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生死の一大事はいつ解決できるのか [後生の一大事]

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

死後に無間地獄へ堕ちるという
一大事があるなどということは
夢にも考えていない人たちばかりです。
この一大事があることを知らずに自殺していく人、
五欲に追い回されて仏法を聞こうとしない人たちを
迷える者というのです。
仏法を修養の道具ぐらいに考えているのです。

(無間地獄とは、苦しみが途切れることなく、
4億3千2百万年の八万倍の長年月続く大苦悩の世界。
六道のうちの地獄界の一つ、六道はみな、心が生み出す迷いの世界)

●平生ただいま
    ハッキリする

これらの大衆の迷夢を打ち破り、
後生の一大事があることを
警鐘乱打するものが仏法なのです。

しかも、この一大事は阿弥陀仏の本願を信じた一念で、
ハッキリと解決できるのだ、と教えています。

(阿弥陀仏の本願を信じた一念とは、弥陀の本願にツユチリ程の疑いがなくなり、
弥陀に救われたその時ということ)


これを覚如上人は『執持鈔』に、
「然れば平生の一念によりて
往生の得否は定まれるものなり。
平生のとき不定の念に住せばかなうべからず」
とおっしゃっているとおり、
平生元気のよいただいま、
明らかに、この一大事は解決できるのです。

すなわち、いつ死んでも弥陀の浄土間違いなしと
大決定心がおきますと、無間地獄へ堕ちるという
一大事は全く解消いたします。

このように死んでよし、生きてよしの大安心、
大満足の心になったことを
信心決定(しんじんけつじょう)とか、
信心獲得(しんじんぎゃくとく)したというのです。


かくて親鸞聖人のように、何ものにもおそれず、
たくましく生き抜けるようになるのです。
この真実絶対の仏法の開顕のためになら
身命をも惜しまず、
人倫の哢言(ろうげん)を恥とせず、
大衆の中に飛び込んで、
真実に向かって猛進する
たくましい人間像ができるのです。

●聞法の目的は
  生死の一大事の解決

このような点からいえば、
正にたくましく、明るく、強く、
正しく生きることを教えるものが
仏法ということができますが、
それは飽くまでも、仏法の大目的である
後生の一大事の解決ができたところから
生ずる副産物であって、
断じて仏法の目的ではありません。

我々が仏法を求めるのは、
飽くまで生死の一大事の解決のために求めるのですが、
その大目的がハッキリ達成できると、
この世も素晴らしい生き方ができるようになるという
付録もついてくるのです。

しかし、断じて付録を目的にして仏法を求めてはなりません。
そのような心がけで仏法を求めては、
決して付録もやってこないことを知っておくべきです。

●米とワラの関係

釈尊(釈迦)はこの関係を例えて、
「農家の人が田んぼを作る目的は米だが、
米が取れると必ずワラが取れてくるようなものだ」

と仰っています。

米は生死の一大事の解決、ワラは、明るく、
たくましく生きることに例えられたのです。

されば、仏法を求める人々は、
目的は、飽くまで後生の一大事の解決にあるということを
ゆめゆめ忘れてはなりません。

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