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心で思ったことが運命を決定づけている! [因果の道理]

 (真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています)  

競争社会にもまれながら、
たくましく生き遂げる人、
転落の人生をたどる人。

その差はどこで生じるのでしょう。
実は、たった一つのボタンのかけ違いから
始まっているのかもしれません。

イヤなことが起きた時、
あなたは「幸せの選択」をしていますか。
それとも、「不幸の選択」を・・・。

「ボク」と弁護士の物語から、
お釈迦さまの説かれた
因果の道理」を学びましょう。

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■プロローグ
「共通の特徴」

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ボクがその弁護士に出会ったのは、
ある傷害事件がきっかけだった。
当時、仕事も恋愛もうまくいかず、
やけを起こしたボクは、
若い店員の態度にカッとなり、
突き飛ばして大ケガを負わせたのだった。
相手はだれでもよかった。
ただ世間を恨み、のろっていた。
本当はボクが苦しんでいることを、
だれかに分かってもらいたかったのかもしれない。
ひとしきり事情を聞き終えた彼女は
説教するふうでもなく、こんな話をしてくれた。

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「例えば事業で借金を抱えた時、
立ち直る人と立ち直れない人には、
共通の特徴があるの。
立ち直れないのは、
『国が悪い、法律が悪い、景気のせいだ』
と不満をぶちまけるだけの人が多い。
でも立ち直る人は、そういった状況を認めながら、
では自分にできることは何か、
と次の一手を打ち始めるんです」
「ふーん・・・。
他人や世の中のせいにしないってことですか」
小さくうなずいて彼女は続けた。
「他人のせいにする。
イヤなことが起きた時、だれもが陥る思考ね。
でもその一歩が、運命の方向を決定づけるのよ。
自分でも気づかぬ最初の一歩。
けれど一度踏み出したら容易には抜け出せない、
不幸の選択を・・・。
もっとも、私もあんまり偉そうなことは言えないけど、ね」
そう言って彼女は優しくほほえんだ。
「不幸の選択?
じゃあ、そこで別の選択をしたら・・・」
「そう。運命は決して偶然に
決まるわけじゃないんです。
お釈迦さまの説かれた
『因果の道理』って知っているかしら」
ボクは首を横に振った。

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あなたが最も知りたくて、最も分からないもの、
それは「運命のしくみ」ではないでしょうか。

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一本早い電車に乗って事故に遭うこともあれば、
わずか数秒乗り遅れて命拾いすることもある。
地震で家の下敷きになる人もあれば、
慌てて飛び出し、車にはねられる人もある。
「運命のいたずら」といわれますが、
人間の運命ほど不可解なものはありません。

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どうすれば幸福な運命が得られるのか。
不幸や災いは、どうして起きるのか。
その法則を明らかにされたのが、
お釈迦さまの説かれた「因果の道理」なんです。

■因と縁が和合して果を生じさせる

「因果」とは、原因と結果ということ。
どんな小さな結果にも、必ず原因がある。
原因なしに起きる結果は、
万に一つ、億に一つも絶対にない

これはいつの時代、
いかなる場所でも変わらぬ真理であると、
お釈迦さまは教えられています。

だから何の原因もなしに結果が生じるという意味の
「偶然」や「奇跡」を仏教は認めません。

すべて必然であり、一つとして例外はないのです。
当たり前のようですが、ここは大切なところなので、
忘れないでください。
そこで、もっと詳しく、
結果の生じる仕組みを聞いてみましょう。

因果の道理は、
正確には「因縁果の道理」といわれます。

原因なしに起きる結果は絶対ありませんが、
因だけでは結果は生じません。
因に縁が結びついて、初めて結果が現れると
お釈迦さまは説かれています。


お米を例に考えてみましょう。
米はモミ種から作られますから、
米の因はモミ種です。
しかし、いくらモミ種があっても、
畳の上にまいていては何十年待っても、
米という結果は得られませんね。
土や温度、水や空気など、
いろいろな条件がそろって初めて、
お米が取れます。
仏教では、これらのものを縁といいます。

