのです。

●「後生どうなるか」分からないと
 亡き父母の喜ぶことは分からない

では、後生は何によって決まるのか。
親鸞聖人はこう教えられています。

「死んで極楽浄土に往けるかどうかは、
本師本仏の本願に救われているかどうかで
決まるのじゃ」

本師本仏とは、大宇宙の諸仏方の先生である
阿弥陀如来のこと。
本願とは誓願のことで、
阿弥陀仏のなされているお約束を、
本師本仏の弥陀の本願といわれます。

阿弥陀如来は、すべての人の苦悩の元は、
死んだらどうなるか分からない、
後生暗い心であると見抜かれました。

そして、「暗い心を、明るい心にしてみせよう、
いつ死んでも極楽参り間違いない
往生一定の身(絶対の幸福)に必ず救う」
と誓っておられます。

それは、死んだ後ではなく、現在ただ今、
平生の救いです。

ゆえに、

「平生の一念によりて往生の得否は
定まれるものなり。
平生のとき不定の念(おもい)に住せば
かなうべからず」
               (執持鈔)
浄土へ往けるかどうかは、平生の一念で決まるのである。
今、往生一定の身になっていない人は、
浄土往生できないのである”。

平生ただ今、弥陀に救われているか、否かで、
永遠の未来が決するのです。

この弥陀の救いの一念を、覚如上人は、
次のように表現されています。

帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり
臨終とおもうべし

               (執持鈔)

弥陀に救われ、後生明るい心が生まれた時を
「帰命の一念」といい、
その時に、苦しめてきた後生暗い心が
死んでしまいますから、
「娑婆のおわり臨終」と言われています。
親鸞聖人は、この「魂の葬式を急げ」と
生涯教え続けていかれました。

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●最も心をかけるべきは

だから、親鸞聖人の常の仰せは、

親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし
              (改邪鈔)
私が死んだら、賀茂河へ捨てて
魚に食べさせるがよかろう

でありました。なぜ?と驚く私たちに、
その理由を続けてこう教えられています。

これすなわち、この肉身を軽んじて、
仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり

               (改邪鈔)
“弥陀の本願に救い摂られ、
魂の葬式(仏法の信心)ができたならば、
肉体の葬式や墓など、問題にならなくなる”

との御心です。

「いよいよ葬喪(そうそう)を一大事とすべきにあらず」
              (改邪鈔)

肉体の葬式に力を入れて、
最も大事な魂の解決(仏法の信心)を
忘れてはなりませんよ

と常に聖人は教えていられたのです。

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●喪葬仏事の意味

では、肉体の葬式は必要ないのでしょうか。
親鸞聖人はこう仰います。

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故人をしのんで仏法を聞くことが、
亡くなった人の最も喜ぶことであると聖人は
教えられています。

なぜでしょうか?
先祖や親の最も望んでいることは何か、
よくよく考えてみますと、
煎じ詰めれば、「子供たちよ、正しく生きてくれ、
真の幸福になってもらいたい」
ということではないでしょうか。
それは私たちが子供に何を望み、
願っているかを考えてみれば、分かります。
私たちが、子孫に切望することは唯一つ、
「正しく生きよ、幸福になれかし」であるからです。

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●真の孝行とは

では、正しく生き抜き、真実の幸福になるのは、
どうすればよいのか。
本師本仏の弥陀の本願を聞信するしかないと、
お釈迦さまは教えておられます。
阿弥陀仏の絶対の救いにあずかり、
後生暗い心が死んで、後生明るい心に生まれる、
往生一定、絶対の幸福、いつ死んでも
極楽往き間違いなしの身になることが、
最も親や先祖の喜ぶことであり、
ご恩に報いることになるのです。
これ以上の、先祖に対する供養も
親孝行もありません。
この最も大事な魂の葬式の勝縁になる
仏事であるならば、
大いに結構なことです。

「亡くなった人をご縁にして無常を見つめ、
真剣に後生の一大事を心にかけて、
一心に阿弥陀如来の本願を聞けば、
みんなが最高の幸せに救い摂られるのだからね。
これほど尊いことは、ないのだよ」
聖人の仰せにしたがい、
喪葬を縁として、弥陀の本願を
聞き抜かせていただきましょう。
(弥陀の本願を聞き抜くということは、
弥陀の本願に救われるということ)

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ここに注目!

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タグ:葬式
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