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阿弥陀仏は我々を救うためにどれほどのご苦労をなされたのか! [仏願の生起本末]

 今回の記事は阿弥陀仏が、死ねば地獄しか行き場のない我々を救うために、
どれほどのご苦労なされたのかについて書かれたものです。
生きている今、阿弥陀仏に救われれば、
この記事に書かれてあること全てが作り話ではなく、
真実であることが知らされるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ここからは真実の仏教を説かれている先生ご執筆の「とどろき」より載せています)

法蔵菩薩因位時(法蔵菩薩因位の時、)
在世自在王仏所(世自在王仏の所に在して、)
覩見諸仏浄土因(諸仏浄土の因、)
国土人天之善悪(国土・人天の善悪を覩見して、)
建立無上殊勝願(無上殊勝の願を建立し、)
超発希有大弘誓(希有の大弘誓を超発せり、)
五劫思惟之摂受(五劫に之を思惟して摂受す)

『正信偈』冒頭に、
「帰命無量寿仏如来 南無不可思議光」
「親鸞、弥陀に救われたぞ、弥陀に助けられたぞ」
と高らかに叫ばれている聖人に、
「どうすれば親鸞さまと同じく、
弥陀の救いに遇えるのですか」
とお尋ねすると、

「仏法は聴聞に極まる」
“聞く一つで救われるのだ”
と教示されています。
「では、何を、どのように聞けばよいのですか」
と問う私たちに、聖人は、

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて
疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり
             (教行信証信巻)

「仏願の生起・本末」を、
「疑心有ること無し」と「聞く」のだ、
と明言されています。

「仏願」とは、本師本仏の阿弥陀仏が
建立されたご本願のこと。
「本願」とは「誓願」ともいわれ、「約束」のことですから、
「仏願の生起本末」とは、
「阿弥陀仏は、どんな者のために、
どのようなお約束をされているのか。
それを果たすために、どのようなご苦労をなされ、
結果はどうなったのか。
その初めから終わりまですべて」
ということです。

「物に本末あり、事に始終あり」といわれます。
物事には、始めがあって、終わりがある。
その一部始終を聞いて初めて、
正しく理解することができるのです。
始めだけ、終わりだけ、あるいは途中だけ聞いたのでは、
真意を知り損ねてしまうでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・
中秋の名月、4、5人の町の俳人たちが、
発句の会を開いていた。
そこへ一人の旅人が通りかかったので、
“これこれ旅の衆、今宵は名月、
月見の題で発句の会を開いているんだが、
そなたも一句詠んでみなさらんか”
と呼びかける。

快く応じて旅の男は、
“三日月の”と上の五文字を書くと、
“これこれ旅の人、今宵はあのとおり中秋の満月ですぞ。
三日月とは寝とぼけていられるのではござらんか”
と、腹を抱えて一同が笑う。

だが次に、男が黙ってしたためた、
“頃より待ちし、今宵かな”
の名句に一同あっと驚く。
最後に小さく芭蕉と書き入れたのを見て
みんな深く恥じ入り、
心から前非(ぜんぴ)を謝したという。

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・・・・・・・・・・・・・・・
俳句のことなら恥をかくだけでしょうが、
阿弥陀仏の本願を聞き誤ったならば、
未来永劫、取り返しのつかない一大事。

だから親鸞聖人は、その「仏願の生起本末」を、
次に、

法蔵菩薩因位時(法蔵菩薩因位の時、)
在世自在王仏所(世自在王仏の所に在して、)
覩見諸仏浄土因(諸仏浄土の因、)
国土人天之善悪(国土・人天の善悪を覩見して、)
建立無上殊勝願(無上殊勝の願を建立し、)
超発希有大弘誓(希有の大弘誓を超発せり、)
五劫思惟之摂受(五劫に之を思惟して摂受す)

と、懇切に教えておられるのです。

無論これは聖人の独創ではなく、
お釈迦さまが『大無量寿経』に説かれていることです。

大略を分かりやすい現代の表現で述べてみましょう。

仏願はどのように起こされたのか

「今を去ること量り知れぬ久遠の昔に、
世自在王仏という仏さまがましました。
時に一人の国王であって、
世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、
なんとかして苦悩の十方衆生(すべての人)を救いたい、
の願いを起こし、国も王位もなげうっての出家の身となり、
法蔵と名乗られた。

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(このことを親鸞聖人は『正信偈』に、
「法蔵菩薩因位時(法蔵菩薩因位の時、)
在世自在王仏所(世自在王仏の所に在して、)」
とおっしゃっています。