すべてのことは、因と縁が和合して、
初めて結果が現れる。

これを「因縁果の道理」といい、
「因果の道理」は縁を因に含んだ言い方なのです。

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■行為(業力)が運命をつくる

因とは、私たちの行いのことです。
「行為が運命を生み出す」

これがお釈迦さまの明らかになされた真理です。
どうして、行いが運命を生み出すのでしょうか。
その仕組みは、こうです。
行為のことを仏教では「業」といいます。
私たちのやった行為は
目に見えない力・業力となって残り、
決してなくなりません。
その不滅の業力はすべて、
私の本当の心に蓄えられる。
そして縁と結びついた時、
目に見える結果(幸・不幸)となって現れるのです。

パソコンには容量に限度がありますが、
私たちの本当の心には容量は限界がありません。

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そこに、毎日造り続けている数え切れないほどの業力が
蓄えられているのです。

この本心は、遠い過去からはるかな未来へと
流れていく不滅の生命です。
80年か100年で滅びる肉体は、
永遠の生命の流れから見れば、
滔々と流れる大河の水面にポツンと生じ、
パッと消え去る泡のようなものにすぎません。

この不滅の生命に蓄えられた業力が、
縁と結びつき、私のさまざまな運命を生み出すことを、
仏の智慧によって明らかにされたのが、
お釈迦さまです。

あなたの運命は、あなた自身の行い(業力)が
生み出したものであり、
ほかのだれが与えたものでもないのです。

■行為に三つある。
中でも重いのが「心で思うこと」

一口に「行い」といっても、
仏教では三つあると教えられます。
「身、口、意の三業」といいます。
身業とは身体でやる行い。
口業とは口で話すこと。
普通「行い」と聞いて思い浮かべるのはこの二つですね。
ところが仏教ではもう一つ、意業を教えられています。
意業とは、心でいろいろ思うこと。
これも行いであるとお釈迦さまは説かれています。
例えば、外面には出さなくても深い悩み事で
体調を崩したり、好悪の感情が相手に
伝わったりすることがあるでしょう。
「思う」ことには「力」があるのです。
しかも
仏法で最も重視するのは、
身体や口の行いよりも心の行いです。

なぜでしょうか。

心で思ったことを身体で行い、口が言う。
心はあらゆる行為の元だからです。
火事に例えれば、心が火の元であり、
口や身体は火の粉。
口や身体は心の奴隷であり、
責任は心にこそあるからです。

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心で日々思っていることこそ、
私たちの運命を大きく左右していると
知らねばなりません。

お釈迦さまは、業力は大象100頭に勝ると教えられ、
何ものもあらがえなぬ強い力だと言われました。

親鸞聖人が尊敬されている中国の善導大師という方は、
自己の「心」を凝視され、こうおっしゃっています。

一人一日のうちに八億四千の憶いあり

一日に八億四千回心が変わり、
いろいろなことを思っている。
それらすべて目に見えない業力となって、
あなたの本心におさまり、ぐいぐい、ぐいぐいと、
あなたの運命を生み出しているのです。

毎日心で何を思っているかを克明に振り返ることが、
この先の運命を知る大事な手がかりといえるでしょう。

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■イヤなことが起きた時、
他人のせいにする人はますます苦しむ

因と果について、お釈迦さまは、
善因善果
 悪因悪果
 自因自果

よい行いは、よい結果(幸せ)を、
悪い行いは、悪い結果(不幸や災難)を生み出す。
よいのも悪いのも、自分に現れる結果のすべては、
自分の行いが生み出したものである

と教えられます。
私たちは、よい結果がきた時は
「善因善果、自因自果」と素直に認められます。
では悪い結果がきた時はどうでしょう。
他因自果のように思うのは縁を恨んでいるのです。

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最初にお話した「因縁果の道理」を思い出してください。
「オレが苦しんでいるのは、あいつのせいだ」
「社会が悪い」「世間が悪い」と恨んでいる
「他人」や「世間」は全部、縁です。

