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阿弥陀仏に救われるのは死んでからではない、まさに“今”! [阿弥陀仏]

 

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)

生死の苦界ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける
      (親鸞聖人・教行信証)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、乗せて必ず、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。

「生死の苦海ほとりなし」
我々の生を、苦しみの海に例えられています。
人は皆、空と水しか見えない海に漂うように、
真に向かうべき方角を知らず、
幸せも波間の丸太で当てにならない。
すがりついて一時の安息はあっても、
荒波が次々と襲いかかり、幸福に裏切られては
塩水飲まされる日々に限り(ほとり)はありません。

「久しく沈める我ら」
“久しく”とは、長い間。
それは五十年や百年ぐらいではありません。
生死生死を繰り返し、果てしなく迷い続けてきたと
親鸞聖人は仰っています。

「弥陀弘誓の船のみぞ」
「弥陀」とは、すべての仏の師である阿弥陀仏のこと。
「弘誓」は、
“すべての人(十方衆生)を必ず絶対の幸福に救う”お約束。
これを「阿弥陀仏の本願」といい、
苦海を明るく楽しく渡す唯一の船に例えられておられます。

「乗せて必ず渡しける」
「本願の船に乗る」とは「本願どおり救われる」ことです。

では、乗せていただくのは「いつ」でしょう。
渡してくださるのは「どこへ」なのか。

今回は、この二つの疑問にお答えいたします。

●「助けてくださるそうな」は絵に描いた馬

「すべての人を必ず本願の船に乗せてみせる」
と阿弥陀仏が命を担保に誓われても、
「ふーん、乗せてくださるそうな」
とノンキな人が少なくありません。

五百年ほど昔、京都に、午年生まれの馬好きな金満家がいた。
日本一の画家に立派な馬の絵を描かせたが、
賛(さん)が欲しい。
当時、有名であった大徳寺の一休に依頼した。
「よかろう」
と一休、筆を執り、
「馬じゃげな(馬じゃそうな)」
と書いた。

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「これほど立派な馬を、ブタやタヌキに見るものか。
立派な絵を台なしに・・・」
金満家は地団駄踏んで悔しがったが、
後のまつり。
悩んだ末、蓮如上人を訪ねた。
「蓮如さま。一休にとんでもないことを書かれました。
この絵を生かす賛(さん)を加えてもらえませぬか」
「よし、よし」
と蓮如上人、筆を執られ、
「そうじゃげな」
と並べて書かれたという。
どんなにまことらしくとも絵は絵。
だから、「馬じゃげな」、「そうじゃげな」、なのです。

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「阿弥陀さまが助けてくださるそうな」
では所詮は絵に描いた馬です。

「弥陀の本願まことだった」
と大悲の願船に乗せていただくところまで
聞かせていただかねばなりません。

●手に汗されての教導

では、弥陀弘誓の船に乗せていただけるのは
“いつ”なのでしょう。
親鸞聖人は、こう教示なされています。

呼吸の頃(あいだ)すなわち来生なり。
一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
願わくは深く無常を念じて、
徒に後悔を胎す(このす)ことなかれ

            (教行信証)
一息つがざれば次の生(来生)である。
永久にもどらぬ人生となる。
ただ今、阿弥陀仏に救われねば、
いつ救われるというのであろうか。  
永遠のチャンスは今しかない。
刻々と迫る無常を凝視して、
決して後悔を残さぬように。

『御文章(御文)』にも、こう記されています。

命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得あるべく候

          (蓮如上人)

すべての人は
「本当に弥陀弘誓の船に乗せてもらえるのか」
と、必ず疑いを持つ。
その不審が晴れるのは、船に乗った時。
「貸した金、ちゃんと返すだろうか」
の疑念は、返済された時になくなるのと同じです。

阿弥陀仏に対しての疑い(不審)が、
「命のあるうち(命のうち)」に晴れなければ
「後悔のみ」である。    
生きている現在、弥陀弘誓の船に乗せていただき、
早く疑い晴れた身になりなさい」
とのご勧化です。

弥陀弘誓の船に乗せていただくのは、
死んでからではない。まさに“今”なのです。

●弥陀弘誓の船の行き先は?

