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二度の臨終、二度の葬式とはどんなことか [信心決定]

 

 二度の臨終といいますのは、
心の臨終と肉体の臨終のことです。
ゆえに、二度の葬式というのも
同じく心と肉体の葬式をいいます。
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を信じ切れた時に、
私たちは一度死ぬのだと仰っています。
同時に生き返るのですが、
その時が阿弥陀仏に救われた時であると
仰っておられます。
(信じ切れるとは、弥陀に救われるということ)


『愚禿鈔』に「信受本願、前念命終。即得往生、後念即生。」
とあるのは、このことを言われたものです。
すなわち、弥陀の本願を信受する前念に一度、
命が終わると仰っています。

この命というのは、昿劫より流転を重ねてきた
自力の心のことであり、
不安な魂のことなのです。

その自力の迷心が、阿弥陀仏の名号利剣によって、
一念で殺されてしまうのです。

まさに迷いの打ち止めがなされるのです。
(※利剣とは、切れ味が鋭いことをたとえて言われている。)
覚如上人は、これを、
「平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし

              (執持鈔)
と喝破なされています。

これによっても分かりますように、
心の臨終とか、魂の葬式といわれるのは
信心決定することをいうのです。

(信心決定とは、弥陀に救われること)

肉体の臨終や葬式は、世間周知のことですから省きます。
この中でも、浄土真宗では特に、
心の臨終、魂の葬式の有無をやかましく申します。

すなわち、信心決定したか、否かということです。
親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」
の聖人のご持言(じごん)も、
建仁元年、29歳の時に魂の葬式が済んでいるので、
肉体の葬式などは眼中になかったからのお言葉です。

昔から、死ぬほど苦しいことはない、
と言われますように、
信心決定する前念には本当に死ぬ苦悶を
一度体験させられます。
聞法求道に精も根も尽き果てて、
悲泣悶絶した体験を善導大師は三定死と名づけられ、

「ゆくも死、かえるも死、とどまるも死、
一種として死を免れず」
と、絶体絶命、じだんだ踏んだ体験を述べています。


親鸞聖人の
「いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし」
の悲痛の叫びも、
この魂の臨終の体験を告白なされたものです。

大死一番(だいしいちばん)、如来の願力によって、
この関門を突破させられた時に、

初めて「即得往生、後念即生」と、
身も心も南無阿弥陀仏の絶対の幸福を獲得して
生まれ変わるのです。

死んでよし、生きてよし、心は浄土にすみ遊ぶ心境は、
かかる体験を通して初めて味わわれる風光なのであります。


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