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阿弥陀仏の凄いお力 [阿弥陀仏]

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

普放無量無辺光(普く無量・無辺光、)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王、)
清浄歓喜知恵光(清浄・歓喜・智慧光、)
不断難思無称光(不断・難思・無称光、)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう。)
一切群生蒙光照(一切の群生、光照を蒙る)

「帰命無量寿仏如来(無量寿如来に、帰命いたしました)
 南無不可思議光(不可思議光に、南無いたしました)」
『正信偈』の冒頭は、
阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ。
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ。

という、聖人歓喜の絶叫です。
言葉は違いますが、
二行とも同じことを繰り返されているのは、
何度でも言わずにおれない、
どれだけ書いても書き足りない、
広大無辺な喜びを表されているのです。

この二行から、
弥陀の救いは、死後ではない。
 生きている現在ただ今である。

弥陀に救われたら、ハッキリする。
という、「弥陀の救い」の凄い特徴が明白になります。
言うまでもなく、
『正信偈』を書かれたのは「生きている時」であり、
また、ハッキリしないことを聖人が
何度も叫ばれるはずがないからです。

●凄い「弥陀の救い」とは

では、「阿弥陀如来に救われた」とは、
どうなったことを言われるのでしょうか。
一言で、「人生の目的が完成した」ことです。

人は何のために生まれてきたのか、
何のために生きているのか。
どんなに苦しくても、
なぜ自殺をしてはならないのでしょうか。
これが「人生の目的」です。

なぜ生きる。すべての人にとって、
これ以上大事なことはありません。

「生きる」とは、歩くことや走ること、泳ぐことや、
飛行機でいえば、飛ぶことといえましょう。

禅僧・一休は、
世の中の 娘が嫁と花咲いて 
嬶(かかあ)としぼんで 婆と散りゆく

と歌いました。
女性で一番良い時が、娘時代です。
だから娘という字は、女偏に良いと書きます。
娘が結婚して家に入ると、嫁になります。
嫁さんが子供を生むと、嬶といわれます。
「女は弱し、されど母は強し」といわれるように、
新婚当初はおしとやかでも、
お母さんになると鼻高くなりますので、
女偏に鼻と書きます。
また、一家の中心はお母さんだから、
顔の真ん中の「鼻」が使われるとか。
嬶の次にお婆さんになります。
額に波が寄ってくるので、女の上に波と書くのだそうです。
これが女性の一生ですが、男性も呼び名が違うだけで、
すべて同じコースをたどります。
何十億の人がいても、例外はありません。
いつまでも娘ではおれませんし、
お婆さんが娘に戻ることはできません。
「この間まで自分は娘だと思っていたが、
もう息子が嫁をもらって孫ができた。
いやぁ月日のたつのは早いなぁ」
と言っているように、女は、娘から嫁、
嫁から嬶、嬶からお婆さんへと、どんどん歩き、走り、泳ぎ、
飛んでいくのです。
一休が「婆と散りゆく」と言っているのは、
そうしてみんな死んでいくからです。
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だから、また一休は、
門松は 冥土の旅の 一里塚
とも歌っています。
「冥土」とは「死後の世界」のことです。
一日生きたということは、
一日死に近づいたということ
ですから、
生きるということは、
死へ向かっての行進であり、

「冥土への旅」なのです。
年が明けると、みんな「おめでとう」
「おめでとう」と言います。
しかし一年たったということは、
それだけ大きく死に近づいた、
ということですから、
元旦は冥土の旅の一里塚なのです。

ついこの間、年が明けたばかりと思っていたのに、
バタバタしているうちにもう年末、すぐに元旦。
(11月号のとどろきです)
ホントに早いものですね。
こんな調子で十年、二十年と、
あっという間に人生は過ぎ去っていくのです。

私たちが去年から今年、今年から来年へと生きる、
ということは歩くことであり、走ることであり、
泳ぐことであり、飛行機なら飛んでいることに
例えられるのも、お分かりになるでしょう。
だれでも歩く時も走る時も、
一番大事なのは、目的地です。
目的地なしに歩いたら、
歩き倒れあるのみだからです。
ゴールなしに走り続けるランナーは、
走り倒れあるのみです。

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行く先を知らずに飛んでいる飛行機は、
墜落の悲劇あるのみだからです。
あそこがゴールだ、とハッキリしていてこそ、
頑張って走ることができます。
あの島まで泳ごう、と目的地に泳ぎ着いて初めて、
ここまで泳いできてよかったと、
一生懸命泳いできた満足があるのです。
では、私たちの生きる目的は、何でしょうか。
目的なしに生きるのは、
死ぬために生きるようなものです。

死を待つだけの人生は、
苦しむだけの一生に終わります。

私たちは決して、苦しむために
生まれてきたのではありません。
生きているのでもありません。
本当の人生の目的を知り、それを完成し、
「人間に生まれてよかった、
この身になるための人生だったのか」
と、生命の大歓喜を味わうために
生きているのです。


では、真の「人生の目的」とは何か。
『歎異抄』には
「摂取不捨の利益」(第一章)を獲ることであり、
「無碍の一道」(第七章)へ出ることだと、
明言されています。

「摂取不捨の利益」も「無碍の一道」も、
今日の言葉で言えば「絶対の幸福」のこと。

絶対に壊れない、崩れない、
変わらない無上の幸せです。
この「人生の目的」を全人類に知らせ、
達成させてみせる、
と誓われているのが「阿弥陀如来の本願」であり、
その誓い通りに「人生の目的が成就した」ことを、
「弥陀に救われた」
と親鸞聖人は言われているのです。