「因の位」とは、「果の位」である仏覚を求めて、
努力精進の因(たね)まきをしている、菩薩の位のこと

才知秀れ志願堅く、はるかに常人を超えていた、
その法蔵菩薩が、世自在王仏のみ元に至り、
地にひざまずき、恭しく(うやうやしく)合掌礼拝して、
『師の仏よ、苦しみ悩むすべての人を見ていると、
私はじっとしておれません。
どうか私に、助けさせてください』

『法蔵、そなたの気持ちは尊いが、あの者らは煩悩にまみれ、
あまりにも罪が深く、大宇宙のすべての仏方が、
とても助けることはできないと見捨てた極悪人なのだよ。
それを知ってのことか』
『それはよーく存じております。
だからこそ、私に助けさせていただきたいのです。
どうぞ、私の為に広く教えをお説きくださいませ。
私は、それによって修行して、最もすぐれた浄土を荘厳し、
迷いの衆生の悩みの元を除きたいのです』
と申されると、世自在王仏は、法蔵の願いが実に尊く、
並々ならぬものであると見そなわして、
『法蔵よ。大海の水を枡で汲み取り、
幾劫とも知れぬながい間それを続け、
ついには底まで汲み干して、
海底の珍しい宝を手に入れることができようか。
罪悪深重・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の
すべての人を助けることは、それよりも難しいことなのだ。
そなたは、それでもやろうとするのか』

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『私が諦めたら、全人類はこの世も未来も、
苦から苦の綱渡り、永劫の苦患に沈まねばなりません。
なんとしても助けさせていただきたいのです』
法蔵菩薩の固い決意に、世自在王仏はようやく、
『真心込めて、一心不乱に道を求めてやまないなら、
必ずその目的を果たし遂げ、
いかなる願いでも成就せぬことはないであろう』
と仰せられ、広く二百十一億の諸仏の浄土の優劣と、
そこに住んでいる人々の善悪を説き、
法蔵菩薩の望みどおり、
それらのすべて目の当たりにお見せになったのである。
法蔵菩薩は、それを親しく拝見して、
この上もなく秀れた願いを起こされた。
その心は極めて静かに、その志は少しの執着もなく、
世の中で、これに及ぶものがないという清らかな有り様で、
五劫の長い間、思惟を巡らして、
浄土を荘厳する清浄の行を選び取られたのである。

(かくて法蔵菩薩が、
二百十一億の諸仏の浄土の秀れたところと、
その清浄の行を選び取られたことを、
親鸞聖人は、
「覩見諸仏浄土因(諸仏浄土の因、)
国土人天之善悪(国土・人天の善悪を覩見して、)」
とおおせられています。

「覩見して」とは、「徹底的に調査して」ということ。
例えて言うと、家を新築しようとする時に、
色々の家を見て回り、全体の間取りや玄関、
台所やトイレの使い勝手はどうか、
などをよくよく調査するでしょう。
そして相応しく(ふさわしく)ないところは採用せず、
善いところは取り入れて、
最高の家を造ろうとするようなものです)

そこで法蔵菩薩は、世自在王仏に向かって、
『では師の仏よ、どうか、お聞きくださいませ、
これから私の願いをつぶさに申し述べましょう』
と言って、四十八願を述べられる。
そのうちの十八願を根本の誓願として、
限りなき長年月(永劫)にわたる修行を続け、
ついに十方衆生を絶対の幸福に救い摂る
妙薬・南無阿弥陀仏の六字の名号を成就され、
仏と成られた。

それが阿弥陀仏であって、その住せられる世界を極楽浄土という。
ここを去ること西方十万億の世界を過ぎた所にあり、
今もなお、その浄土にましまして説法していられる。
成仏せられてからおよそ十劫を経ている。
その浄土は善美を尽くし、
憂悲苦悩(ゆうひくのう)のけがれなき理想の国土である」
と述べられています。

●弥陀五劫の思惟は、だれのため?

