SSブログ

我々は地獄行きの本性しか持ち合わせていない! [罪悪深重]

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に出てくるカンダッタは、
地獄へ堕ちて当然の悪人だと思いますが、
我々の心とカンダッタの心は全然変わらないことを、
今回の記事では教えてくれています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)  

アニメ『世界の光・親鸞聖人』の第5部には、
後生の一大事を解決する道を
親鸞聖人にお聞きするため、
関東の同行が、京都へ向かうシーンがある。
第6部には、親鸞聖人が、それらの人々に
ご教化くださる場面がある。
歎異抄第2章に描かれたところだ。

今日では想像も及ばない過酷な旅を
敢行した理由は、
古今東西の全人類に、
一息切れたら地獄へ堕ちねばならない
後生の一大事があるからである。
仏法を聞く目的も、これ以外にない。

後生の一大事を生み出す
私たちの行為を、
お釈迦さまは、『大無量寿経』に、

心常念悪(心は常に悪をおもい)
口常言悪(口は常に悪を言い)
身常行悪(身は常に悪を行い)
曾無一善(かつて一善もなし)

とある。
心と口と身体で私たちは、
悪の造り通しなのだ。

親鸞聖人は、ご自身のことを、
「罪悪深重」
「地獄は一定すみか」
とまで仰っている。

とくに仏教では心を重視するとも述べた。
心で造る悪として、
貪欲(欲)
愼恚(怒り)
愚痴(ねたみ、そねみ)
と教えられている。

その中でも欲の正体は、自分さえよければ
他人はどうなってもよいという我利我利の心である。

●小説『蜘蛛の糸』という小説がある。

ある朝、お釈迦さまが、
極楽の蓮池をのぞきこまれると、
八功徳水のはるか下に、
血の池地獄が見えたのである。
多くの罪人が、浮きつ沈みつ苦しんでいたが、
ひときわもがいていたのが、
カンダッタという男である。
仏の慈悲は、
苦ある者にひとえに重い。
助ける縁手がかりはないかとお釈迦さまが、
カンダッタの過去帳を開かれたところ、
生前のカンダッタは、強盗、殺人、放火などの連続。
ところが一つだけ、善行があった。
山道を歩いていたカンダッタが、
道を横切ろうとしたクモを、
いつもなら踏み殺すところだが、
その日だけはとび越えていったのだった。

微笑せられたお釈迦さまは、
蓮池に巣を作っているクモの糸を手に取られ、
血の池地獄へ垂らされた。
悶え苦しむカンダッタの頭上に、
銀色に光りながら、降りていったのである。
「こんな細いクモの糸では助かるまい」
とは思ったが、溺れる者は藁をもつかむ、
カンダッタが糸を握ると、ふっと体が浮いたのである。
「しめた!」
と思ったのは言うまでもない。
彼は糸を上り始めた。
もとより大泥棒のこと、こんなことは朝飯前である。
が、さすがに極楽までは遠く、
疲れて中途にぶら下がり、カンダッタは一休みした。
足下を眺めると、血の池が不気味に照り輝いている。
同時にカンダッタは、がく然とした。
一人でも切れそうな細い糸を、
何十何百の罪人が、あとからアリの行列のように
上ってくるではないか。

EPSON136.jpg-1.jpg
カンダッタは足の指で糸をつかみ、
振りながら怒鳴った。
「お前らいったい、誰の許しを得て上ってきたのだ!
これはオレ一人のものだ!落ちろー!」
罪人たちは悲鳴を上げ、
再び地獄へ吸い込まれていった。
「さまあみろ」
とほくそえんだ刹那、
カンダッタの握っていたすぐ上で、
クモの糸はプツリと切れ、彼もまた、
血の池地獄へ沈んでいったのだった。
一部始終を見られてお釈迦さまは、
「自分さえよければ、他人はどうなってもよいという
我利我利の心が、
またしてもあの男を地獄へ堕としめたか。
助かる縁のない者だ」
と嘆息されたという。

