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阿弥陀仏の命を懸けた誓いゆえ [阿弥陀仏]

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)  

弥陀仏本願念仏(弥陀仏の本願念仏は、)
邪見驕慢悪衆生 (邪見・憍慢の悪衆生)
信楽受持甚以難 (信楽受持すること甚だ以て難し、)
難中之難無過斯 (難の中の難これに過ぎたるは無し)
          (親鸞聖人・正信偈)

まず「弥陀仏の本願念仏」から説明しましょう。
弥陀仏とは、阿弥陀仏のこと。
大宇宙のあらゆる仏から、我らの先生、
本師本仏と仰がれるお方です。

本願とは誓願ともいわれ、お約束のことです。
阿弥陀如来の誓約どおりに救われると、
必ず報恩謝徳の念仏を称える身になります。
それで親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願を
「弥陀仏の本願念仏」と言われています。
弥陀の本願を知らねば、後の三行も分かりませんから、
まず、弥陀の本願とは何かを
よく知っていただきたいと思います。

阿弥陀如来の本願は、
『大無量寿経』に漢字三十六文字で
書かれていますが、分かりやすく一言で言えば、
「すべての人を、必ず絶対の幸福に救う」
というお約束です。

相手を知らずに約束はできません。
例えば、金銭の貸借の約束でも、
相手構わずにできるものではないでしょう。
重大な約束であればあるほど、
相手をよくよく調査するはずです。

では、阿弥陀如来は全人類を、
どのようなものと見て取られて
約束されているのでしょうか。

「親殺し」は、恐ろしい五逆罪

阿弥陀如来は、すべての人は逆謗だと仰せです。
逆謗とは、五逆罪・謗法罪を造り通しの
極悪人ということです。

生き物を殺したり、うそをつくのも罪悪ですが、
もっと恐ろしいのが五逆の罪であり、
その最初に挙げられているのが親殺しの罪です。

十六歳の少年が金属バットで
お母さんを殴り殺したとか、
五十代の男が年老いた母親を
刺し殺したなどという事件を、
時々耳にします。
赤ん坊のころは、お乳を飲ませてもらったり、
おしめを取り替えてもらったのではありませんか。
病気になれば寝ずに看病してもらい、
離れていてもいつも心配してもらって
成長してきたのです。
そんな大恩ある親を自ら手で殺すなど、
人間の心を持たぬ
鬼の仕業ではないかとさえ思われます。
仏教では、親殺しは無間地獄へ堕ちる恐ろしい
無間業であると教えられています。

ところが親鸞聖人は、手にかけて殺すばかりが
親殺しではないのだよと、
「親をそしる者をば五逆の者と申すなり」(末灯鈔)
と言われています。

親をそしるのも五逆罪なのです。
「早く死んでしまえ」などと言うのは無論ですが、
「うるさい」「あっちへ行け」などと、
ののしるのも親を殺しているのです。

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心の罪が最も重い

また、仏教では、
殺るよりも、劣らぬものは、思う罪
といわれ、
体や口より、最も重いのは
心で殺す罪だと教えられます。

例えば、一つ屋根の下に暮らしておりながら、
ろくに口もきかず、食事も別々に取り、
呼ばれても聞こえないふりして
親を邪魔もの扱いしているのは、
心で殺しているのです。
親が病気で寝たきりにでもなると、
“邪魔だなあ”“いい加減に死んでくれたら”
と、とても他人には言えない心が
出ては来ないでしょうか。

ある三人の兄弟が、父親が亡くなったので、
土地と屋敷を売り、相続税を払い、
残りを兄弟で分けました。
ところが、独りになった母親の面倒をだれが見るかで
話し合いをしても世話を嫌う者ばかり。
結局、兄弟でたらい回しにした揚げ句、
施設に入れてしまいました。

年老いた母親は、
「子供がいないほうがましだった」
と嘆き悲しみ、
今では生きる気力を失ったように
過ごしているそうです。

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親が元気で、小遣いをくれたり
仕送りしてもらえる間は、
ありがたいと生かしておき、
肉体が衰え世話が必要になると、
忘恩(ぼうおん)の徒となり、
“面倒だ、いい加減に・・・”と抹殺する。

手にかけて殺してはいなくても私たちは、
心でどれだけ親を殺しているか分かりません。


また、
“こんなに苦しいのなら死んだほうがましだ”
と思ったことのない人があるでしょうか。

“生んでさえくれねば、苦しまなくてもよかったのに”
と親を恨み、のろっている心ですから、
心で親を殺していることになります。

全人類が救われる唯一の道を壊す大罪

五逆よりも恐ろしいのが謗法の罪です。
謗法罪とは、真実の仏法をそしったり
非難する罪をいい、
これも無間業だと教えられています。

(※無間業とは、無間地獄に堕つる罪のこと)
かの聖徳太子が、
「四生の終帰、万国の極宗」
と断言されたように、
古今東西の全人類が救われる
たった一本の道が仏教です。
そんな仏教を誹謗することは、
全人類が救われる唯一の道をぶち壊すことであり、
幾億兆の人を地獄へ突き堕とすことになりますから、
これ以上恐ろしい罪はないのです。

しかし、「仏法も鉄砲もあるか」「仏教なんて迷信だ」
「邪教だ」とののしる者だけが、
謗法の大罪を造っているのではありませんよ、

と親鸞聖人は、
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、
謗法の者と申すなり」    (末灯鈔)
と教えられています。

真実の仏法を説かれる
善知識をおろそかに思うことも
謗法の罪なのです。
居眠り半分で仏法を聞いているのは、
善知識をおろそかに思っている表れでしょう。
尊く思えば、居眠りなどできるはずがないからです。

