SSブログ

親、兄弟、夫婦の縁は遠い過去からの縁、仏縁も然り [六道輪廻]

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)

縁の大切さを、昔から
「朱に交われば、赤くなる」
とか
「人の善悪は 近づき習うによる」
さらには
「善人の敵とはなるとも
悪人を友とするなかれ」
といろんなことわざで言われています。
これらはすべて悪い縁を遠ざけ、
善い縁を結ぶことが大事だという、
メッセージを伝えています。
人や物など、さまざまな縁に触れ、
人の運命は織り成されていきます。

その縁とはどんなものか考えてみましょう。

EPSON123.jpg-1.jpg

「袖触れ合うも多生の縁」とか「縁談」など、
私たちはふだん、“縁”という言葉を使ったり、
耳にしています。
生まれた国も言葉も、
目や肌の色も全く違う2人の国際結婚は、
万里を超える縁です。
周りじゅうから反対されても、
突破して駆け落ちするほどの深い縁もあります。
さほど縁のない人は、毎日擦れ違っても
それ以上の間柄にはならず、
会話すらない人がほとんどでしょう。
地球上に70億の人がありますが、
私たちは生涯に何人と縁を持つのでしょう。
話をしたいと思っても縁がないから、
会うこともできないとか、
また、あまり知らなかった人とでも、突如、
縁あって結ばれるなど、
私たちの意志とは別に、見えない赤い糸に
引き寄せられるように
感じて使われる言葉でもあります。

昔の着物は、ひらひらとたもとの揺れる袖がありました。
その袖が触れ合うほど近くにいる人がある。
それは深い因縁あっての故だと言われているのが

「袖振れ(振り)合うも多生の縁」
という言葉です。

“多生の縁”を“多少”と思って、
少しばかり縁があったと思っている人もありますが、
これは、仏教から出た言葉で、
正しくは“多生”です。

●世々生々(せせしょうじょう)の
     父母兄弟

多生とは、多くの生と書きますように、
私たちが人間に生まれる前に、
長い過去があり、いろんな形に生まれ変わり
死に変わりしてきたのだと、
仏教では教えられています。

昔から「二十五有生(うしょう)、生まれる里もなければ、
受けぬ形もない
」といわれます。
“二十五有生”とは、仏教で説かれる
二十五の迷いの世界のことですが、
私たちは遠い過去から、それらどの世界にもどんな形にも
生まれてきたということです。
ある時はイヌに生まれ、またある時はネコに生まれ、
ウシやブタに生まれては殺され、
餓鬼に生まれて求め苦しみ、
地獄に生まれて、
のたうち回ったこともあったでしょう。
そんな長い時の流れの中で、
親子であったり、兄弟、夫婦の関係だったことが
あったのではないでしょうか。

一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり
と、親鸞聖人も『歎異抄』に仰っています。
(※25有生は、六道を細分化したもの)

EPSON124.jpg-1.jpg

●春秋知らぬセミ

私たちは、この世、生まれてから死ぬまでの
50年乃至100年の肉体のことしか分かりませんが、
私たちの本当の生命は、肉体ではなく、
果てしない過去からずっと続いてきたと
お釈迦さまは教えられています。

そんな過去世なんか信じられないという人もありますが、
私たちは肉体ができると同時に
造られた頭でしか考えることができませんから
分かりようがないのです。

EPSON125.jpg-1.jpg


セミは春秋を知りません。
夏、地上に出て1、2週間で死んでいくセミには、
春も秋も分からないでしょう。
まして10年や100年などは、
知る由もありません。

同様に私たちが、多生と聞いても
「何それ?そんなのあるか」
と思うのが当然かもしれません。

ですから、生まれる前の過去からの縁と
聞いても毛頭分からず、
人と人が出会うのも、
たまたまだと思われがちですが、
本当は、多生の因縁によるのだと
教えられています。
道で擦れ違い、
袖触れ合うようなささやかな事でも、
それは過去にそうなる関係があってのこと。
原因なく現れた偶然ではなく
因縁が結びついた結果なのだよと
教えられるのです。

私が、ここにいるという結果も
様々な因縁和合してのことですし、
親子・夫婦の関係になるのも、友達となるのも、
過去、多生の間の因縁によるのです。

そうと知れば、コンチクショー、憎い、
こんな人と同じ部屋で息吸うのもイヤ、
と思っている人も、案外、
因縁深い懐かしい方ではないでしょうか。


また皆さんが今、こうして『とどろき』を読み、
「聞法の集い」で仏教を聞かれているのも、
人に勧められて、何となく聞き始めたと
思っていられるかもしれませんが、
実は、根っこが深いのです。