これが小説の概要だ。

●人間の本性がむき出しとなった
    タイタニック号の悲劇

蜘蛛の糸』は芥川の創作だが、
我利我利亡者の人間の実相を表す実話がある。

世界中で記録的な興行成績を収めた映画
『タイタニック』に見てみよう。

EPSON137.jpg-1.jpg
1912年4月10日、当時としては
最大の豪華客船であったタイタニック号は、
イギリスのサウサンプトン港から、
アメリカ・ニューヨークに向け出港した。
3年の歳月をかけて造られたこの船は、
当時としては画期的な2重構造の船底を持ち、
しかも船体は、15の防水隔壁で区分されていたため、
「不沈艦」だと人々は、かたく信じていたのだった。

ところが4日後(14日)の深夜11時40分、
北大西洋上で氷山と衝突。
沈没するとわかってから、翌15日の午前2時20分に
海底の藻屑(もくず)と消えるまで、
船内は狂乱の事態となる。
我先に救命ボートへ駆け寄る乗客を統制するため、
船のクルーが先導し、
まず女性や子供からボートへ乗せられた。
2223人の乗客・乗員のうち、
約半数しか乗れないボートをめぐり、
我利我利の正体露出の争いが
展開されたのだった。


あまり疲れていないときは、
満員電車でお年寄りに席を譲るにやぶさかでない。
が、2日酔いの朝や、仕事で疲れた帰りに、
自分の座席の前に老人が立ったら、
どのような心が動くであろうか。
「あっちへ行ってくれないかな」
「寝たフリしよう」
と思ってしまう。

余裕のあるときは
善人の仮面をかぶることはできても、
切羽詰ると、
自らを犠牲にして他人に尽くすことは、
なかなかできない。
我利我利だからである。

まして、死ぬか生きるかのときに、
他人を顧みる余裕があるか。
自分がタイタニックの乗客になって、
考えてもらいたい。

氷山の救命ボートが海上へ降ろされた。
定員65人のところなぜか、たった28人を乗せて。
徐々に乗る人の数が増えてゆくとは言え、
まだ空席がある状態で、
次々とボートが降下していった。

船体はますます傾き、興奮が高まってくる。
女装して乗り込もうとする男性や、
避難を誘導する立場にありながら、
逃げ出す者も出始めた。


EPSON138.jpg-0.jpg


1時30分、ひときわ大きな悲鳴が上がった。
すでに定員いっぱいで降下するボートに、
乗客が飛び乗ろうとしたのだ。

航海士が銃を空に向けて発砲し、警告した。
残り少ないボートを求め、
乗客は傾いたデッキの上を右往左往する。
2時5分、最後のボートが離れた。
が、船にはまだ、1500人が残っているのだ。
2時18分、多くの生存者が、
船体が2つに避けるのを目撃。
重すぎた船首部分が、まず水没した。
さらに、ちぎれた船尾側が
垂直に立ったまま数分間過ぎたあと、
一気に沈み始める。
史上最高の豪華客船は、3773メートルの海底へ。

EPSON138.jpg-1.jpg


海面にはまだ、救命胴衣をつけた多くの人が、
悲鳴を上げながら溺れている。

遠巻きに眺めるボートは20隻、
定員の半分も乗っていないものもありながら、
救助に行けば、溺れている人が殺到し、
ボートが転覆するのは目に見えていた。
生存者は、夫や同朋を見殺しにしたのだ。

小一時間が経過し、ようやく一隻のボートが、
海面を漂う人々へ、ゆっくりと近づいた。
多くの人は、冷たい海水のためにすでに絶命し、
わずか数名が新たに助けられたに過ぎなかった。
死亡者は1517名と推定される。
生存者は、706名であった。

●蛇蠍(じゃかつ)のごとき悪性

「自分が助からない」となれば、
他人を蹴落としてでも、
救命ボートに乗り込もうとするではないか。

また、幸いにボートで脱出できても、
海上に溺れる人々を、身の危険を顧みず、
助けにいけるだろうか。


親鸞聖人は、阿弥陀如来の光明によって
照らし出された我利我利亡者の自己を、
「悪性さらにやめがたし、心は蛇蠍のことくなり」
と仰り、

「蛇やサソリを見たときのような
ゾーッとする心を、親鸞は持っている」
と泣かれた。

また、
「さるべき業縁の催せば
如何なる振舞もすべし」
と告白なさって、縁さえやってくれば、
殺人をも犯してしまう悪性であると、
悲痛な懺悔をなさっている。
地獄へ堕在する一大事は、他人事ではない。
我利我利の本性を隠して、
善人ぶっているすべての人の後生にあるのだ。


nice!(86)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

nice! 86

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。