もちろん悪縁を避け、改善する努力は大切ですが、
運命はあくまでも、私の行為(業力)が因となって
生み出されることを忘れてはいけません。

そうやって他人を恨み、のろっている心も
業力となってあなたの本心におさまり、

それが口や身体の行いとなれば、
その業は善いタネでしょうか。
悪いタネでしょうか。

「秋葉原で人を殺します」
6月8日、東京・秋葉原の歩行者天国で、
無差別に17人を殺傷する史上最悪の
通り魔事件を起こした犯人は、
犯行に至る心の道程をつぶさに
携帯サイトにつづっていました。
(平成20年のとどろきより載せています)
家庭環境、雇用不安、格差社会、希薄な人間関係。
さまざまに原因は論じられますが、
未曾有の凶行まで彼を引きずり込んだのは、
彼自身のつくった業力に違いありません。
苦しみを他人のせいにする。
自分でも気づかぬ最初のその一歩が、
運命の方向を決めるものです。
しかも一度踏み出したら容易には抜け出せません。

男は自分の否定的な感情や不満を、
何千と携帯サイトに書きつづり、
慰めを求めました。

ところが結果は逆。
ほとんどが無視か挑発で、心の傷口を広げ、
さらに吐いた言葉が自分を縛る。

ネットが悪縁となり、ますます孤独を深めた
彼の思考と行動はエスカレートし、
最後とんでもないところまで行き着きます。

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「惑業苦(わくごっく)」という言葉を知っていますか。
「惑い」が「業」(悪い行い)を生み、
「業」が「苦しみ」を生む。
その「苦しみ」がまた「惑い」を生み、
さらに悪の「業」を造る。
このような輪をぐるぐる回って
地獄まで堕ちていくことを
仏教で「惑業苦」と言うんです。

無差別事件に及んだ若者も、
まさに惑業苦で苦しみが増幅され、
制御不能になっていったのではないでしょうか。

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●イヤなことが起きた時、
自分を反省し行いを変える人は幸せになる

反対に、苦しみがやってきた時、
過去の己のタネまきを反省し、
行いを変える人は必ず未来が開けてくるでしょう。

言うまでもなくそれは「自虐主義」とは違います。
「全部オレが悪いんだ。オレはダメな人間だ」
と自分を責め、落ち込むことではありません。
悪いタネまきをやめ、よいタネをまいていく。
向上に努力する。
身口意の三業を前向きに転じていく。
それが自分の行いを反省し、
行いを変えるということです。

ある会社の研修では、毎日の日誌「感謝」
という二字を入れる決まりがあるそうです。
ほんのささいなことでも、毎日何かに感謝する人と、
だれかを恨み続ける人。
結果が同じはずはありません。
かりに秋葉原の犯人が、携帯サイトに毎日、
ちょっとでもいい、
前向きな言葉を書き込み続けていたら
どうなっていたでしょうか。

全く別の人生が開けていたのではないでしょうか。
あなた自身の三業、特に心の中の思いが、
あなた自身の運命を生み出しているのです。

幸せの選択をするか、不幸の選択をするか。
すべては、あなた自身にゆだねられていると
いってよいでしょう。

■エピローグ
「ありがとう」

その日から、ボクの人生は少しずつ変わっていった。
イヤなことが起きるたび、
ボクは自分の言動を振り返り、
どんな小さなことでも改善点を見つけていった。
努力することが楽しくなった。
あの時、ボクに因果の道理を教えてくれた彼女の心を、
後で人づてに聞いた。

「もちろん、失意の人を励まし、
法的に支援するのが私の大切な仕事よ。
でもね、『自分の行いが自分の運命を生み出す。
あなたの未来はあなた自身が切り開いていくんですよ

というメッセージは、
それ以上にその人を助けることになると
信じています」

ありがとう。
ボクは心の中で、何度も繰り返した。

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タグ:因果の道理
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