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我々はいかに心で悪をやっているか! [罪悪深重]

 

(真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています)

生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける
       (親鸞聖人)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、
乗せて必ず、明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ

今回は「弥陀弘誓の船」について解説します。
「弥陀」とは、阿弥陀仏という仏さまのことで、
阿弥陀如来ともいわれます。
阿弥陀如来について、親鸞聖人の教えを
最も正確に伝えられた蓮如上人は、
こう教えられています。

阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師・師匠なり
         (御文章二帖目九通)
今日、大宇宙に地球のようなものが
数え切れないほどあるのは天文学の常識ですが、
その大宇宙に数え切れない仏さまがましますと
お釈迦さまは説かれているのです。

これらの仏方を、「三世諸仏」とか、「三世十方の諸仏」
と言われます。

よく知られているのは、大日如来とか薬師如来
奈良の大仏はビルシャナ如来といわれる仏ですが、
皆、「三世十方の諸仏」の一仏です。

「本師・師匠」とは、師、先生ということですから、
阿弥陀如来は、大宇宙の無量の仏方の先生なのです。
大宇宙の仏方が、口をそろえて
「われらが師匠だ、尊い仏さまだ」
と絶賛され、合掌礼拝される仏さまが阿弥陀仏なのです。

逆から申しますと、大宇宙のあらゆる仏は、
阿弥陀如来のお弟子です。
地球のお釈迦さまも諸仏の一人ですから、
弥陀と釈迦は、先生と生徒、師匠と弟子の関係になります。

阿弥陀仏が見て取られた私たちのすがた

次に、「弘誓」とは、「弘い(ひろい)誓い」ということで、
十方衆生(すべての人)と約束されている弥陀の誓願のことです。
これ以上、弘い約束はありませんから、
「弘誓」といわれるのです。
約束は、相手をよく知らねばできません。
阿弥陀仏は、十方衆生をどのような者と見て取られたのか、
『御文章(御文)』にこう教えられています。

それ、十悪・五逆の罪人も、
(乃至)空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

          (御文章二帖目八通)
私たちは、十悪・五逆という罪を犯し、
大宇宙の仏方から見捨てられた者である

「諸仏に見捨てられるほどの罪を造った覚えはない」
と思われる方がほとんどでしょう。

では、十悪・五逆とはいかなる罪なのか、
まず十悪から説明いたします。

仏教では、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて、
十悪」と教えられています。

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の十の悪です。

はじめの貪欲、瞋恚、愚痴の三つは
心で犯す罪悪をいいます。

仏教では「殺(や)るよりも 劣らぬものは 思う罪」
といわれ、口や身で犯す罪よりも
心で思う罪のほうが恐ろしいと教えられています。

最初の「貪欲」とは底の知れない欲の心をいいます。
欲の本性は、「自分さえよければよい」
という我利我利の心です。

普段は隠しているようでも、
切羽詰まった時に本性が顔を出す。

ガソリンスタンドの割り込みトラブルが多発し、
注意すると「急いでいるんだ!」と喧嘩が始まる。
JRの職員が「ミスを知られたくなかった」
と機械をハンマーでたたき折り、故障に見せ掛けた。
介護疲れで、「いい加減に死んでくれたら・・・」
の悪魔の心が噴き出る。

こう聞いて自分は絶対そんなことはないと
言い切れる人がいるでしょうか。

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追い詰められると、「邪魔者は消えてなくなれ」
と恐ろしい心が出てきます。
それでいてバレると、「仕方なかった」「あいつのせいだ」
と反省もない。
表面上は頭を下げても心の中は、
どうせ、見えない、聴こえない、ばれないからと、
まるで無法地帯ではないでしょうか。
パチンコに夢中になり、車中のわが子を熱中症で死なせる。
遺産相続をめぐって兄弟姉妹が
骨肉相食む(あいはむ)修羅場と化す。
実の娘に保険金を掛けて殺害する。
自分の欲望を満たすためには、親でも、子でも恩人でも、
どんな恐ろしいことでも考え、やってしまうのが
“人間”という存在のようです。
この欲が邪魔されると出てくるのが「瞋恚」、
怒りの心です。
うまくいかなければイライラし、弱い相手に当たり散らす。
どうして言うことをきかないのかとわが子を怒鳴る。
試合に負ければ、あいつのせいだ、
コーチのせいだとムカツク。
やられたら倍返しでやり返す。
全て自分の思いどおりにしたい我利我利亡者の欲望は
ちょっとしたことで妨げられ、そのたび、
瞋恚の炎が燃え上がります。
心のまな板の上で、あの奴、この奴と切り刻むのは、
「怒」という字にも表れています。
次の「愚痴」とは、妬み、そねみ、うらみの心。
他人の成功を見ては、「あいつだけうまくやりやがって」
「いつもひいきされてずるい」と、妬み心が出てきます。
逆に、他人の不幸を目にすれば、
ごちそうを与えられたように瞳をランランと輝かす。

