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運命のしくみと仏法 [因果の道理]

 

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)


本誌編集部には、毎月多くの感想や質問が寄せられます。
今回は、昨年11月号の特集
「因果の道理~何が運命を決めるのか」
を読まれた方から届いた二通のお便りを通して、
より深く「運命のしくみ」について学びましょう。

(感想1)
「因果の道理」について分かりやすくまとめてあり、
よく理解できていなかったことも、
ストンと心に落ちました。
ですが、つらく苦しいことが重なると、
「どんな悪いことをしたっていうの!?」
と、泣きたくなることもあります。
身に起きる苦難を、どう受け止め、
乗り越えていけばよいでしょうか。
         (広島県・44歳女性)

(感想2)
私は過去にたくさんの過ちを犯してきました。
『とどろき』で「因果の道理」を知らされ、
現在の苦しみは、その結果と受け止めることができ、
心が楽になりました。
しかし業の深い私は、
未来にもっと大きな苦しみがあるのではないかと、
不安も感じています。
こんな私でも幸せになれるでしょうか。
         (岐阜県・28歳女性)

どちらも、昨年11月号の内容を
真摯に受け止められての感想です。
この号とご縁のなかった方もあるでしょうから、
まず、「因果の道理」についておさらいしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
因果の道理とはどんな教え?

「因果の道理」は、仏教の根幹です。
「仏教」とは、約2600年前、インドに出現された
お釈迦さまの一代の教えです。
「根幹」とは、根であり、幹のこと。
仏教を一本の木に例えたならば、
因果の道理は根や幹に当たります。
根や幹がなくなれば、木は倒れてしまいます。

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釈迦一代の教えは、7000余巻の一切経に
全て書き残されています。
その一切経を貫いている根幹の教えが因果の道理ですから、
この因果の道理が分からねば、
仏教も親鸞聖人の教えも毛頭、分かるものではありません。

因果とは、「原因」と「結果」のこと。
どんなことにも必ず原因があり、
原因なしに起きる結果は絶対にありません。
まかぬ種は絶対に生えませんが、
まいた種は必ず生える。
これが「因果」ということです。

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道理とは、仏教で、三世十方を貫くものをいいます。
いつでも(三世)、どこでも(十方)変わらぬ真理です。
時や場所によって異なるものは、
道理とはいいません。

いつの世も、どの国でも変わらない。
地球上のみならず、たとえ宇宙に飛び出しても
間違いないことが「道理」です。

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仏教の因果の道理は、
特に私たちの幸福についての原因と結果の関係を
詳しく教えられています。

私たちが最も知りたいのは、
どうすれば幸福になれるか、ということでしょう。

幸福こそすべての人の願いであり、
人生の目的だからです。

これらについて、
お釈迦さまは次のように教示されます。

善因善果(善い因をまけば、善い結果が現れる) 
悪因悪果(悪い因をまけば、悪い結果が現れる)
自因自果(自分のまいた因の結果は自分に現れる)

因とは、我々の行為のこと、
果とは、我々に現れる種々の運命をいいます

(仏教では本来、運命とはいいませんが)。
私の身に起きる禍・福(幸・不幸)は、
すべて私の行為が生み出したものであり、
これに万に一つも例外はない。

これが仏教の説く因果の道理です。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「私がどんな悪いことをしたの?」
  つらい目に遭うと必ずこう思うけど・・・

寄せられた疑問1
つらく苦しいことが重なると
「私がどんな悪いことをしたっていうの!?」
と、泣きたくなることもあります。
身に起きる苦難を、どう受け止め、
乗り越えていけばよいでしょうか。

        ■      ■      ■

共感される人は多いでしょう。
苦しいことが立て続けに起きると、
「どうして私ばかりこんな目に?」「自因自果とは思えない」
と思う気持ちはよく分かります。

しかし、私に無関係なことが
私に起きる道理はありません。

しかも私のまいた種の結果が他の人へ行く「自因他果」や、
他人のまいた種の結果が私に現れる「他因自果」は絶対にない、

とお釈迦さまは教えられています。

受験戦争や就職難を勝ち抜くには、
自分が勉強し、面接を受けねばなりません。
周囲を励まし、応援も大切ですが、
当の本人の努力なしに、
合格も採用もありえないのは当然でしょう。

フーテンの寅さんに、こんなセリフがあります。
「おまえと俺とは別な人間なんだぞ。
早え話がだ、俺がイモ食って、
おまえの尻からブッと屁が出るか?」

      (松竹映画『男はつらいよ』第1作より)

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歌手の西城秀樹さん(59)は、
脳梗塞からの過酷なリハビリの心境を、
次のように告白しました。
「リハビリは全部つらいですよ。
体が鉛のように重いから、歩くだけでもつらい。(中略)
リハリビ中は根気しかない。
こんだけ根気あって、こんだけ努力するんだったら、
東大でもどこでも受かっちゃうよ(笑)」
苦痛に耐えて朝7時に起き、
最低1時間は公園を歩いた。
トレーニングに励むのも、ほかならぬ自分のため。
つらいからといって、他人にお金を出して
やってもらっても意味がありません。
オリンピックでのメダル獲得は、
選手自身が何年も練習に汗を流したたまものでしょう。

だから、自己の行為が自身の運命を生み出す
「自因自果」「自業自得」と
誰でも一応は納得していますが、
ひとたび不幸に見舞われた途端、
受け入れられなくなるのです。

どう考えても
「あいつのせい」としか思えない・・・・

例えば、こんな場合。
いつも飲んだくれのばくち打ち、
家庭内暴力を振るう夫によって、
気立てのよい奥さんが毎日苦しめられている。
彼女自身も、周囲の人たちも、
「あの夫のせいでひどい目に遭っている。
『他因自果』ではないか」
と思います。
しかし、これも間違いなく自因自果。
なぜでしょう。

