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親鸞聖人と「浦島太郎」 [罪悪深重]

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)

春も間近になりました。
もう3月、
「あれ、この前、年が明けたばかりなのに・・・」
と感じておられる人もいるでしょう。
「月間カレンダーが日めくりのようだ」
とつぶやく声も聞こえてきます。
それほど、あっという間に過ぎ去ってしまうのが
人生なのだと蓮如上人は、
「この世の始中終、幻のごとくなる一期なり」

(人の一生はまるで夢幻のごとく儚いものだ)
と仰っています。

そんな儚い人生を
私たちはどのように生きているのか。
その人間の本当の姿を描いているのが、
誰もが親しんできたおとぎ話「浦島太郎」です。
子供の話と侮るなかれ。

ここには、親鸞聖人のみ教えを学ぶ
私たちにとって大切なものが詰まっているのですから。

今回はその「浦島太郎」に学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
気づかなかった、
  浦島太郎の大矛盾

日本人なら誰でも、子供の頃に「浦島太郎」の話を
聞いてきたでしょう。

漁師の浦島太郎が、浜へ漁に出かけると、
一匹の亀が大勢の子供たちに虐待されている。
かわいそうに思った浦島太郎は、
再三再四、動物愛護を説くが、
子供たちは一向に聞き入れない。
そこで彼は亀を買い取り、海へ放してやった。
亀は幾度も礼を言い、海中に姿を消した。

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数日後、彼が舟を浮かべて漁をしていると、
先日助けた亀がポッカリ浮かんだ。
「ご恩返しに、今日はよい所へご案内いたしましょう」
と、龍宮上へ連れて行かれた浦島太郎は、
乙姫様に迎えられ、山海の珍味でもてなされ、
限りない楽しみを味わった。
故郷に帰った浦島太郎が、
乙姫様から贈られた玉手箱を開くと、
モクモクと白煙が立ち昇り、
たちまち白髪の老翁になっていまったという。

話を終えた父母や教師から、
「浦島太郎のような、慈悲深い、
生き物をかわいがる心優しい人になりましょう」
と教えられたものです。
確かに、一切の生き物に慈悲をかけ、
命を大切にする心は、
子供たちに伝えていきたいものです。
ところが、浦島太郎の言動には大きな矛盾があることに、
気づいているでしょうか。

一つの命を助けた
    “善人”の限界

子供たちに金を与えてまで、
一匹の亀を助けた浦島太郎ですが、
その肩に担がれていたのは、魚釣り竿。

彼は漁師なのです。
その釣り竿で彼はこれまで
何百何千の魚の命を奪ってきました。
もし浦島太郎が本当に一切の生命を愛する善人ならば、
まず真っ先にするべきことは、
己の釣り竿をたたき折ることでしょう。

これまで何百何千の殺生を平気でやりながら、
たまたま一つの命を助けたからといって、
いかにも慈悲深い善人だと思うのは、
あまりにも早計です。

では、彼はその魚釣り竿を
放棄することができるでしょうか。
釣り竿には彼の生活の全てがかかっています。
折ればたちまち生きていけなくなる。
ここに善人たらんとする浦島太郎の限界があるのです。

一つの命を助けることはできても、
幾万の命を奪わずしては生きていけない。
これは一人、浦島太郎だけのことではなく、
私たちすべての人間の実相とはいえないでしょうか。

●生きるためには仕方がない?

約800年前、関東でご布教なされていた親鸞聖人のお弟子の
「入西房」は、元は日野左衛門という名の猟師でした。

彼は初め、大の仏法嫌いでしたが、
親鸞聖人から真実の仏法をお聞きして大変わりしたのです。

その時の問答が、アニメショーン『世界の光・親鸞聖人』
第4巻に描かれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
親鸞聖人と出会い、「ただ今この世で絶対の幸福になれる」
という阿弥陀仏の救いを初めて知らされた日野左衛門。
だが、首を横に振って、自嘲ぎみにこうつぶやく。

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日野左衛門 「しかしなあ。殺生ばかりしている俺なんかどうせ、
                   縁なき衆生さ」

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親鸞聖人  「日野左衛門殿。あなたが殺生されるのは、
       肉を好んで食べる人が、いるからでござろう」
日野左衛門 「そうだが」
親鸞聖人  「たとえ自分が殺さずとも、肉を食べれば、
       同じ殺生罪と教えられているのが、仏法です

