仏教の目的は何ですか? [Q&Aシリーズ]
(質問)仏教の目的は何ですか?
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今日、仏教と聞くと何が思い浮かぶでしょうか。
葬式や法事で生き延びている葬式仏教、
おみくじやゴマをたいてゴ利益を振りまく祈祷仏教、
伽藍や大仏を売り物にする観光仏教・・・。
もちろんこれらは論外ですが、中には、
仏教を道徳や倫理と兄弟のように考えて、
「仲良く生きていく方法を教えたもの」
と思っている人もあるでしょう。
だからケンカもせず、人の言うことは何でもハイハイと
聞く円満な人格者、角の取れた人間が
仏教信者だと信じています。
しかし、仏教はそんな修養の道具でもありません。
では、仏教を聞く目的は何でしょうか?
それは、後生の一大事の解決をするためです。
(質問)後生の一大事とは何ですか?
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蓮如上人は、『御文章(お文)』の至るところに、
「後生の一大事を思いとりて」とか、
「今度の一大事の後生」とおっしゃっています。
有名な「白骨の章」には、
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて」
とあります。
仏教は、後生の一大事に始まり、
その解決で終わる教えです。
釈尊一代の教え、八万の法蔵といわれる一切経も、
この一大事を私たちにいかに知らせるか、
この一大事をいかに解決するかを
教えられた以外の何ものでもありません。
ですから、後生の一大事ということが分からなければ、
仏教は分からない。
これが仏教の出発点なのです。
(質問)後生とはどんな意味ですか?
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後生とは、死後のことです。
後生と聞くと、カビの生えた古い言葉のように感じたり、
30年も50年も先のこと、
自分とは関係のないと思う人もありますが、
本当にそうでしょうか。
吸った息が吐き出せない時、
吐いた息が吸えなかった時が、
もうその人の後生です。
だから、一息一息が取り返しのつかない価値を持ち、
吸う息、吐く息が後生と密着している。
こんな差し迫った現実問題はないのです。
「後の世と 聞けば遠きに似たれども
知らずや今日も その日なるらん」(古歌)
のとおりです。
されば、蓮如上人は、
「仏法には、明日という日はない」とまで言われています。
(質問)一大事とはどんなことですか?
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一大事とは、取り返しのつかないことをいいます。
自宅が火事や地震に見舞われると、
私たちは、「一大事!」と叫びます。
確かにそれも大変なことですが、
後生の一大事と比べたら皆、
小事だと仏教ではいわれます。
取り返しがつくからです。
家ならば、建て直すこともできるでしょう。
釈尊はズバリ、「必堕無間」と経典に説かれています。
(必堕無間とは、死ぬと大苦悩の世界に堕つること、
六道の一つである地獄界)
親鸞聖人は、
「一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず(かえらず)」
(教行信証)
とおっしゃり、“一息追(つ)がざれば次の生、
永久にもどらぬ人生となる”と、
警鐘乱打なされています。
この後生の一大事を解決することが、
仏教を聞く目的なのです。