親鸞聖人は、遠い過去から結ばせていただいた
阿弥陀仏との尊いご縁なのだと
言われています。
これを仏縁といいます。

●ああ・・・
    弘誓の強縁

親鸞聖人は、弥陀に救い摂られた時の驚きと慶喜を

噫、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし

               (教行信証)

と仰って、多生・億劫という言葉を使われています。
一劫とは、仏教で4億3千200万年ですから、
億劫とは、その億倍、とても想像できない長い時間です。

これは、弘誓の強縁・弥陀の救いにあい、
迷いの打ち止めをさせられた聖人が、
世々生々、多生億劫の間、
迷ってきた流転の過去を
ハッキリ知らされ告白されているお言葉です。

「弘誓の強縁」とは、阿弥陀仏の本願のこと。
阿弥陀仏という仏がなされているお約束のことです。
阿弥陀仏とは、どんな仏さまか。
蓮如上人は、このように教えられています。

弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり
              (御文章二帖目八通)

今日の天文学によれば、太陽のような恒星(自ら光る星)が
2千億集まって、銀河系宇宙を作っています。
さらにその銀河が、大宇宙には、
1千億以上もあると知られています。
ケタはずれのスケールですね。

EPSON126.jpg-1.jpg


2600年前、地球上に現れたお釈迦さまが、
仏の智恵によって、この大宇宙には
数知れない仏がましますと教えられ、
それをここで蓮如上人は、
「三世十方の諸仏」と言われています。
それら無数の仏方の本師本仏が
阿弥陀仏といわれる仏さま。
「本師本仏」とは、先生・師匠ということですから、
大宇宙のすべての仏を指導されている仏さまが、
阿弥陀仏(弥陀如来)なのです。

その弥陀が
「すべての人を、必ず絶対の幸福に救う」
と約束なされて、
迷い続ける私たちを何としても助けようと、
あの手この手と、導いていられるのです。

●だれにも
  「多生の目的」がある

私たちは、飲みたい、食べたい、楽したい、
褒められたい、認められたい、そして寝たい、
と欲望を満たす楽しみ以外、
関心がないといってもいいでしょう。

「いたずらに 過ぐる月日は 多けれど
   法を求むる 時ぞ少なき」
テレビの前には、長時間座っても、
法座に身を置くことの何と少ないことか。
せっかく人間としてこの世に生まれたというのに、
くる日もくる日も欲に追い回され、
やがて消え去る、
はかない幸福ばかりを追い求めている。
この世を去る時には、
何一つ持ってはいけないと
百も千も承知していながら、
何と言うバカ者でしょう。
こうして、これまでも、長い間、
迷いを重ねてきたのです。

EPSON126.jpg-2.jpg


そんな私たちを阿弥陀仏は哀れんで
「絶対の幸福に必ず助けてみせる」
と誓われています。

これは、大宇宙の諸仏が、
束になっても絶対にできないお約束なので、
親鸞聖人は『正信偈』に弥陀の本願を
「無上殊勝の願」「希有の大弘誓」
と、たたえられています。
親鸞は全く、この弥陀のお力によって救われたのだ、
と『歎異抄』には

「『弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて
往生をば遂ぐるなり』
と信じて『念仏申さん』と思いたつ心の発る(おこる)とき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり

と仰っています。
摂取不捨の幸せ、
必ず浄土往生できる身に生かされたのは、
全く弥陀の不思議な願力によってだと、
阿弥陀仏の絶大なお力を、
賛嘆(さんだん)されているのです。

そして、この弘誓の強縁・弥陀の本願によって、
必ずあなたも救われる、
弥陀の本願聞き抜きなさいよと、
親鸞聖人は真剣な聞法を勧められています。

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん。

            (お釈迦さま)
生まれ難い人間に生まれ、
聞き難い仏法を今聞いています。
遠い過去から結ばれた仏縁に感謝し、
多生・億劫にも聞き難い弥陀の本願を、
今、聞き抜かせていただきましょう。
(聞き抜くとは、阿弥陀仏に救われること)


タグ:
nice!(26)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

nice! 26

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0