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やがて死ぬのになぜ生きる? [なぜ生きる]

 (真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています)

人生の「最優先」は何か

愛読の皆さんに、本誌を手に取ったきっかけを聞くと、
大切な人との死別が多いことに気づかれます。
永年連れ添った伴侶や肉親の死に
触れた驚きと悲しみからでしょう。

誰人も「諸行無常」の実相と無縁ではないのだと
知らされます。
毎日飛び込んでくる種々の訃報(ふほう)は、
「人生は有限だ。今、何をなすべきか」
と私に問う警報に違いありません。

今回は、“無常を見つめて生きよ”
と勧められるご教示をお聞きしましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「無常を観ずるは
      菩提心の一(はじめ)なり」
        死を見つめて大事を知る

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明るい人生を望み願い、
「暗い死のことなんて考えたくない」
と思っている私たちに、
「無常を観じよ」と仏教は教えられています。

突然襲う
  大切な人との別れ

突然の伴侶の死を、北海道の70代男性は、
こう述懐しています。

その日、カラオケのレッスン中だった妻は、
課題曲を歌い終わった瞬間、
その場に倒れ、救急車で運ばれました。
クモ膜下出血で、意識が戻らぬまま、
数日後に亡くなったのです。
あまりに突然のことで、
何が何やら分からない。
何もしてやれなかった反省と
後悔の念ばかりが湧いてきました。
供養するにはどうすればいいのか、
と思い、『正信偈』を読むようになりました。
毎日拝読していると
“どんなことが書かれているのだろう”
と知りたくなりました。
しかし、どこで尋ねても分からず、
チンプンカンプン。
どうにか模索しながら新聞を見ていると、
一枚のチラシが目に留まったのです。
『とどろき』の勉強会の案内でした。」

数十年間、当たり前にそばにいる妻や夫は、
親兄弟よりも長く時を共有しています。
そんな大切な人を亡くした喪失感は、
味わった人にしか分からないものでしょう。
思い返せば、もっと何かしてやれたのでは、
の思いばかりがあふれます。
残された自分は何ができるか、
どうすればいいのか。

「勉強会で、なんと『正信偈』には
人間として生まれてきた目的が教えられていることを
知ったのです。
勤行(おつとめ)をするのは、
供養のためではなく、
生きている自分のためであった、
と知らされました。
亡き家内が身をもって無常を伝え、
残された私を正しい教えに
導いてくれたとしか思えません。
この道を進むことを
妻は喜んでくれていると思います」

『正信偈』の冒頭に親鸞聖人は、
帰命無量寿如来
南無不可思議光」
と、ご自身が阿弥陀如来に明らかに救われたことを
宣言されています。

弥陀に救われ、絶対の幸福になった表明であり、
これはすべての人の生まれてきた目的であるから、
あなたも早く達成しなさい、

と『正信偈』の最後に、

道俗時衆共同心
唯可信斯高僧説

すべての人よ、一刻も早くこの親鸞と
同じ心に救われてもらいたい。
それには正しく弥陀の本願を伝えられた
高僧方の教えを真剣に聞き信じなさいよ

と結んでいられます。

菩提心が
   人生を豊かにする

昨年、お姉さんと死別された広島県の50代女性は、
こうつづられています。

病気と縁のなかったような姉が入院したと電話があり、
その6時間後に危篤の知らせ。
病院に駆けつけた時は意識はないまま、
4時間後に亡くなりました。
蓮如上人の『白骨の章』の『朝(あした)に紅顔あって
夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり』さながらでした。
一年たちましたが、姉のいない寂しさ、
悲しさで苦しんでいます。
姉は、56歳でした。
3月号で藤づるの絵と釈迦の説かれた
人間の真実を知りました。
なぜ仏教を聞かねばならないか、
人間の問題がこの絵で理解できました。
姉が、仏さまのことを聞かせてもらえ、
と私に働きかけてくれている気がします。

