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仏教で蓮の花が大切にされるのはなぜ? [人間の実相]

仏教で蓮華が
  大切にされるのはなぜ?

梅雨が明け、夏が匂い立ち始めるころ、
薄桃色の蓮華が、可憐に咲き乱れます。
蓮は、仏教と深い因縁のある花です。
法事や仏事で目にするさまざまな仏具に
描かれているのは、蓮の花ばかり。
阿弥陀仏の極楽浄土には、桜でも菊でもなく、
清浄な蓮の花が咲いていると経典に説かれ、
親鸞聖人も『正信偈』に極楽浄土のことを
「蓮華蔵世界」と書かれています。

・・・・・・・・・・・・・・

阿弥陀仏の極楽浄土の様子を、
お経にはこのように説かれています。

舎利弗、極楽国土には
七宝の池有り。
八功徳水其の中に充満せり、(乃至)
池の中には蓮華あり、大(おおき)さ車輪の如し。
青き色には青き光あり、
黄なる色には黄なる光あり、
赤き色には赤き光あり、
白き色には白き光ありて、
微妙香潔なり。

         (仏説阿弥陀経)

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●大切なのは体?心?

アカデミー賞を受賞した映画『おくりびと』
は、世界中の注目を集めました。
故人に死に化粧を施し、旅装束を着せ、
死者を次の世界へ送り出すという、
納棺師の仕事ぶりが描かれています。
映画の中で、一人の納棺師(佐々木)が、
ある民家で、まだ若い主婦の遺体を扱う、
こんな場面があります。

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死に化粧(しにげしょう)を始めると、
いつの間にか遺族たちが集まり、
もの珍しそうに佐々木の手元をのぞき込んでいる。
佐々木は丁寧な手つきで口紅のふたを開けて
スティックを回し、
色を失った遺体の唇に塗っていく。
ほおには紅が差され、
闘病生活でやつれ果てていた死者の顔は、
再び生気を吹き込まれたかのように、
艶を取り戻していく。
「ああ、いい顔になった」
「今にも起き上がりそうじゃ」
「あんた、すごいわ」
口々に感嘆の声を上げながら、
親族たちが思わず手を合わせる。
佐々木が仕事を終えて去ろうとした時、
それまで終始憮然としていた故人の夫が駆け寄り、
神妙に頭を下げた。
「あいつ(故人のこと)、
今まででいちばんきれいでした。
ほんとうにありがとうございました」

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死者の尊厳を守ろうと努める厳粛さと愛情が、
国境を超えて感銘を与えたのでしょう。
人は愛する人の死に出会うと、
手厚く遺体を葬ることで、
故人の幸福を願わずにおれません。
そうすることが、死者に対する礼儀だと、
多くの人は思います。
しかし、遺体を手厚く葬ることが、
本当に死者を幸せな世界へと
送り出すことになるのでしょうか。
考えてみれば、人の死は、
思い通りにはなりません。
病院や事故や災害で静かに
息を引き取る人ばかりではないでしょう。
不慮の事故や災害で、
無残に変わり果てた姿になる人もあり、
満足の行く形で送り出せないことも多々あります。
そんな人の死後の幸せはどうなるのでしょう。
仏教では、大切なのは、
肉体よりも心だと教えられます。
死後の行く先を決めるのは、
臨終の相(すがた)や遺体の有り様ではなく、
平生の心の有り様であり、
「蓮華のような信心=真実の信心」
を獲得しているか、どうか、なのです。
蓮如上人はそれを、

往生浄土の為には
ただ他力の信心(真実の信心)ひとつばかりなり
           (御文章)
とおっしゃっています。

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●蓮の華が示す、
正しい信心の五つの特徴

では、仏教で教えられる「蓮の花のような信心」
とはどのようなものなのでしょうか。
「信心」と聞くと、古くさい、とか、
特定の神や仏を信ずることだから自分とは関係ない、
と思う人が多いかもしれません。
しかし、私たちは何かを信じなければ
生きてはいけません。
なぜなら、信ずるとは、たよりにする、
あて力にするということだからです。
健康や、お金、家族などを信じ、
たよりとして、すべての人は生きています。
だから、「生きる」とは「信ずる」ことなのです。
何らかの信心を、
だれもが持って生きているのです。
親鸞聖人の教えられる「正しい信心」は、
本師本仏の阿弥陀仏から賜る信心なので、
「他力の信心」ともいわれます。
「他力」とは「弥陀から賜る」こと。
この他力の信心の特徴を、
蓮の花の持つ五つの特徴になぞらえて
教えられたのが、「蓮華の五徳」です。

