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ひとりぼっちの魂を救う弥陀の本願! [孤独な魂]

(真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています。 ) 

「日本の10代が世界で一番孤独を感じている」
最近、ユニセフのイノチェンティ研究所が発表した、
先進国の子供に関するレポートです。
インターネットで「孤独」と検索すると、
二千九百七十万件もの関連項目が出てきます。
それほど「孤独」は、
身近で関心の高い言葉になっているようです。

大人も子供も、漠然とした寂しさを抱えている。
それはなぜでしょうか?

......................................

●欲しいのは「同意」や「理解」

安らぎやときめきを感じ合える相手、
例えば、親、子、妻、夫、恋人、友人などの
いないのを「孤独」と感じる人が多いようです。
ではそれらの人と寄り添い、楽しい会話や、食事、
ゲームやスポーツなどをして、
喜びや楽しみを分かち合うことで、
孤独は癒せないものでしょうか。

触れ合いを通して、「自分を理解してほしい」
という願望を、大人も子供も、皆、持っています。
例えば、子育てで大事なのは、
子供の話をよく聞くことだと、
多くの育児書は書いています。
子供がしゃべれなくても、
目を見て話しかけたり、よく甘えさせ、
泣けばすぐ抱っこして
スキンシップするのが、子供の安心を生み、
自立を促します。
親がそれを怠ると、
ある時から子供は無表情になり、
心のトラブルが始まる。
「サイレント・ベビー」といわれる状態です。
甘えたい気持ちを封じ込め、
喜怒哀楽を表さなくなります。
「自分は甘える価値がないんだ」
という思いになるからです。

生まれたばかりの赤ちゃんでも、
「認めてほしい」という欲求があるのですね。

育児をする母親も、
夫や周囲に分かってほしいと願う一人です。
仕事を抱えながら、育児や家事が集中し、
悩みや焦りで押しつぶされそうなお母さんたち。

その声に耳を傾け、ともに悩み、協力していくことが、
最大の子育て支援だという専門家もあります。
熟年離婚の理由に、
育児期に夫が非協力的だったことを挙げる妻が
非常に多いそうです。

「子供が病気なのに連絡も取れず、酔って深夜に帰宅した」
「自分が病気の時に、何も助けてくれなかった」など、
ため込んだ不満の根本に、
「分かってもらえなかった」の思いがあるのでしょう。
相手に関心を持ち、分かり合おうと努める。
「私を理解してほしい」というのは誰も皆、
求めていることなのです。

●増していく
   孤独の渇き

ところが互いに理解しようと努めても、
さらに深い孤独感にさいなまれることがあります。
それを癒やそうと私たちは、
一層の努力を重ねます。
人間の営みは、底知れぬほど寂しく、
不安なこの人生を、何とか明るく楽しくするためのものと
いえないでしょうか。

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科学技術の進歩が、コミュニケーションにも
大きな変化を与えました。
携帯電話やインターネットはその代表です。
日本の携帯電話の契約件数はおよそ一億。
(平成19年の記事です)
老若男女、ほとんどの人が持っていて、
いつでもどこでも、
だれかとつながっていたい人が増えています。
携帯電話を通じたひんぱんなやりとりは、
かえって、ここに取り残された私の身体と、
そのなかに存在する『孤独な私』の姿を浮き立たせてしまう

(「新世紀考 携帯時代が深める孤独感覚」森岡正博)
時代が進んで便利になるほどに、
寂しさの渇きは深まっているのではないでしょうか。

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●“自分の存在”を
     知らせたい

男は難破して一人、無人島にたどり着いた。
耐え難い孤独から、ビンにSOSを詰めて海へ流す。
返事はしかし、一年たっても届かない。
こうなることは、うすうす分かっていたが、
彼は落胆を隠せなかった。
ところがある朝、信じられない光景が男の前に広がっていた。
手紙が詰まったおびただしい数のビンが海岸に押し寄せ、
打ち上げられていたのだ。
彼は悟った。
“孤独なのはオレだけではなかったんだ”