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いつも馬鹿にする上司、競っても勝てない同輩、
自分より優秀な後輩の失敗には、心の中で拍手喝采。
昔から「他人の不幸は蜜の味」ともいわれ、
脳科学でも証明されたそうです。
妬ましい人物に不幸が起きると、
脳の喜びに関する部分が反応する
実験結果が得られたというのです。

悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに
虚仮(こけ)の行とぞなづけたる

     (悲歎述懐和讃)

親鸞聖人は、「死ぬまでやまぬ悪性だ」と言われ、
蛇やサソリを見たときのようなゾッとする心だと
告白なされています。

次に、これらの心が口に表れれば、
綺語、両舌、悪口、妄語としかなりません。
さらに、身では殺生、偸盗、邪淫の悪を造っています。
(口や身の悪の詳細は以下にアクセスしてください)
殺生の限りを尽くしている者が救われるには!
ウソ偽りの私たちを命懸けで救う仏さま

このように、心や口や身で十悪を造り続けている我々は、
自分のまいたタネの結果で苦しみ続けています。
そんな私たちを放ってはおけぬと、
大宇宙の仏方が慈悲の心を起こされたのですが、
我々があまりに悪重く罪深いので、
とても助けられぬとサジを投げてしまわれた。

このことを『御文章』に、

空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫(人間)なり

と書かれています。

「悲願」とは慈悲によって起こされた願いです。
その「悲願に洩れた」とは、
諸仏でも助けられなかったということで、
私たちからいえば見捨てられた、ということです。

肉体の病で例えるなら、
町医者に「もっと大きな病院で」と言われ、
大病院でも「私の手には負えません」と手を放され、
ついに、すべての医者に見放された重病人のようなものです。
しかも、その自覚が全くないので、なお救い難いのです。

ただ一人見捨てられなかった仏

ところが『御文章』には、続けてこう書かれています。

然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
(乃至)今の如きの諸仏に捨てられたる
末代不善の凡夫・五障三従の女人(すべての人)をば
弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」
という超世の大願を発して

大宇宙のすべての仏に見捨てられた者なら、
なおさら捨ててはおけぬと、
ただ一人立ち上がってくだされたのが
本師本仏の阿弥陀仏なのだ。
弥陀だけが“決して見捨てはしないぞ、必ず助ける”
と、世を超えた、大慈悲の願いを起こしてくだされたのだよ

蓮如上人は教えてくだされています。

このことは、
お釈迦さまが『大無量寿経』というお経に説かれ、
親鸞聖人も『教行信証』に記されています。

その弥陀の誓願の原文は漢字三十六文字ですが、
今日の分かりやすい言葉に直しますと、
「どんな人も 我をたのめ
必ず絶対の幸福に救う」
というお約束です。

親鸞聖人は船に例えて、「弥陀弘誓の船」と仰り、
すべての仏が束になっても救えない極悪人を、
この世から絶対の幸福に救済する力を持っておられるのは
弥陀一仏
ですから、「弥陀弘誓の船のみ」
と教えられているのです。

弥陀弘誓の船に乗せていただくための人生

私たちは、苦しむために生まれてきたのでも、
生きているのでもない。
弥陀弘誓の船に乗せていただき、
“人間に生まれてよかった!”
の生命の歓喜を獲るために生を受けたのです。

弥陀の願船に乗せていただければ、
この世は絶対の幸せに生かされ、
来世は必ず阿弥陀仏の極楽浄土・無量光明土
(無限に明るく楽しい世界)に連れて行っていただけます。
まさに永の迷いの打ち止めであります。

生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

このお言葉は、溺れ苦しみ続けた生死の海を離れ、
一日も早く弥陀弘誓の船に乗って光明輝く世界に出てくれよ、
との親鸞聖人のやるせないお気持ちが込められています。

一生造悪値弘誓(一生悪を造れども、弘誓に値〈もうあ〉いぬれば)
至安養界証妙果(安養界に至りて、妙果を証せしむ)
              (正信偈)
一生造悪の極悪人ではあるが、
弥陀弘誓の船に乗せていただければ、
来世は必ず阿弥陀仏の浄土(安養界)へ往って、
弥陀と同じ仏のさとり(妙果)を
開かせていただくことができるのだよ

仏法は聴聞に極まる。聞く一つです。
先哲は、苦労して聞け、真剣に聞け、
続けて聞けとも教えておられます。
身代わりは立ちません。
今ハッキリするのが、弥陀の救いです。
後悔を残さぬよう
弥陀の本願をツユチリの疑心もなくなるまで、
真剣に聴聞いたしましょう。


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