蓮如上人は有名な『白骨の御文章』に
命のはかなさを切々と述べられ、

誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて

真剣に阿弥陀仏の救いを求めなさいと
教えられています。

このように今晩とも知れない命だと
無常を見つめることを仏教で「無常観」といいます。

古来、
無常を観ずるは菩提心の一(はじめ)なり
といい、
諸行無常の現実をありのままに見よ。
はかない世と知らされ、必ず、
「この一瞬の人生、やがて死ぬのになぜ生きる?」
生まれてきた意味や、
永続する幸せを求めずにおれなくなる。
その心を「菩提心」といい、
これが人生を真に豊かにする
大切な心だと教えられています。

●人生観を揺さぶる大事

仏教を説かれたお釈迦さまでも、
親鸞聖人はじめ、歴代の善知識方も皆、
ご自身に起きた種々の無常か、
自己の罪悪を縁に菩提心を起こし、
仏門に入られている方ばかりです。

生老病死の逃れられぬ四苦に驚かれ、
どうすれば解決できるかと、
入山学道の身となられたのが
お釈迦さまでありましたし、
幼くしてご両親と死別され、
「次には自分が死ぬ番だ。死ねばどうなるのか」
と大きな疑問を抱かれ、九歳で出家されたのが
わが祖師・親鸞聖人でした。

肉親や大切な人の死という現実を目の当たりにした時、
誰もがそれまでの人生観を根底から崩されます。

心の傷を癒す時間や慰めが、
必要になることもあるでしょう。
しかし、いつまでもクヨクヨしてはおれません。
悲しみから立ち上がって、さあ、どちらに進むのか。
それが残された私たちにはさらに大事なことであり、
その方角を示しているのが仏教なのです。

死別の悲劇は、心地よくまどろんでいた我々の目を
豁然(かつぜん)と人生に開かせ、
真の幸福を教える仏教に向けさせる
勝縁であります。
また、そうすることが、
亡くなった人の最も喜ぶことなのです。

ですから、冒頭の読者のような心が
皆さんに起きたのは、大変尊い、
喜ぶべきことだと知っていただきたいと思います。

真剣に聞かんでも
     いいのが仏法か?

ところが、そのように仏法聞きたいと願っても、
なかなか聞けるチャンスはないようです。
せっかく教えを求めながら、
「他力だから、求めることは要らない。
どうせ死ぬば皆、極楽ですから」
「そんな真剣に聞かねばならんもんではありません」
などと、冷や水を浴びせられて
“ガッカリした”と口にする人も多いのです。

しかし、お釈迦さまは
「そんな考えは、とんでもない誤りだ」
と、こう仰っています。

世人薄俗(せじんはくぞく)にして共に
不急のことを諍い(あらそい)、(略)
尊と無く卑と無く、貧と無く富と無く、
少長・男女共に銭財を憂う。
有無同じく然り。
憂き思適(まさしく)等し。(略)
心の為に走せ使われて、安き時有ること無し。
田有れば田を憂え、宅有れば宅を憂う。
牛馬(ごめ)・六畜・奴婢(ぬび)・銭財・衣食(えじき)・
什物(じゅうもつ)、また共にこれを憂う

              (大無量寿経
世の人々は目先のことに心奪われ、
急がなくてもいいことに血道を上げている。
貴・賤・貧・富や老・若・男・女は関係なく、
みな金や財産で苦しんでいる。
田畑や家が無ければ、それらを求めて苦しみ、
有れば、管理や維持のためにまた苦しむ。
その他のものにしても、みな同じである

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すべての人を「世人」といい、皆、
真に急ぐべき人生の大事を知らない、
と仰っています。
私たちは毎日、目の前のことをこなすのに精一杯。
朝から晩まで忙しい忙しいと駆け回っていますが、
その相(すがた)はどんなものでしょう。


親鸞聖人とほぼ同時代に書かれている有名な
徒然草』にはこうあります。
一日のうちに、飲食(おんじき)・便利・睡眠・
言語(ごんご)・行歩(ぎょうぶ)、
やむ事をえずして、多くの時を失う。(略)
無益の事なし、無益の事を言い、
無益の事を思惟して
時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて、
一生を送る、尤も(もっとも)愚かなり