では、現在ただ今、弥陀弘誓の船に
乗せていただいた人は、
どこへ連れて行ってもらえるのでしょう。

親鸞聖人は、『正信偈』に明言されています。

必至無量光明土(必ず無量光明土に至る)

無量光明土とは、限りなく明るい世界、
阿弥陀仏のまします極楽浄土のことです。
弥陀弘誓の船に乗せていただけば、
無限に明るい浄土へ往けるから、
一息一息、光明の広海を快走する
愉快で楽しい船旅となります。

弥陀の浄土へ「往」って、仏に「生」まれることを
「往生」といい
弥陀弘誓の船に乗せていただけば、
いつ死んでも浄土往生間違いない身になれます。

これを、「往生一定」というのです。
生きている現在ただ今、
浄土往生が本決まり(往生一定)になるのです。

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●現在と死後 二度救われる

弥陀弘誓の船に乗せていただくのは、
「生きている今」であり、
その人が、一息切れて行く世界は「無量光明土」です。

弥陀の救いにあえば、
この世は大安心、大満足の絶対の幸福に生かされ、  
来世は必ず弥陀の浄土で仏に生まれます。

このように阿弥陀仏の救いは、現在と、死後と二度ある。
これを「現当二益(げんとうにやく」といいます。

「現益」と「当益」のことで、
「現益」とは現在(この世)の救い(利益)、
「当益」は死後(当来)の救い(利益)です。

現在、弥陀弘誓の船に乗せられた人だけが、
死んで無量光明土に生まれられるのですから、
親鸞聖人は、現在の救いを強調されたのです。

聖人、九十年のみ教えを「平生業成
といわれるゆえんです。
  

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●平生業成・・・聖人の教えを表す一枚看板

「平生」とは、「生きている今」。
「業」とは、「人生の大事業」。
大事業とは、オリンピック開催や、
宇宙開発プロジェクトなどではない。
私たち一人一人の、「人生の大事業」であり
「人生の目的」のことです。
  
何のために人間に生まれてきたのか。
苦しくてもなぜ自殺してはならないのか。
すべての人にとって最も大事な「人生の目的」を、
親鸞聖人は「業」の一字で表されています。

「成」とは、完成の「成」。
達成、卒業、決勝点がること。
「平生業成」とは、
「平生ただ今、人生の目的が完成する。
だから早く完成せよ」

と叫び続けていかれた親鸞聖人の教えを、
漢字四字で表された、一枚看板なのです。

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「この世はどうにもなれない、死んだら極楽、死んだら仏」
と死後の花降る浄土を夢みる物語が仏教ではありません。
勝負は平生に決するのです。

覚如上人(親鸞聖人の曾孫)は、こう教えられています。

然れば、平生の一念によりて、
往生の得否は定まれるものなり。
平生のとき不定の念(おもい)に
住せばかなうべからず(執持鈔) 

浄土に往けるかどうか(往生の得否)は、
平生の一念で決まる。
今、往生一定の身になっていなければ(不定の念に住せば)、
浄土往生できない(かなうべからず)

弥陀弘誓の船は、本当にあるのか」
「こんな私でも乗せていただけるのだろうか?」

と、疑いでフラフラな心(不定の念)が、
過去無量劫の生死流転の根元です。

それが、平生のただ今、
弥陀弘誓の船に乗った一念で無くなり、
往生は一定となる時が必ず来ます。

同時に生命の大歓喜が湧き上がるのです。

弥陀弘誓の船に乗せていただくには、
「聴聞に極まる」。

命あるうちに、弥陀の救いに疑い晴れるまで、
真剣に聞かせていただきましょう。


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 親鸞聖人の教え=釈迦の教え=弥陀の本願
に関して疑問に思われている方は、
クリックして記事をご覧ください。

阿弥陀仏とはどんな仏さま?


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