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弥勒お先ごめん! [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)
至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
            (親鸞聖人・正信偈)


前回は、「本願名号正定業」の
一行についてお話いたしました。
これは、
「本願の名号は正定の業なり」と読みます。
「本願」とは「阿弥陀仏の本願」、
「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のことです。
「正定」は「正定聚」の略で、
今日の言葉で言えば「絶対の幸福」のことですから、
本師本仏の阿弥陀仏が、本願に基づいて作られた
『南無阿弥陀仏』の名号には、
すべての人を絶対の幸福に救う働きがあるのだ

といわれている、親鸞聖人のお言葉です。

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例えて言うと、
「阿弥陀仏の本願」とは、苦悩の人生の海を
明るく楽しく渡す船の“設計図”であり、
「名号」は、その“設計図”どおりに造られた「大船」である、
ということです。

「名号」の働きについて、今回も学びましょう。

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正定聚(しょうじょうじゅ)とは

「正定聚」を、一言で「絶対の幸福」と言いましたが、
詳しく述べたいと思います。
「正定聚」とは、さとりの位をいうのです。
「さとり」といっても、低いさとりから高いさとりまで
全部で五十二の位があり、
これを仏教で「さとりの五十二位」といわれます。

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ちょうど相撲取りにも、下はフンドシ担ぎから
上は大関・横綱までいろいろな位があるようなものです。
五十二位のさとりには、それぞれ名前がついており、
中でも最高のさとりの位を
「仏覚」(仏のさとり)といわれるのです。

これ以上のさとりはないから、
「無上覚」ともいわれます。

さとりが一段違えば、人間と虫けらほどの
境涯の差があるといわれるのですから、
五十二段の仏覚が、
いかに崇高で想像も及ばぬ境地であるか、
お分かりになるでしょう。

その最高無上の仏覚まで到達された方のみを、
「仏」とか「仏さま」といわれるのであって、
死んだ人を「仏」というのは大変な間違いです。

今日まで、この仏覚を開かれ「仏」となられた方は、
地球上ではお釈迦さま以外にはありません。
これを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われます。

中国で天台宗を開いた天台も、
「九段目までしか覚れなかった」と
臨終に告白していますし、
また、壁に向かっ9年間(面壁九年)、
手足腐るまで修行し禅宗を開いた達磨大師でも、
三十段そこそこであったと言われます。

仏の覚りを開くことが、いかの大変なことかが
分かります。

「正定聚」とは、その仏に間違いなく(正しく)なれると
定まった人たちのことであり、
五十一段のさとりの位をいうのです。

絶対に崩れない位ですから、
「正定聚不退転」とも言われます。

「不退転」とは、後戻りしない、壊れない幸せ、
ということで、今日の言葉で「絶対の幸福」と言えましょう。

“必ず浄土へ往って仏になれる”大満足であり、
何ものも往生のさわりとならない「無碍の一道」(歎異抄)であり、
「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜なのです。

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阿弥陀仏が、兆載永劫のご苦労によって完成なされた
「南無阿弥陀仏」の六字には、
どんな極悪人も、この「正定聚不退」の絶対の幸福に
救い摂る働きがある
ことを、
親鸞聖人は『正信偈』に、
「本願の名号は正定の業なり」
と絶賛されているのです。

同じく『正信偈』に「功徳の大宝海」(功徳の大きな宝の海)
とも言われています。
多くの人が「これは宝だ」と大事にしているものは、
どんなものでしょうか。
代々伝わる壷とか掛け軸、土地や家財道具などでしょう。
中には鑑定士から何千万と評価された
「お宝」もあるかもしれません。
「国宝」に指定された仏像や建造物、
「世界遺産」登録の文化や自然を誰もが大切にするでしょう。

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しかし悲しいかな、これらの宝は、
どんなに厳重に管理し維持しようと努めても、
火事で焼けたり、洪水で流されたり、
盗まれたりする不安が絶えず、やがて必ず朽ち果てる、
一時的なものではないでしょうか。