このように、阿弥陀仏は、私たちすべてを救わんがために、
法蔵菩薩という因の位の姿となって、
五劫の間思惟し、無上の本願を建立せられたのです。

これを親鸞聖人は、『正信偈』に、
「建立無上殊勝願(無上殊勝の願を建立し、)
超発希有大弘誓(希有の大弘誓を超発せり、)
五劫思惟之摂受(五劫に之を思惟して摂受す)」
とおっしゃっています。
このような素晴らしい願いは、大宇宙に二つとありませんから、
「無上殊勝の願」と言われ、
「希有の大弘誓」と称讃されているのです。

では、このような長期間にわたって
思案せられねばならなかった法蔵菩薩のお目当ては、
どんな人なのでしょうか。


何のためにこの世に生まれてきたのか、
サッパリ分からず、ただ生きるために、毎日、
食て寝て起きての繰り返しで、やがて年老い、
体も動かなくなり、ああ、こんなものが人生なのかと嘆いている。
幸い仏法を聞く縁に恵まれても、
晴れたも曇ったも分からず、
「死にさえすれば極楽じゃろう」
他人事のように聞いているときは助かるような気がするが、
家へ帰れば元の木阿弥だから、
「こんな心ではなァ」と首をかしげて思案する。
「いやいや、こんな根性をそのまま助けるとおっしゃるのだから」
「どうせ凡夫だ。これくらいは許してもらえよう」
と独り決めしてみるけれども、
心の底から満足できない。
なぜ喜べないのだろうかと腹底をのぞいてみれば、
キョロン、トロン、ボーとした心しか見当たらない。
ただ食いたい飲みたい楽がしたい、
ねむたいの根性しか出てこない。
善いほうには尻込みするが、悪のほうへはダダ走りする根性、
「こんな奴が本当に助かることがあるのじゃろうか」
と聞けども聞けども分からない、分かったようでも分からない。
困ったようで困らず、
泣くほど困ってもいないが聞かずにいては気が済まない。
こんな奴がいるとは知らなんだ。
難治の三病(なんちのさんびょう)とはこのことか、
難化の三機(なんげのさんき)とはこの悪性かと、
打てど叩けど返事のしない、この悪性こそ、
法蔵菩薩の思惟をして五劫の長きにわたらせたのです。
何とかこの逆謗の屍を、
絶対の幸福に生き返らせねばならないぞ、
後生の一大事、必ず平生に助けてみせる、
それにはどうすれば、の法蔵菩薩の願心が、
ついに五劫の思惟となってあらわれたのであります。

法然上人は『選択本願念仏集』の中に、
法蔵菩薩は世自在王仏のみもとにあって諸仏の国土をみ、
その救済の方法をしらべたもうに、
或は布施を勧むるもの、
或は戒律を持たすむるもの、
或は禅定を勧むるもの、
或は智慧を勧むるもの、
或は持経すること、
或は寺塔を起立すること、
或は沙門に供養すること、
或は父母に孝養すること、
或は師長に奉持すること、
こうした色々の善根と
いろいろの功徳とを規定されてあるけれども、
かかる諸行が規定せらるる時は
到底すべての人々が救われることができない。
そこで一切の善悪の凡夫が、
受けとる一つで救われる名号を成就し、
これを廻向することを誓い、
この名号を受け取る者はすべて救われることを約束せられた

と、五劫思惟の有り様を詳しく述べられ、
お経を念誦せらるる時に、
いつもこの五劫思惟の文に感泣せられたという。

ある時お弟子がそれをいぶかしく思って尋ねてみると、
この愚痴の法然房・十悪の法然を助けんがために、
五劫の間思惟してくだされたと思えば、
弥陀のお慈悲の程が身に沁みて涙がこぼれる

と仰せられたといいます。

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親鸞聖人は『歎異抄』に、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり、
されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ

「弥陀が五劫という永い間、
熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、
よくよく思い知らされれば、
まったく親鸞一人(いちにん)を助けんがためだったのだ。
こんな量りしれぬ悪業を持った親鸞を、
助けんと奮い立ってくだされた本願の、
なんと有り難くかたじけないことなのか

と感泣なされ、

蓮如上人も『御一代記聞書』に、
思案の頂上と申すべきは、
弥陀如来の五劫思惟の本願に過ぎたることはなし。
この御思案の道理に同心せば仏になるべし

と讃嘆なされています。

このような話を聞いても、ご文を拝読しても、
始めはピンと来ず、誰のことかいな、何のことかいなと
荒唐無稽なおとぎ話のように思えるかもしれません。
しかし、この五劫の思惟が自己の体験を通して、
そのまま事実となって生きてこなければ、
阿弥陀仏のご苦労は水泡に帰するのです。

この「仏願の生起本末」に、
「疑心有ること無し」と晴れ渡るまで聞き抜けよ、
必ず晴れて絶対の幸福になれるぞ、
と親鸞聖人が訴えておられる、『正信偈』のお言葉です。


 


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