①淤泥不染の徳(おでいふぜん)の徳
②一茎一花(いっけいいっか)の徳
③花果同時(かかどうじ)の徳
④一花多果(いっかたか)の徳
⑤中虚外直(ちゅうこげちょく)の徳

今回は初めの「淤泥不染の徳」
について説明いたします。

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●どんな人の心に
  信心の花は咲くか

「淤泥不染」の、淤泥(おでい)とは、どろどろの泥沼のこと。
蓮は、高原陸地には咲かず、泥沼にしか花を開きません。
しかもその花は泥の汚れに染まらず(不染)、
清浄な輝きを放つ、という特徴です。
淤泥に例えられたのは、悪人のこと。
高原陸地とは、善人を例えています。
正しい信心の華は、
善人の心中には開かず、悪人の心に、開くのです。
これは、本当の自分の姿をハッキリ知らされた人の心に、
蓮のような正しい信心が開くことを表しています。
仏教は、この本当の人間の姿を克明に教えられ、
「法鏡」ともいわれます。
法鏡とは真実の私の姿を映し出す鏡のことです。
仏教には、私たちの偽りのない
本当の姿が説かれている。
その教えのとおりの自分であったと
知らされた人の心に信心の花が咲くのです。
その私の姿を「淤泥=悪人」と示されています。

●悪人はだれ?
    ある布教使と校長の会話

「私は、そんなに悪いことしているとは
思えないが・・・」
こう思われる人もあるかもしれませんが、
次のようなエピソードを通して考えてみましょう。

・・・・・・・・・
ある有名な布教使が説法していた時のこと、
大の仏法嫌いであった村の小学校長が
参詣していた。
説法後、その校長がカンカンになって
抗議してきたのだ。
「あなたは先ほど、人間は皆悪人と
説法されましたが、まことに困ります。
そんなことを認めたら、教師も皆悪人ということになり、
教育が成り立たんではありませんか」
すると布教使は、やおら校長の下座に回り、
頭を畳にすりつけて言った。
「これはこれは、あなたのような方がお参りとは知らず、
とんでもないことを申し上げました。
何とぞご容赦ください」
高名な布教使の意外な反応に、
校長は薄気味悪くなって、
「まあまあ、あのような説教さえ、
してもらわねばよいのです」
早々に退散しようと玄関まで来ると、
ついてきた布教使が声をかけた。
「先生、ちょっとお待ちください。
先ほどあなたは、この世には善人もいれば
悪人もいると言いましたが、
先生ご自身は、善人でございますか。
それとも悪人でございますか」
何とも答えにくい質問である。
今更悪人とは言えないし、
さりとて、“私は善人”と答えるのも
はばかれる。
返答に窮していると、布教使がさらに尋ねる。
「では、あなたは学校でうそは善だと
教えられていますか。
悪だと教えておられますか」
「もちろん、うそは泥棒の始まり。
悪いことだと教えています」
「では校長先生は、これまでにうそは
つかれたことはありませんか」
だれにも身に覚えのあること。
校長はだまっている。
「では、喧嘩は?」
「悪に決まっています」
「では、校長先生は今までに喧嘩をなされたことは
一度もないのでしょうか」
夫婦ゲンカは日常茶飯事。重ねて布教使は問う。
「生き物を殺すことはいかがですか。
子供たちに善だと教えますか。悪だと教えますか」
「言うまでもありません」
「それならば、あなたは、一切生き物を殺しておられないのですか。
肉や魚、召し上がるでしょう」
「それは・・・」
力なく答える校長に布教使は、
うそも喧嘩も殺生も、皆、悪だと知りつつ、
毎日それを繰り返しているのが私たちではありませんか
日常、何とも思わずに重ねている悪を一つ一つ指摘されると、
どれもこれも身につまされることばかり。
さすがの校長もついには玄関に手を突き、
「よくよく考えてみると、皆私のことでした。
気づかぬところでどれだけの悪を造ってきたかしれません。
ご無礼をお許しください」
以来、校長は、熱心に仏法を聞くようになったという。

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・・・・・・・・・・・・・・・

何気ない日常を少し注意深く振り返ってさえ、
このように自己に気づかされます。
まして、微塵の悪も見逃されない仏さまの眼(まなこ)から
こらんになれば、すべての人間はどんな姿をしているものか。
お釈迦さまはこうおっしゃっています。