「佐賀の会社役員、庭に埋めた3億6000万円盗まれる」
という見出しで、こんな記事がありました。

会社役員の80代の男性が、安全のために、
佐賀県にある自宅の庭に埋めていた
現金3億6000万円が盗まれていたことが明らかになった。
(中略)前年10月に盗難にあっていることに
気づいたという。
男性はその2ヶ月後に死亡している。(中略)
40年間にわたって、現金を容器に入れては
自宅の庭に埋めることを繰り返していたという。
男性は、銀行の金利が低いことから
手元に置いておく方がよいと考え、
さらに火事や地震の被害を避けるために
庭に埋めていたという。

なんともったいない、とも思いますが、
考えてみれば、たとえ盗まれなかったとしても、
後生へは一円も持っていけない。
この世の宝は、すべて置いていかねばなりません。

ところが、「南無阿弥陀仏」の宝は、
焼けもせず、流されも、盗まれもしない、
未来永遠の幸福にする、もの凄い働きがあるから、
親鸞聖人は「功徳の大宝海」と讃嘆されているのです。


蓮如上人も『御文章』に、
分かりやすく解説されています。

それ「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

「『南無阿弥陀仏』といえば、わずかに六字だから、
それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。
だが、この六字の中には、私たちを最高無上の
幸せにする絶大な働きがあるのだ。
その広くて大きなことは、
天の際限のないようなものである」

まことだった!ホントだった!

この不可称・不可説・不可思議の大功徳(南無阿弥陀仏)を、
親鸞聖人ご自身が一念で弥陀から丸もらいされて(仏智全領)、
「正定聚」の身に救い摂られた歓喜を、
『教行信証』にこう告白されています。

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮めるが故に、
龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大般涅槃を超証す

初めに「真に知んぬ」と言われているのは、
「親鸞、ハッキリ知らされた」という確信です。
「たぶんこうだろう」という曖昧な憶測でもなければ、
「私はこう思う」などという想像でもありません。
体験して知らされたことを、
「まことであった、本当であった」
と高らかに叫ばれているのが、
聖人の「真知(真に知んぬ)」です。
「あまりにも明らかに知らされた」驚嘆の叫びなのです。
では、どんなことが「ハッキリ知らされた」と
おっしゃっているのでしょうか。
「弥勒大士」とは、有名な弥勒菩薩のこと。
「菩薩」とは、仏のさとりに向かって修行中の人のことです。
いろいろな位の菩薩がある中で、
弥勒菩薩は、仏のさとりにもっとも近い等覚(51段のさとり)
を開いていること
を、
「弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに」
と言われています。
あの面壁九年の達磨でも、30段そこそこであったのですから、
51段のさとりを開いている弥勒が、
いかに勝れた菩薩であるか、お分かりになるでしょう。
その等覚の弥勒菩薩は、
「龍華三会の暁、当に無上覚位をきわむべし」
“56億7000万年後に、仏のさとりを開く”

と聖人が言われているのは、
お釈迦さまがお経の中に、
「この釈迦の次に、地球上で仏のさとりを開くのは弥勒である。
それは、56億7000万年後のことである」
と説かれているからです。

その弥勒菩薩と比較して、
「念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、
臨終一念の夕(ゆうべ)、大般涅槃を超証す」
と宣言されています。

「念仏の衆生」とは、阿弥陀仏に救われた人のことであり、
聖人自らのことです。

「横超の金剛心」とは、「正定聚」のこと。
絶対壊れない幸福ですから、金剛心
(ダイヤモンドのように硬い、不変の信心)
と言われています。
あの弥勒菩薩は、気の遠くなるような
長期間の自力修行によって、
さとりの位を一段一段上り、
ようやく51段まで到達したけれども、
「念仏の衆生」の親鸞は、
「南無阿弥陀仏」の働きによって、
一念で51段を高飛びさせられ
「正定聚」の身に救い摂られたのだ