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殺生とは文字通り、生き物を殺すことです。
私たちは動物を食べるのを当たり前に思っていますが、
食べられる動物たちは決して、人間のための命とも、
当然の犠牲とも思っていないでしょう。
どんな生き物も死にたくないのは私たちと同じ。
船上の魚がピチピチはねるのも、
鶏が首を絞められバタバタもがくのも苦しいから、
死にたくないからです。

今話題の『進撃の巨人』(諌山創・作)というマンガには、
突如として現れ、圧倒的な力で
人間を捕らえて食い殺す巨人と、
人類との戦いが描かれています。

何とムゴイ、不条理な、
と思わず顔を背けたくなりますが、
目を転ずれば、動物の肉を喜んで食べている
自分の姿と重なるのです。

すべての人の
   例外ない種まき

仏教では「全ての生命は平等であり、
上下はない
」と教えられます。
「生きるためには仕方がない」
と人間の命だけを尊しとするのは、
人間の勝手な言い分であり、
殺生は恐ろしい罪に変わりはありません。

その殺生に「自殺」「他殺」「随喜同業」
の3通りある、と仏教では教えられます。


初めの「自殺」とは、自分で生き物を殺すこと。

自ら命を絶つという一般的な意味とは違います。
浦島太郎や日野左衛門が、食べるために魚や鳥、
獣を殺すのは、この自殺です。


次に「他殺」とは、他人に命じて殺させることをいいます。
自分で直接手にかけなくても、
自分で殺したのと同罪になると教えられているのです。


随喜同業」は、他人が殺生しているのを見て
楽しむ心があれば同罪ということ。

肉や魚の料理に舌鼓を打つのは、
「他殺」であり、「随喜同業」の罪を造っている姿です。

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この三つ、いずれも当てはまらないと
言える人はないでしょう。

“私は肉を食べません”と言う菜食主義の人も、
その野菜を作るために多くの虫を
駆除していることを承知しているでしょうか。

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たとえ生き物の肉を一切食べなかったとしても、
蚊に刺されれば思わずパチンとたたき潰す。
道を歩けば、どれほどの生物が
靴の下敷きになっていることでしょう。

いかに慎んでも、殺生と無関係な人はありません。
自覚しようと、いまいと、
すべての人が免れることのできない罪なのです。

「蜘蛛に生れ 網をかけねば
ならぬかな」    (俳人・高浜虚子)
蜘蛛が巣を張り、引っかかった獲物を捕らえる。
残虐だといわれることもあるけれど、
蜘蛛に生まれたからには、
そうして網をかけて餌を捕まえなければ
生きてはいけないのだ。

人間もまるで同じ。
おびただしい殺生をせずして生きられない、
深い業を持っているのです。

アニメ第4巻、親鸞聖人のご説法の続きをお聞きしましょう。

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親鸞聖人  「たとえ自分が殺さずとも、肉を食べれば、
       同じ殺生罪と教えられているのが、仏法です」
日野左衛門 「えっ?それじゃあみんな、殺生していることに
       なるじゃないか」
親鸞聖人  「いかにも。殺生せずしては、生きてゆけない。
       私たちの、どうにもならぬ、恐ろしい業なのです

日野左衛門 「そのとおりだ」
親鸞聖人  「すべての人が、どうにもならぬ極悪人だからこそ、
       阿弥陀如来は我を信じよ、必ず、救い摂ると
       誓っておられるのです

どうにもならぬ罪を抱える私たちを、
必ず救ってみせると誓われた阿弥陀如来とは、
どんな仏さまなのでしょう。

自己の罪悪に驚いた読者の手記に続いて、
後半で明らかにいたします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで体験手記をはさみます。


   殺生が生業(なりわい)の私
        救われる教えは? 
             富山県 西村 文男さん(71歳)

永年、調理師として勤めた新川さんは、
ある日、自己の姿に驚き、
仏法に救いを求められました。
どんなことがあったのか、聞いてみましょう。

私のこの手は40年間、調理師として
多くの生き物を殺してきた血染めの手です。
1日50匹以上、鯉を殺し、洗いを造る。
スッポンの首を切り、生き血をブドウ酒に入れ、
精力飲料として出す。
鰻は生きたまま引き裂く。
その他、客の注文に応じ、
多くの魚を殺すのが私の日課でした。
「西村のつくる料理はうまい」
そんな客の言葉は、料理人冥利に尽きます。
暴れる鯉に手こずる新米が歯がゆく、
「どけっ、俺がやる。よく見ておけ!」
ここは腕の見せ所、と得意絶頂の毎日でした。