心常念悪(心常に悪を念じ)
口常言悪(口常に悪を言い)
身常行悪(身常に悪を行じ)
曽無一善(かつて一善もなし)
         (大無量寿経
ここで釈尊は、私たちの行いを心、口、身(からだ)の
三方面からごらんになっています。
これを身口意の三業といわれます。
中でも心を最も重視されています。
それは、心が口や身を動かす元だからです。
私たちのあらゆる言動は、心の命じたものなのです。
火事で言えば、心が火の元であり、
口や身に現れるのは火の粉です。
その火の元である心で、
私たちはどのような悪を造っているのでしょう。
お釈迦さまは、貪欲(欲)、愼恚(怒り)、愚痴(ねたみそねみ)
の三つと教えられています。
貪欲とはあればあるで欲しい、
なければないで欲しい欲しいと、
キリも際もなく広がっていく欲の心です。
今年4月、千葉の市長が、土木建築会社から現金約100万円を
受け取り、市発注の道路工事で便宜を図ったとして、
収賄容疑で逮捕されました。(平成21年のことです)
任期満了まであと78日のこと。
わずか100万円のために、3300万円の退職金をフイにし、
人生を棒に振っています。
また私たちは日々、欲のために人をだまし、
悲しませ、傷つけていないでしょうか。
自分を若く見せたいとタレントが年齢詐称したり、
経歴を偽って政治家が謝罪したり、
昨年、多く発覚した食品偽装も、
顧客の健康より儲け優先。
根っこには「自分さえよければ」
の恐ろしい欲の本性が横たわっているのです。

そんな底知れぬ貪欲を妨げられた時起きるのが愼恚(しんい)、
怒りの心です。
「怒」とは心の上に奴と書きます。
「あの奴が邪魔するからだ」「この奴さえいなければ」
と心の中で殺している怒りの激しさは火の如しです。
カッと怒った炎は他を焼き、自らも焼き、
親、兄弟、親友をも平気で蹴落とす恐ろしい心です。
「海苔の保管場所が気に食わない」
「名前を呼び捨てにされた」など、
ささいなきっかけで始まった怒りが、
実際の殺人となって、世を騒がせています。
愚痴は、因果の道理が分からぬ、恨みねたみの心。
他人の幸せをねたみ、人の不幸を喜ぶ悪魔のような心です。

静かに自己を振り返れば、
いずれも思い当たることばかりではないでしょうか。
私たちは、これら欲、怒り、愚痴の心で、
日々、数え切れないほどの悪を造り続けている、
とお釈迦さまは説かれています。
心がそうであれば、心に動かされている口や身も
悪に汚染されています。
過去から今日まで、一つのまことの善もできないのが
私たちなのだ、と仏さまは教えられ、
それを泥沼に例えられています。
阿弥陀仏のお力によって、
このような自己の姿に微塵の疑いもなくなった人の心に開くのが、
蓮の花のような信心なのです。

では、高原陸地に例えた「善人」とは、
どんな人なのでしょうか。
自己の実態が分からず、
「その気になれば善ができる」
「あの人と比べれば私のほうがましだろう」
「悪いことはするけど、反省する心ぐらいはあるわい」
と、うぬぼれている人のことをいわれているのです。

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●何ものにも染まらぬ信花

弥陀より賜る信心は淤泥に「染まらない」とは、
蓮華は泥中にありながら、
その泥に汚されることなく美しく咲いています。
また、泥沼は泥沼のままで、
透き通った泉に変わることはありません。
これは、正しい信心を獲ても、欲や怒り、
ねたみ、そねみの心は全く変わらないことを表しています。
これら私たちを煩わせ悩ませる「煩悩」は、
死ぬまでなくなりもしなければ減りもしません。
しかし、阿弥陀如来に救い摂られ、正しい信心を獲得すれば、
いつでもどこでも煩悩いっぱいが、
幸せいっぱいとなる。
これを「煩悩即菩提」といいます。
苦悩がそのまま歓喜となる不思議さを、
親鸞聖人は次のように氷と水に例えて、説かれています。

罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし
       (高僧和讃

弥陀に救われ、蓮華のような信心を獲得すると、
欲や怒りの煩悩(罪障)の氷が解けて、
幸せよろこぶ菩提の水(功徳の体)となる。
大きな氷ほど、解けた水が多いように、
極悪最下の親鸞こそが、極善無上の幸せ者だ
シブ柿のシブがそのまま甘みになるように、
煩悩(苦しみ)一杯が功徳(幸せ)一杯となる、
強烈な確信に満ちた、聖人のお言葉です。

蓮のような正しい信心を獲れば、私たちも皆、
親鸞聖人と同じ喜びの世界に出させていただき、
死ねば必ず、極楽浄土に生まれさせていただける身となる。
無限に楽しい明るい人生を送ることができるのです。

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