29歳の御時、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
“阿弥陀如来に救われたぞ、助けられたぞ!”
と「人生の目的」を完成された聖人は、
「この広大な弥陀のご恩、
なんとしても報いずにおれない」

と悲泣しつつ、九十年の生涯、
「弥陀の救い」ひとつを全身全霊、
伝えていかれました。

この無上の尊法が、「浄土真宗」です。
すべての人が最も知りたい「人生の目的」を、
鮮明にしてくだされた方が親鸞聖人ですから、
“世界の光”と仰がれて当然でしょう。

●底なしの弥陀のお力・・・無量光

では、平生の一念に「人生の目的」を果たさせる、
阿弥陀如来のお力とは、いかなるものなのか。
それについて聖人は、
「極悪最下の親鸞が、
極善無上の幸福に救われたのは、
本師本仏の阿弥陀如来が、
こんなに凄いお力のある仏さまだからなのだ。
お釈迦さまが『大無量寿経』に
説かれているとおりであった」

と、阿弥陀如来のお力を
十二に分けて教えられたのが「十二光」です。

今回は、初めの「無量光」について、お話しましょう。

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「無量光」とは、「量ることのできないお力」ということ。
阿弥陀如来のお力は、無限であることをいわれたものです。

「こんな悪いことをした者は助けられない」
という“限界”がない、底無しということです。
「十方諸仏」の力には、限りがあります。

十方諸仏とは、大宇宙(十方)に数え切れないほど
沢山まします仏方のこと。

大日如来も、薬師如来も、ビルシャナ如来も、
地球に現れられたお釈迦さまも、
その中の一仏です。

それら十方諸仏の力には、
「こういう悪までなら助けることができるが、
これ以上重い悪を犯した者は助けられない」
という境界線があります。

ですから「無量」ではありません。
お釈迦さまが、
「大宇宙の仏方には、お前たちを助ける力がなくて、
見捨てられたのだよ」と説かれているのは、
私たちの造る悪が、
諸仏の力の限界を超えているからです。

ところが、本師本仏の阿弥陀如来の
お力にだけは、限界がない。

「5人殺した者までは助けるが、
10人殺した者は助けられない」
というような差別がありません。
どんな極悪人をも救う弥陀の量り知れないお力を、
釈迦は「無量光」と絶賛され
、親鸞聖人は

“その通りであった”と知らされて、
『正信偈』に記されているのです。
『ご和讃』には、こうも説かれています。

願力無窮(がんりきむきゅう)にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず

      (正像末和讃)

「阿弥陀仏のお力は、どんな極悪人をも
救い切ることができるのだ」
といわれたお言葉です。

●人のすべては、極悪人

ここで「極悪人」と聞くと、
文字からいえば「極めて悪い人」ということだから、
こんなふうに思う人もあるかもしれません。

「世の中には、確かに酷い人間がいるなぁ。
法の網をすり抜けて、ドカ儲けする奴。
次々と詐欺商法を生み出しては、
お年寄りをダマす者。
イヤそれより恐ろしいのは、
“人を殺したい、誰でもいい”
と繁華街で白昼、包丁を振り回す凶悪犯だ。
“極悪人”とは、そんな人間のことだろう」
私たちは常に、常識や法律、
倫理・道徳を頭に据えて、
「善人」「悪人」を判断します。
これらの基準では、
「1人殺すよりも、10人殺した方がもっと悪い、
10人より20人の殺人犯はもっと悪い」
と、善悪は相対的なものです。
ほとんどの人が、
「自分を善人だとまでは言わないけど、
少なくともあいつよりマシだ」
などと、他人と比較して、
善悪の程度を自覚しているのではないでしょうか。
そして凶悪事件が起きると皆、
即席評論家になり、
正義の側に身を置いて、
「とんでもない奴だ」と悪事を裁くのです。

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ところが聖人の言われる「悪人」は、
犯罪者や世にいう悪人だけではありません。
極めて深く重い意味を持ち、
人間観を一変させます。

いずれの行も及び難き身なれば
とても地獄は一定すみかぞかし

         (歎異抄)

“どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、
地獄のほかに行き場がないのだ”
この告白は、ひとり聖人のみならず、
古今東西万人の、
偽らざる実相であることを繰り返されます。

一切の群生海、無始より已来、
乃至今日・今時に至るまで、
穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心無く、
虚仮諂偽にして真実の心無し

              (教行信証)

“すべての人間は、果てしなき昔から
今日・今時にいたるまで、
邪悪に汚染されて清浄の心はなく、
そらごと、たわごとのみで、
真実の心は、まったくない”
世の中に「善人」と「悪人」
二通りの人がいるのではない。
聖人の「悪人」とは全人類のことであり、
人間の代名詞なのです。
阿弥陀如来は、すべての人を
「永久に助かる縁なき極悪人」
と見抜かれた上で、
「我を信じよ、平生に、
必ず絶対の幸福に救い摂る」
と誓われているのです。

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし 
              (歎異抄)
どうにもならない縁が来たならば、親鸞、
どんな恐ろしいことでもするだろう。
人を10人殺す縁が来れば10人殺すだろう、
1000人殺す縁が来れば、
1000人殺すこともあるだろう。
かかる量り知れない深い業をもった極悪の親鸞が、
絶対の幸福に救われたのは、
弥陀のお力が「無量光」であったからなのだ。
だから救われない人は一人もいない。
「私のような悪人が助かるんだろうか。
この世で救われるのだろうか」
と疑っているのは、弥陀のお力は
無限であることを知らないからだ

早く弥陀のお力を「無量光」と
知らされるところまで進めよと、
親鸞聖人が訴えておられる『正信偈』のお言葉です。


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