                      血に染まった鬼

そんなある日、鯉料理200人分の注文を受けたのです。
外に設けた、にわか作りの流しで、
朝4時から100匹の鯉を次々と殺していきました。
向かいの山頂から朝日が私の周辺をまぶしく照らし、
何気なく窓に映るわが身の姿を見たとき、
そこには帽子から白長靴まで、
赤いペンキをかぶったように
血ダルマになった鬼が立っていました。
流しからあふれ出た鯉の血は、足下に広がり、
まさに血の池地獄さながら。
大きなポリバケツには、たった今切り落とした
鯉の頭がびっしり詰まり、
悲痛な叫び声を上げているかのように、
口をパクパク動かす。
「ああ、俺は何と残酷なことをやっていたのか!」

                            先輩の臨終

恐ろしさに包丁を投げだし、
手についた血を流さずにはおれませんでした。
夢か?
いや、恐る恐る見渡した地獄の光景は
紛れもない現実でした。
思わず目を閉じる私の脳裏に、
ガンに冒され
もがき苦しんで逝った先輩の顔が浮かびました。
「ワァ!魚が来る。魚が俺を突きにやってきた。
助けてくれ」
大声で泣き叫び、全身赤い傷で腫れ上がって、
息絶えました。
「俺にも必ず、臨終が来る」
そう気づいて、目の前が真っ暗になりました。
足元が崩れ落ちるショックを受け、
「もう二度とこんな仕事やらん」
と、職場から逃げ出したのです。
「母さん、助けて!」
気づけば、母の墓前で泣いていました。

       知らされた救いの道

恐怖におののく私に、父は、
「この本を読みなさい」
と一冊の仏教書を手に握らせてくれました。
貪るように私は読みました。
「この真実を知った者は、
二度とつまらぬ迷いに命をかけることはできない。
泣いても笑っても真実の道は一本きり。
ハッキリするまで求め抜くことだ」
と、その本に呼びかけられ、
私はいても立ってもおれず、
聞法会場を探して走りました。
そこで初めて親鸞聖人の教えを
聞かせていただいたのです。

火の車
造る大工は なけれども
己が造りて 己が乗りゆく

今まで造ってきた罪悪で火の車に乗せられ、
「地獄行き間違いなし」
の私を照らされました。
聞くほどに知らされるのは、
罪悪にまみれた血ダルマの私を、
一念で救い摂る無上仏(阿弥陀仏)のやるせなきお誓い。
今は亡き父と、因果応報を身をもって
教えてくれた先輩の死は、
私に仏縁を結ばせるご方便でした。
「一生造悪の者を、そのまま絶対の幸福に救う」
と誓われた無上仏の本願に信順したいと思うのです。

※一念とは、一秒より短い時間のきわまり

体験手記はここまで

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
悪にまみれた
  すべての人を
   必ず助けてみせる

「願力無窮(がんりきむきゅう)」に阿弥陀仏

悪の自覚もなく安穏(あんのん)に生きる
浦島太郎のような私たち。

その人間の実態を知らせ、
救わんとして説かれたのが真実の仏教です。

悪を造らねば
  生きてはいけない

浦島太郎は、魚釣り竿でおびただしい命を
奪っている自覚もなく、
一匹の亀を助けようと思いました。

同様に、恐ろしい自己の姿に気づかず、
善いことをしていると思って私たちは生きています。

しかし、西村さんのようにふと、
気づかされることがあります。
無邪気そうな子供が、サケの稚魚を放流し、
笑顔で手を振っている。
「大きくなって帰ってきてね」
やがて育って帰ってきたサケは、
釣り上げられ切り裂かれて
食卓を飾ります。
牛や豚に良質の餌を与え、
毛にブラシをかけてかわいがっていますが、
目的は殺して食べるためです。