それだけではありません。
“今日の話は長かった”“短かった”と、
善知識の教えを批評しているのも謗法罪です。

なぜなら、先生は子供の答案の善し悪しが分かりますが、
子供は先生の答案の善し悪しが分かりませんから
採点ができません。
善知識の教えを「ああだ」「こうだ」と採点しているのは、
善知識の上に立ち、
おろそかにしていることに違いありません。

しかも、このように五逆罪・謗法罪を
造り通しの悪人だと聞かされても、
罪を罪とも思わず、悪を悪とも思わず、
地獄と聞いても驚かず、
極楽と聞いても喜ぶ心がない脈のあがった心ですから、
親鸞聖人は、「逆謗の屍(ぎゃくほうのしかばね)」
と言われています。

仏眼からごらんになれば、全人類は例外なく、
逆謗の屍なのです。

ところが私たちはうぬぼれ強く、
逆謗の屍が自分だと思っていません。
だれのことかと思っています。

これを憍慢(きょうまん)といいます。

●「憍慢」とは、どんな心か

憍慢とは、地獄しか行き場のない
真実の自己が分からず、
己(おのれ)は善人だとうぬぼれて、死んだら極楽、
死んだらお助けと寝とぼけている心です。

まさか地獄へは堕ちんじゃろ」
「朝晩ちゃんと勤行もしているのだから、
悪いところへは行かんだろう」
「このオレが地獄へ堕ちるとすれば、
隣のばあさんはどこへ行くのか」
「これだけお念仏称えているのだから、
いつ死んでも大丈夫だ」
「素直に本願を信じ、念仏喜んでいるもの、
間違いなかろう」
「他人から指さされるような悪いことは、
しておらんからよかろう」

挙げればキリがありませんが、
このような心の動いている人を、
憍慢の悪衆生というのです。

●生きてよし、死んでよしの幸福に

すでに阿弥陀如来が見抜かれたとおり、
すべての人は逆謗の屍。
その逆謗を「絶対の幸福」に助けると
約束されているのが弥陀の本願です。

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私たちは、手に入れても色あせ、
つかんでも夢と消える幸福しか知りません。
本当の安心、満足を切望しながら、
幸福に見放される不安が付きまとい、
どこまで求めても満たされず渇いています。

そんな私たちを、何があっても絶対に変わらぬ
大安心・大満足に助けると、弥陀のお誓いなのです。

もちろん、現在生きている時にです。
この不壊不変(ふえふへん)の未来永遠の
幸福になることこそが、人生の目的なのです。

ゆえに弥陀の誓約どおりに救われますと、
“人間に生まれてよかった、
この身になるための人生であったのか”
と生きてよし、死んでよしの幸福に満ちあふれます。

ところが、いまだ体験したことのない、
夢にも見たことのない境地。
そんなことになれるはずがないと、
私たちは全く受け付けません。
これが邪見です。

●「邪見」とは、どんな心か

邪見とは、阿弥陀如来の本願を
計らっている心をいいます。

仏智の不思議を拒否する心で、
「凡夫がそんなにハッキリ救われるものではない」
「人間に、日本晴れの大安心なんてなれるはずがない」
「我々のような悪人に大満足なんかある道理がない」
「この世で助かったということはありえない」
「生きてよし死んでよしなんかに、なれるものじゃない」
と、本願力の不思議が体得できず、
法の真実を計らっているのを皆、
邪見というのです。

世の中に、これ以上の難はない

地獄行きと聞かされても、だれのことじゃ、
オレは違うとうぬぼれている憍慢。
絶対の幸福に救うと言われても、
そんな幸福になれようかと計らっている邪見。

すべての人は邪見憍慢の悪衆生ですから、
弥陀の本願まことをまことと信じること(信楽受持)
は難中の難なのです。

それを親鸞聖人は、
邪見・憍慢の悪衆生、信楽受持すること、
甚だもって難し、難の中の難、これに過ぎたるは無し

と言われているのです。
世の中に難しいことはいろいろありましょう。
「一兆円の財産を持つことはできるか」
と問われれば、だれでも腰抜かすほど難しいと思うでしょう。
イチロー選手の年俸が約5億円とすれば、
単純計算では、飲まず食わずで全額貯金し、
2000年かかってようやく一兆円です。
ところが弥陀の救いにあうことは、
一兆円の財産を築くぐらいではありません。
100年や200年求めて得られるちっぽけな幸せとは
ケタが違うぞと、親鸞聖人は、
“多生にもあい難い本願力に、今あえたり。
億劫にも獲難き真実の信心を、今獲たり”
と叫ばれたとおり、多生億劫の目的なのです。

「一生参学の大事」
「仏道を求めることは、
大宇宙を持ち上げるよりも重いぞ」
「信心獲得は難の中の難、これ以上の難はない」
と言われるのも当然でしょう。

●若不生者のちかいゆえ

そこで阿弥陀如来は、
「必ず助ける、もしできなければ命を捨てる」
と誓われるのです。

救わずばおかぬの強烈な「阿弥陀如来の本願」と、
真実聞く耳のない「邪見憍慢の悪衆生」とが
一騎打ちをするのです。

邪見と憍慢の者は、信を獲ること甚だ難しい、
これほど難しいことはない」

しかし、命懸けの弥陀のご念力が生きて働いてますゆえに、
難中之難無過斯(なんちゅうしなんむかし)を突破させられ、
信楽受持の身にさせていただける時が、
必ずあるのです。

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり

       (浄土和讃)
“阿弥陀如来の命を懸けたお約束があるのだから、
間違いなく絶対の幸福の身になれる時がくるのだぞ”
そこまで求め抜いてくれよの親鸞聖人のお言葉です。

 


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