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阿弥陀仏に救われるとどれほどの喜びか! [南無阿弥陀仏]

 

(真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

普放無量無辺光(普く無量・無辺光)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王)
清浄歓喜智慧光(清浄・歓喜・智慧光)
不断難思無称光(不断・難思・無称光)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう)
一切群生蒙光照(一切の群生、光照を蒙る)

『正信偈』冒頭に親鸞聖人は、
帰命無量寿如来
南無不可思議光

「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
と、後生の一大事を解決され
絶対の幸福に救い摂られた大歓喜を、
叫び上げられています。

その喜びは余人の想像を絶するものがあります。
強いて例えれば、こうも言えるでしょうか。

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自分が死刑囚だとします。
宣告を受け独房に収監され、
執行日は今日か、明日かと
恐怖の日々を送っている私に、
「明日だ」と告げられる。
いよいよ13段の階段を上り、
黒い布を頭からかぶせられ、
首に縄をかけられて、
床が抜けようとしていた、まさにその時。
「その死刑待った!取りやめ!」
の一声で、執行を免れた。
それだけでなく、「その者に十億円を与えよ」
との命によって大金を受け取り、無罪放免、
自由の身になったとしたら、
その喜びはどれほどか。
「うれしいです」などという言葉では、
とても表すことができないでしょう。
何が何だか訳が分からず、
ただびっくり仰天するだけ、
に違いありません。
親鸞聖人が『正信偈』の始めに、
「弥陀に救われたぞ、助けられたぞ」
と叫んでおられる実体験は、
それどころではないのです。
100年や200年ぐらいではない永劫の苦患を逃れて、
100兆円や200兆円で買えない大宇宙の宝物を、
現在ただ今、丸もらいさ
せられた感激は、
心も言葉も絶え果てて、ただ泣くばかり。

広大難思の慶心
“広かったぞ!大きかったぞ!
想像を絶する驚天動地の慶びがあるぞ!”
と絶叫されて当然です。

かかる聖人の御心を知れば、弥陀の救いは決して、
「助かったのやら、助かっていないのやら、
分からん」
という曖昧模糊としたものでないことも、
お分かりになるでしょう。

「ではどうして親鸞、こんな身に
助けていただくことができたのか。
それは阿弥陀如来が大変なご苦労をなされて、
素晴らしいご本願を建ててくだされたからであったのだ

と感涙されているのが、次に、

法蔵菩薩因位時(法蔵菩薩因位の時)
在世自在王仏所(世自在王仏の所に在して)
覩見諸仏浄土因(諸仏浄土の因)
国土人天之善悪(国土・人天の善悪を覩見して)
建立無上殊勝願(無上殊勝の願を建立し、)
超発希有大弘誓(希有の大弘誓を超発せり、)
五劫思惟之摂受(五劫に之を思惟して摂受す。)
重誓名声聞十方(重ねて誓うらくは、「名声、十方に聞こえん」と。)

と続くお言葉です。
その中、「建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」
と仰っているのは、
無上殊勝の願」の「無上」とは、「この上がない」こと。
大宇宙に恒沙の諸仏ましませども、
本師本仏の阿弥陀如来しかできない、
殊に勝れた約束ですから「無上殊勝の願」と称讃され、

希有の大弘誓」とは、
「大宇宙に2つと無い、
すべての人と誓われた素晴らしいお約束」
ということ。
いずれも「弥陀の本願」のことです。
「弥陀が五劫の思惟をせられ、
“平生に、絶対の幸福に救い切る”
と、とてつもない願を発してくだされたなればこそ親鸞、
今、救い摂られることができたのだ」

と絶賛され、
「どうか早く皆さんも、弥陀のご本願、
聞き開いてくれよ、その他に助かる道は、
断じてないのだからね」

と、決死の聞法を勧めておられるのです。

●阿弥陀如来のお力

では、かかる「無上殊勝の願」「希有の大弘誓」
を建立された阿弥陀如来のお力とは、
一体どのようなものであるのか。

それを教えられたのが、次のお言葉です。

普放無量無辺光(普く無量・無辺光)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王)
清浄歓喜智慧光(清浄・歓喜・智慧光)
不断難思無称光(不断・難思・無称光)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう)
一切群生蒙光照(一切の群生、光照を蒙る)

これはお釈迦さまが『大無量寿経』というお経に
説かれていることを、親鸞聖人が『正信偈』にそのまま
記されているところです。

「普放」とは、「普く放っておられる」ということ。
「阿弥陀如来は、
○無量光
○無辺光
○無碍光
○無対光
○光炎王光
○清浄光
○歓喜光
○智慧光
○不断光
○難思光
○無称光
○超日月光
これら十二の光を放ち、
塵刹(大宇宙に無数にある地球のような世界)
を照らして、一切の群生(すべてのひと)を
救ってくだされるのだよ」
と仰っているのです。

「光」とは、仏教で仏さまのお力を表されます。
世間でも、「親の七光り」という言葉があるように、
「力」を「光」と表現されることがありますね。
子にさほど力がなくても、
親の力によって、社長になったり議員になったり、
タレントになったりするのを見ると、
「あれは親の七光りだ」などと言うでしょう。
親の体から七つの光が出ているわけではありません。
「力」を「光」と表すのです。

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お釈迦さまが、本師本仏の阿弥陀如来のお力を、
先に列記したように十二に分けて教えられているのが、
「十二光」です。

次回から、詳しく解説していきましょう。


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