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今年、20年ぶりに再結成したイギリスのロックバンド、
ポリスが、『孤独のメッセージ』
(『Mwsseage In A Bottle』詞 スティング)
で歌っている物語です。
耐え難い寂しさの中、男が世界中に発したのは
「自分はここにいる」というメッセージでしょう。
海岸に打ち寄せる無数のビンを見て彼は、
孤独なのは自分だけではないと気づきます。
でも歌はここで終わり。
独りぼっちの心を、どう解決すればいいのかは
描かれていません。

無人島の岸でひしめくビン詰めの手紙とは何でしょうか。
現代ならさしずめ、電脳空間の海に漂うメールの類と
いえるでしょう。
あるいは、日々の思いを綴る「ブログ」といわれる日記や、
自分の「プロフィール(横顔)」
を面白おかしく過激に公開する「プロフ」
というサービスかもしれません。
そこには“自分の存在”を知らせたい
人々の声があふれています。
「だれか私に気がついて、私を愛して、
そして、この孤独を癒やして欲しい」
こんな心の叫びに、皆、
突き動かされているようです。

それはだれもが等しく抱えた、
行き場のない思いではないでしょうか。
いかに人や物、やりがいのある仕事に恵まれても、
心が独りぼっちで、無底の寂寥を感じている。
だれもが魂の連れを欲しているようです。


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●人は皆
   独りぼっち

仏教を説かれたお釈迦さまは、
“人は皆、独りぼっちである”
と厳粛な事実を教えられています。

『大無量寿経』というお経に、

独生独死 独去独来

たった独りで生まれ、たった独りで死んでいく。
来るも去るも、独りぼっち。
肉体の連れはあっても、
魂の連れはないのだとおっしゃっています。

私たちは、真の理解者を求めて
生きているといっても
過言ではありません。
すべてを分かってもらえたら、
心から救われたといえましょう。

しかし、そのような人はあるでしょうか。
自分が他人を完全に理解できないように、
私のすべてを完全に分かってくれる人もまた、
ありません。
なぜでしょう。

私たちは、一人一人が自分の心が生み出した
世界に生きているからだと、
仏教では教えられます。
自分が生み出した、
全く違う境界(きょうがい)に生きているから、
親子、夫婦といえども、
互いの世界を垣間見ることすらできないのです。
例えば同じ絵を眺めても全く同じに感じる人は、
一人もないでしょう。
それぞれの持って生まれた感覚、好み、経験など、
各人各別だからです。
では、私のすべてを理解し、
愛してくだされる方はないのでしょうか。
“この孤独地獄から救ってくださる方が、
ただお一人だけあるのだよ”と、
お釈迦さまはおっしゃっています。
それが、本師本仏の阿弥陀如来です。
阿弥陀如来は、私たちの本心を知り抜かれたうえで、
「そのまま救うぞ。おまえ一人の弥陀になる」
と誓っておられます。

すべての人は、この弥陀の本願によって、
孤独なこの魂を救っていただくために
生まれてきたのです。


親鸞聖人は29歳の御時、
この阿弥陀如来の本願に救い摂られ、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり

と喜ばれました。
宇宙最高の仏さまに救い摂られ、
底知れぬほど寂しい人生が、
無限に楽しく、明るい、
素晴らしい人生に転じ変わったのです。

●だれも
   分かってくれない

寂しい心に一人泣いていたが、
親鸞聖人の教えによって、
幸せを喜ぶ身となった、「妙好人」といわれる人々が、
これまで数多くありました。
幸せを喜ぶ身となるとは阿弥陀仏に救われたということです


その中から、お軽(おかる)同行という女性を
紹介しましょう。

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カニの甲羅に似た山口県六連島(むつれじま)は、
海に迫る小高い山に、
数十軒が肩を寄せ合っている。
江戸時代末期のこの島に、
大森岩吉の次女として、
お軽は生を受けました。
幼いことから気性の激しい、
勝ち気な娘であった彼女は、
思ったことは遠慮なく口にし、行動に移す。
200年前の日本でそれは、
美徳とはなりませんでした。
早くに亡くなった姉に代わり、
年ごろとなったお軽は養子を迎えることになりましたが、
どの若者に縁談を持ちかけても、
体よく断ってくる。
調べてみると、「お軽の家へ婿に行かない」
協定が結ばれていた。
男勝りの性格が、「女のくせに」と反発を招いたのです。
そんな密約を、だれより驚いたのがお軽本人。
“だれも分かってくれないのか”という寂しさの一方で、
結婚への憧れは一層つのったことでしょう。