             (徒然草)
まるで現代人のことを言っているようですが、
時代を問わず私たちは、生きるために食事や睡眠、
会話や移動に多くの時間を割いている。
しかもどれもこれも、やめるわけにはいきません。
一日中、家事や小用に追われ、
“ああ私、何やってんだろう?”
と思うことがあります。

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宅配弁当のコマーシャルで主婦が、
「朝作って、すぐ昼作って、
夜のメニュー考えて・・・」
と言っているのを聞いて、
「ホント、一日中食事の準備しているみたい」
と共感する人もあるでしょう。

永年の習慣とはいえ、
毎度の食事準備は手間がかかる。
ニンジン一つ細かく切るのも一苦労。
そうして作った料理も食べるのはアッという間。
食器や鍋を洗って、
すぐ次の食事の準備が始まります。
ある裕福な家の奥さんが、夕方、
いつものようにフロ掃除をしていた。
ふと顔を上げて、窓からいつもの夕日を見た時、
突然、止めどもなく涙が頬を伝って流れ落ちた。
このまま老いて、人生終わってしまうのかと思ったら、
居ても立ってもおれなくなり、
荷物まとめて家出したというのです。

食べるために働く、働くためにまた食べる。
しかし、おまえは何のために食べているのか、
と問われたら、何と答えましょう。

生きる目的が
    なければならぬ

   人生は
喰て寝て起きて 糞たれて
子は親となる
  子は親となる

禅僧・一休が歌うように、
同じ所をグルグル回りながら成長し、
やがて老いて死ぬ。
これが私たちの実態なら、今死ぬのも、
十年後に死ぬのも、同じことではないか、

と知れば、
普段の営みに一生懸命取り組む根底に、
「生きる目的」がなければなりません。

生きる目的を知り、達成して、生きてよし、
死んでよしの大満足を獲得することが
「最も急ぐべき大事である」
とお釈迦さまは仰っているのです。


ではその大事と何か。
コラムの次の章で学びましょう。

..................................
(ここでコラムをはさみます。)

●死とはいかなるものか

「死生学」が大学で講義されたり、
人生の終末への活動「終活」が流行語になるなど、
よりよい「生」のための「死」を考えよう、
と昨今は言われるようになりました。

しかし一方で、
「そんなの、死んでみないと分からない」
「死んだら死んだ時、死なんて考えていたら、
楽しく生きられないよ」
「オレだけじゃないよ。みんな死んでいくんだから、
怖くないさ」
と、真剣に考えようとしない人も依然多いようです。
考えたくないことだからでしょう。

仏教を学んだ哲学者・丸山圭三郎氏は、
死の恐れを、四とおり挙げています。


一つめはガンの末期や心臓発作の
耐えがたい「肉体的苦痛に対する恐れ」です。

二つには「親しい者との離別体験を典型とする精神的苦痛」

三番目は「地位、名誉、知識、特に財産への執着心から
生まれる喪失への恐怖」です。

第四に、
最大の死の恐怖として、
いわば(非ー知)に相対(あいたい)したときの戦慄である。

死がまったく人間の予測や
思考の枠を超えた存在であり、
死後の世界は不安と謎に満ちた
ブラックホールなのである。

死んだらどこへ行くのか、
死んだら自分はどうなるのか、
という問いは、現世の人間関係とか財産の喪失とは
まったく次元の異なる恐怖をよび起こす


と述べています。
死は未知の体験であるといわれても、
元気な時はそんな苦痛とは思えない。
冒頭の発言は、そういう人の言葉ですが、

いざ死ぬとなった時に私たちの心を占めるのは、
後生の不安以外にないのです。

問題は、『この自分』は、
死後どうなるのかという点に集中してくる。
これが人間にとっての大問題となる


仏教を説かれたお釈迦さまは、
臨終の心相を次のように仰っています。
大命まさに終わらんとして
悔懼(けく)こもごも至る

       (大無量寿経
臨終に過去の行為に対する後悔と、
後生の恐れが交互にやってくる

大宇宙の諸仏の本師本仏である阿弥陀仏は、
この私たちの
「死ねばどうなるか分からぬ、真っ暗な心」を、
「往生一定
(いつ死んでも無限に明るい
極楽浄土に必ず生まれられる)」
の大安心、大満足に救ってみせる、
と誓われています。
この弥陀の救いが、私にとって
いかに大事なことが分かるでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