生きた牛や豚や鶏を、自分の手で殺せる人は
どれだけあるでしょう。
屠殺場を見ても目を背けずにおれない。
まして手にかけて殺すなど、とても。

しかし私たちは毎日、そんな恐ろしいことを
誰かにやってもらって、肉を食べ、
殺生をし続けているのです。

「生命を頂いた分、一生懸命生きればよい」
と言われますが、どこへ向かって
一生懸命生きるのでしょうか。

蜘蛛が網をかけねば生きられぬように、
己の業界から抜け出せず、
罪悪を造らずしては生きられぬ
私たちの姿を親鸞聖人は、
このように仰っています。

悪性さらにやめがたし
心は蛇蝎のことくなり

悪のやまらない親鸞。心はヘビやサソリを
見た時のようにゾッとする恐ろしさだ


生きるために恐ろしいことや、
あさましいこともやらざるをえない。
何とも救われ難き身です。

そんなご自身の姿を
「一生造悪」(正信偈)
(一生悪を造り続けの親鸞だ)
とも仰っています。
そんな悪人と知り、悔い改める者なら殊勝ですが、
邪見憍慢(じゃけんきょうまん)の悪衆生」(正信偈)
で、うぬぼれて悪性のわが身を
正しく見ることができないのだ。

さりとて恐ろしい罪を犯している不安も払拭できず、
「生きるためには仕方がない」
と、言い訳せずにはおれない。
これが人間の限界なのです。

自覚なき極悪人を
  「われひとり助けん」

悪業をば恐れながらすなわち起し、
善根をばあらませども得ること能わざる凡夫なり

          (口伝鈔)
悪を恐れながら、悪しかできず、
善行をしようと思ってもできない人間である

息するままが悪の種まき、
地獄へ運ばれる悪性の身、
それを大宇宙最高の仏である、阿弥陀仏だけが
「われひとり助けん」
(私が必ず助けよう)
と立ち上がってくだされたと、
蓮如上人はこう仰っています。

十悪、五逆の罪人も、五障、三従の女人も、
空しく皆十方、三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。
然れば、爰に弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、
「われひとり助けん」といふ超世の大願を発して

            (御文章二帖目八通)
十悪五逆の罪人とは、すべての人のこと。
古今東西のすべての人間は、
皆罪人だと言われています。
しかも日々の楽しみに心を奪われ、
罪を重ねている自覚がない。

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魚釣り竿でこれまで計り知れぬ殺生を重ねながら、
一匹の亀を助け、善人とうぬぼれる浦島太郎のごとく、
罪と教えられても、本人は恐ろしいとも思わず、
人生をアッという間に流して
酔生夢死(すいせいむし)するのです。

これを「無慚無愧の極悪人」と、
親鸞聖人は言われています。
「無慚」とは、自分に恥ずる心のないこと、
「無愧」は他人に恥ずる心がないことです。

悪にマヒし切った私たちですから、
大宇宙の仏方は“助かる縁手掛かりなし”
と見捨てられたのだ、と蓮如上人は仰っています。
だが、“そんな者は、絶対に救われぬだろう”
と絶望することはない。
その極悪人を「必ず救う」とただ一仏、
誓われた方がましますと、

然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫をば
弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して、
已(すで)に阿弥陀仏と成りましましけり。
この如来を一筋にたのみたてまつらずば、
末代の凡夫、極楽に往生する道、二つも三つも、
有るべからざるものなり

           (御文章二帖目八通)
と仰っています。

その無限のお力を持たれた阿弥陀仏の救いを、
親鸞聖人はこう讃嘆されています。

願力無窮にましませば
罪悪深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず

阿弥陀仏のお力は絶大で底無しだから、
どんな罪の重い者も助けてくださるのだ

阿弥陀仏の願力によって「罪悪深重」「散乱放逸」
の私と知らされた人のみが、
「願力無窮」「仏智無辺」の偉大な弥陀のお力に
感泣せずにおれない。

この阿弥陀仏に助けていただくよりほかに、
極楽に往生する道は二つも三つもないのです。

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玉手箱はもう開いている

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では、どうすれば弥陀に救い摂られるのでしょうか。
蓮如上人は、
仏法は聴聞に極まる
と教えられます。
阿弥陀仏の本願は、聞く一つで救うお約束なのです。

ところが、
“そうは仰るけれど・・・聞くだけで助かるのかしら?”
“私など救われないのではないか、難しいのではないか”
と、弥陀の御心を聞かず、はねつけています。
そんな私たちに、凡夫の愚かな知恵で
モタモタ思案せず、
ひたすら光に向かって進めと、
「聞思して遅慮することなかれ」
と親鸞聖人は教示されています。

もう玉手箱から煙は立ち昇っています。
人生の終着駅に着く前に、弥陀の本願を聞き抜いて、
決して後悔なきようにと、聖人は全身全霊で、
真剣な聞法を勧められているのです。

“阿弥陀仏のお約束、誠だった”
と信知させられるまで聞法精進いたしましょう。

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