という大自覚を、
「横超の金剛心をきわむるがゆえに」
と告白され、
「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
“一息切れると同時に、
阿弥陀仏と同じ仏のさとりを開くことができるのだ”
と明言されているのです。

本当にそうだったなぁ!
あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
まったく弥陀の名号不思議によってのほかはない。
しかもだ。
弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりを得られぬというのに、親鸞は、
今生終わると同時に浄土へ往って、
仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか

この世から未来永遠に救い摂る、
名号六字の働きを真知させられた聖人の、
大慶喜なのです。

救われたらハッキリする

ここで親鸞聖人の言われている「真知(真に知んぬ)と、
一般に使われる「信じる」との違いについて、
よく知っていただきたいと思います。

実は、「信じる」のは「疑い」があるからです。
「ん?そりゃどういうことだ。
『信じる』とは、『疑っていない』ことだろう」
と、常識的には思われるでしょう。

ですが、ちょっと考えてみれば分かるように、
疑う余地の全くないことなら、
「信じる」必要はありませんし、
「信じている」とも言いません。
「知っている」といいます。

例えば、ひどい火傷をしたことのある人なら、
火は熱いものだと「知っている」というでしょう。
火は熱いと「信じている」とは言いません。
そのように言う人は、まだ火に触ったことがなく、
想像や憶測で語っている人です。
「あなたの永遠の愛を、信じているわ」
「あの子はまだどこかで生きてくれていると、
信じている」
「今度こそ合格、と信じる」
いずれも、ハッキリしない不安をかき消すために、
疑いを抑えつけ信じ込もうとする努力ではないでしょうか。

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親鸞聖人の「真に知んぬ」の告白は、
それらの「信じる」とは全く異なります。
「南無阿弥陀仏は尊いそうな」という想像でもなければ、
「お念仏さえ称えていれば、
阿弥陀さまは極楽へ連れて行ってくださるだろう」
と夢みる信仰でもない。
身も心も「南無阿弥陀仏」と一体となって、
「正定聚」の身に救い摂られた聖人が、
「まことであった、本当だった、ウソではなかった」
と、本願に露チリほどの疑心もなく晴れ渡った、
実体験なのです。

蓮如上人も『御文章』に、
「その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」
「今こそ明らかに知られたり」
「この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に
廻向しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり」
「うれしさを昔は袖につつみけり、
今宵は身にもあまりぬるかな」
とおっしゃっているのも、
「南無阿弥陀仏」を頂いた一念に、
絶対の幸福に救い摂られた歓喜の発露です。

ところが、「弥陀に救われても、
そんなにハッキリするものではない」
と嘯(うそぶ)いている人が少なくありません。

一念で51段を高飛びさせられて、
この世は弥勒と同格、死ねば「弥勒お先ごめん」
と仏覚を開く身になった人が、
「その自覚がない」ということがありえるでしょうか。

何兆円どころでない大宇宙の宝を丸もらいして、
永遠の幸福に救い摂られたのに、
それが「自分には分からない」ということが、
考えられるでしょうか。
「救われても、ハッキリするものではない」と言うのは、
「正定聚」とはどんなことかも、
「南無阿弥陀仏」の偉大な働きも、
知られていないだけなのです。

どうして、そんな働きが

「本願名号正定業」(本願の名号は正定の業なり)
と言われている御心の一端を、解説してきました。
では、どうしてそんな凄い力が名号にはあるのかというと、
その理由を次に、
「至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
と開示されています。

「至心信楽の願」とは、
“すべての人を必ず信楽(正定聚)に救う”
と誓われている「阿弥陀仏の本願」のこと。

その「至心信楽の願」を因として造られた結果が
「南無阿弥陀仏」だから、この六字の名号には、
私たちを「正定聚」にする働きがあるのだよ
と、
親鸞聖人は朝晩の勤行(おつとめ)で、
本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)
至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
と教えられているのです。


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