浄土へ向かう大船に
       乗りかえよ

   「不急のこと」と「急ぐこと」

前章で、「世人薄俗にして
共に不急のことを諍う」という
お釈迦さまの警鐘をお聞きしました。
では、
人間にとって最も急ぐべき大事は何でしょうか。
4つのQ&Aで学びましょう。

Q1お釈迦さまの説かれた「真に急ぐべき大事」とは、
  どんなことですか。

A 
それを知るために、こんな例えで人生を考えてみましょう。
今、私たちは川を下る船に乗っています。
船の中で好きな人ができたり、
嫌いな人とケンカしたり、
酒を飲んだり歌ったり、円安になった、
株が上がった、
儲かった、損したと、
泣いたり笑ったりしながら過ごしています。
毎日毎日そんなことに一生懸命なのですが、
この船の行く先はどうなっているのか。
誰も深く考えていませんが、
滝つぼなのです。
すべての人は、死の滝つぼに
向かっている船に乗っているのです。
これでは、船中どんなものを
どれだけ手に入れたところで、
心からの安心も満足もあるはずがありません。

先日ある女性読者から
「私の人生でかなった願いは幾つかありますが、
喜んで当然なのに空虚な心しかなく、
それを人に言うこともできず、
いつも満足そうなフリをしていました。
秀吉とまではいかなくても、
ある程度わが物になったのに不満足に陥るのは、
行く先が真っ暗だからなのですね

まことに何を手に入れ、世の中がどう変わろうと、
我々の船は滝つぼへ一直線に近づいています。
最後は、集めた金も財も家族も力にならず、
船ごと滝つぼに落ちていかねばなりません。
これを「後生の一大事」といわれます。

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有名な蓮如上人の「領解文」にも
「われらが今度の一大事の後生」
と言われているのは、
この滝つぼに落ちる一大事のことです。

生きるためには食べねばなりませんが、
有り余る食べ物を残して滝つぼへ落ちる時が
私にも確実に来る。

こんな危ない船に乗っている
私の「急ぐべき大事」は一つ。

滝つぼに落ちる前にこの船から脱出することであり、
それ以外は「不急のこと」と言われても、
うなづけるのではないでしょうか。

Q2 確かに人間、最後は死の滝つぼへ
落ちねばなりませんが、
それはどうしようもないのではないでしょうか。

A 
いいえ、あきらめる必要はありません。
どうすればこの危機から逃れられるのか。
例えていえば、滝つぼに向かう船から
極楽往きの大船に乗り換えることです。

「えっ、大船に乗りかえる?そんな船があるの?」
と驚かれるでしょうが、親鸞聖人は、
「あるから早く乗りかえなさい」
と断言されています。
この大船一つ教えられたのが、
実に仏教であり、親鸞聖人のみ教えなのです。

大船を造られたお方は、阿弥陀如来という仏さまです。
「最尊第一」と仰がれる、
大宇宙で最も偉大な阿弥陀如来は、
悲劇の滝つぼに向かうすべての人を、
この世から未来永遠の幸福に
救ってみせるという崇高な願い(本願)をおこされ、

70億の人類が乗っても、
どこにいるか分からないほど大きな船を造られました。

弥陀の大慈悲の願いによって完成された船ですから
「大悲の願船」とも聖人は仰っています。
この大船に乗りかえれば後生の一大事は解決し、
いつ死んでも浄土往生間違いない身になれます。

弥陀の浄土を聖人は「無量光明土(限りなく明るい世界)」
と言われます。
『正信偈』に「必至無量光明土」と明言されていますように、
必ず無量光明土へ往けますから、
一息一息が、光明の広海を快走する愉快で楽しい船旅に
大転換するのです。