「連れさえあれば、
きっとこの心を分かってもらえるはず」
願いがかなって19の時、
向井幸七を婿に迎えました。
島の男たちは、「約束を破って、バカな奴」
「一生、尻に敷かれるぞ」と、
同情やら揶揄(やゆ)を浴びせ、幸七も、
「オレは泣く泣く、首に綱を巻かれて、
引っ張ってこられたのだ」
と言い訳して、お軽を疎んじました。
一方、お軽は一変して善良な主婦となり、
愛されようと必死で家庭を切り盛りして、
子宝にも恵まれました。

しかし、睦まじいように見えた夫婦関係も、
やがてほころびが見え始めます。
島で作った野菜を、
幸七が船で下関や北九州へ運んで、
行商し、一家は生計を立てていましたが、
次第に彼の足が自宅から遠のいたのです。
ある日、帰ってきた野菜船に幸七の姿が見えない。
仲間の、
「次の売り場を探してもらっているのじゃ」
の言葉を、お軽は疑いもせずに待ちましたが、
次の船でも帰らない。
「銭勘定のため、また残ってもらったんじゃ」
仲間はそう言うが、実は夫は、出先に女性を囲い、
入り浸っていたのです。
そうと知りながら、お軽に一矢(いっし)を報いるつもりで、
夫をかばう男たち。
知らぬはお軽ばかり。
だが、事はすぐに露呈し、
激昂したお軽は夫の胸ぐらをつかみ、
問い詰める。
幸七は白状しました。

●私一人のための
     弥陀の本願

幼いころから独りぼっちで、
適齢期にも寂しさを味わった。
結婚で、一旦は癒やされたかに見えたが、
今度は夫の不義によってより苦しむ。
一心に尽くした夫に疎まれる悲しさは、
身をよじるほどであったでしょう。

しかも島の者は皆、幸七を弁護し、
聞こえるのは自分への冷笑ばかり。
「だれも私を分かってくれない」
孤独な人生の救いを求め、
お軽は生まれて初めて仏門を叩く。

寺の住職・現道に事情を明かし教えを請うたのです。
あんたのためには、かえってよかった。
こんなことでもなければ、
仏法を聞くような女ではないからな、そなたは

歯に衣着せぬ現道の一言に怒ったお軽は、
そのまま家に帰ってしまったが、
それでも聞かずにおれなかった。
そんなお軽が真剣な聞法を重ね、
やがて仏法喜ぶ身となってから、
あふれる法悦を、多くの歌にしています。

(※仏法喜ぶ身とは、阿弥陀仏に救われたということ。)

阿弥陀如来を 殿御に持てば
娑婆の貧乏 苦にならぬ


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私一人の弥陀如来、魂の連れを得てごらん、
この世の苦労は苦にならぬ


変わり果てたお軽に驚き、
やがて幸七も仏縁を結ぶ。

その幸七夫妻と現道との、
こんな会話が伝えられています。

お軽が、現道に言った。
「この人が道楽をしたのは私には幸せでした。
それがご縁で、こうしてお慈悲さま(弥陀の救い)
にあわせていただけたのですから。
この人は私には善知識(仏法の先生)です」
すると幸七が、
「それを言われるとオレはつらい。
でもお前こそ、
お慈悲にあわせてくれた善知識だよ」。
「2人とも、こうして真剣に仏法を
聞いているからこそ、
私も仏縁にあわせてもらえる。
2人こそ私の善知識だ」
最後に現道はこう言い、
ともに喜び合ったといいます。

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底知れぬほど寂しいところが人生です。
それが信心決定すれば、
無限に楽しい人生となるのです。

(信心決定とは、阿弥陀仏に救われたことです。)
 


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