この大船に乗りかえる外に、
私たちの後生助かる道は二つとありません。


ゆえにお釈迦さまは仏教の結論として、
一向専念無量寿仏
(弥陀一仏に向き、信ずる身になれ)
と説かれ、「領解文」では、
一心に『阿弥陀如来われらが
今度の一大事の後生御たすけ候え』
とたのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定

と教えられているのです。

Q3 「大船に乗りかえる」(弥陀をたのむ)とは
どんなことか、もう少し詳しく聞かせてください。

A 
ここで船を乗りかえる(弥陀をたのむ)とは、
「阿弥陀さま、助けてください」
とお願いすることではありません。

一切の自力の計らいを捨てて、
阿弥陀仏に後生の一大事をうちまかせることを
「たのむ」といいます。

「弥陀をたのむ一念」に「自力の心」が死に、
同時に「他力の心」が生まれると、
親鸞聖人は次のように教えられています。

信受本願 前念命終
即得往生 後念即生
」(愚禿鈔)
弥陀の本願に救われた一念に、
自力の心が死ぬ。
同時に他力の心が生まれるのである

弥陀の本願まことだったと知らされた一念に、
命(昿劫流転の迷いの心)が終わると仰っています。

この「終わる命」というのは、
昿劫より流転してきた自力の心のことであり、
弥陀の本願を疑う心(疑情・本願疑惑心)です。

「死んだらどうなるのだろうか」
「地獄へ堕ちるのではなかろうか」
という後生暗い心であり、
「絶対の幸福なんてあるはずがない」という心です。

その自力の迷心が、南無阿弥陀仏の利剣によって
一念に殺される。
まさに永の迷いの打ち止めがなされるのです。

同時に、「弥陀の本願まことだった」という心、
「いつ死んでも極楽往き間違いなし」
の往生一定の心、絶対の幸福、無碍の一道、
「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かぶ」心が
誕生いたします。

死ぬとか生まれるというと、
私たちは肉体のことしか知りませんが、
肉体は滔々(とうとう)と流れる大河にポッとできて、
パッと消える泡のようなもの。
仏教で問題にされるのは果てしない過去から
流転し続けている私たちの永遠の生命です。

平生に、この迷いの命が死に、
絶対の幸福に生まれ変わったことを
「弥陀に救われた」といい、

親鸞聖人はそれを「正信偈」の冒頭に、
「帰命無量寿仏如来 南無不可思議光」
と言われています。
浄土真宗ではこのように、「肉体の臨終」だけでなく
「心の臨終」「魂の葬式」が教えられているのです。

Q4 どうすれば私たちは大船に
乗りかえることができるのですか

A 『正信偈』末尾に、
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説
と記されているとおり、
それはただ善知識(高僧)の教えに遇い、
弥陀の本願を聞信する、聴聞の一本道です。

考えてみれば、人生なんて
アッという間ではありませんか。

ある115歳の女性が
「人生、短かった」と答えていましたが、
たとえ115年生きても
十分生きた気がしないのが本当でしょう。

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「一炊の夢」の故事のとおり、
夢のように一生が過ぎ、
皆、滝つぼに転落します。

しかしこの一瞬の人生には、
浄土へ向かう大船に乗り換え、
昿劫流転の魂の解決をするという、
限りなく大きな意味があるのです。

阿弥陀さまの救いは「死んだらお助け」ではありません。
川を下っている間に船を乗り換えねば手遅れです。
だからこそ善知識方は「一日も片時も急いで聞き開け」
と教えられています。

呼吸の頃(あいだ)すなわちこれ来生なり。
一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず(かえらず)。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
願わくは深く無常を念じて、
徒に後悔を胎す(のこす)ことなかれ

               (親鸞聖人)
命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得あるべく候

               (蓮如上人)

いずれもいずれも、「生きている時が勝負だぞ」
と汗握ってのご勧化です。

「仏法は聴聞に極まる」
聞法の場に足を運び、
「弥陀の本願に疑心あることなし」
とツユチリの疑いもなくなるまで、
ともに聞き開かせていただきましょう。

(聞き開くとは、弥陀に救われるということ)

 

親鸞聖人の教え=釈迦の教え=弥陀の本願


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