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まず、因果の道理は正確には、
「因縁果の道理」であることを、知らねばなりません。
「一切法(万物)は、因縁生なり」(釈尊)
「全てのものは、因と縁が結合して生じたもの」
と、お釈迦さまは仰せです。

例えば携帯電話なら、一台あたり約600個の部品(因)と、
それらの組み合わせる作業(縁)によって完成(果)するように、
全ては「因」と、それを助ける「縁」がそろって
初めて生まれています。
私たちの運命も同じです。

どんな悪い男がいても、結婚さえしなければ、
奥さんの現在の不幸はありません。

そんな男の妻になったのは、
彼女自身が「好きになって結婚した」から。
その行為が原因で、今の不幸という結果となった。
夫は大変な悪縁ですが、原因はあくまで、
奥さん本人にあるのです。

「そんなの、結婚するまで分からないでしょ。
運が悪かったのよ」
と身の不遇を恨み、嘆き、
あきらめてしまう人は多いかもしれません。
しかしその「運」とは何か。
誰が決めているのか。

運命の原因は過去の自己の業(行為)なのだ。
そのわが身のまいた因を明らかに見なさいと
仏教はおしえられているのです。

他の女性は、その男のために苦しんでいないのですから、
その奥さんだけが持つ原因があって、
不幸を生み出しているのです。

では、悪い夫は無罪放免なのか。
もちろんそうではありません。
このようなダメ夫(悪縁)は、
種々働きかけて更正させる努力が必要なのは当然です。
どうにも無理なら、遠ざけたり、
いっそ縁を絶つ(離婚)方法もありましょう。
「他因自果ではないか」と思う人のほとんどは、
因と縁とを混同している場合が多いようです。
ここが分からないと、筋違いな恨みや呪いを抱いて
一生を棒に振る人もありますから、
よくその違いを知っていただきたいと思います。

悪い種まき
 忘れていませんか?

また、自因自果と思えぬもう一つの理由に、
過去の悪い種まきを忘れていることが挙げられます。

「善い種をまいているのに、不幸ばかりやってくる」
と不満を漏らす前に、
自分のまいた種を静かに振り返ることが大事、
と仏教では教えられるのです。

アメリカの政治家、ベンジャミン・フランクリンに、
「貸し手は借り手より常に記憶がよい」
という格言があります。
お金を貸したほうは、
「あなたに、○年○月○日、○時○分、
あの場所で○円貸した」
と、死ぬまで覚えています。
ところが借りたほうは、
「あれ、そんなお金借りたっけ?」
と忘れがちです。
人間は、自分の都合のよいこと(善因)は、
しっかり覚えていても、
都合の悪いこと(悪因)は忘れやすい。
しかし、たとえ忘却しても、

まいたタネは必ず生えるのが因果の鉄則です。

私たちの肉体は、食べ物によって作られる。
食べた物(原因)の結果は、
5年も10年も後に現れるといわれる。
「簡単で、安く、おいしい」インスタント食品や
ファーストフードは好まれますが、
食品添加物が多く、害も多い。
安易にこれらを口にしては、すぐには体調不良にならずとも、
将来の病気の種にはなります。
ところが私たちは先週食べたものさえよく覚えていないので、
生活習慣病が発覚すると、
「なぜ、オレがこんなことになったのか」
と、診断結果に当惑するのです。
全ては自分の種まきに違いない。
他人が食べた物のせいでないのは明らかです。

そういうイヤな結果を変えたければ、
原因を変えよと因果の道理では教えられます。
「善因善果 自因自果」
は間違いありませんから、
努めて善い種まきに励みましょう。

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誰でもすぐに実践できる善い種まきを一つ紹介します。
仏教で教えられる「和顔愛語(わげんあいご)」です。

にこやかな笑顔と明るい挨拶が世の中を楽しくする、
と言われます。
わずかな心がけで、誰でもできる種まきから
始めてはどうでしょうか。

「そんなささいな種まきで、幸せになれるものか」
といぶかる人に、お釈迦さまはこんな例えで教導されています。

多根樹という大樹で有名な村へ、
お釈迦さまが赴かれた時のこと。
柔和な釈尊のお姿に接した貧しい主婦が、
昼食のために用意していた一握りの
「麦焦がし」を差し上げた。
釈尊は弟子の阿難に向かって、
「この女は今の善根によって、やがてさとりを開くであろう」
と仰った。
そばで聞いた女の夫が腹を立て、
「そんな出任せ言って麦焦がしを出させるな。
取るに足らぬ布施でどうしてそんな果報が得られるか」
と食ってかかる。

釈尊は静かに、
「あなたは世の中で、
これは珍しいというものを見たことがあるか」
と聞かれると、男は得意になって言った。
「あの多根樹ほど不思議なものはない。
一つの木陰に500両の馬車をつないでも、
まだ余裕があるからだ」
「そんな大きな木だからタネは、ひきうすぐらいあるだろう。
それとも飼い葉おけぐらいかな」
「とんでもない。そんな大きなものではない。
ほんのケシ粒の四分の一ほどしかない」
と男は答える。
「そんな小さなタネから、
そんな大木になるとは誰一人信じないだろう」
と仰ると、男はムキになり、
「誰一人信じなくても俺は信じている」
と大声で反発した。

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ここで釈尊は言葉を改められ、
どんな麦焦がしの小さな善根でも、
やがて強縁に助けられて、
ついにはさとりを開くこともできるのだ
」。
当意即妙の対機説法を聞いた夫婦は、
直ちに仏弟子になり真実に生きたという。

(※対機説法とは、相手に応じて教えを説くこと)

「千里の道も一歩から」というではありませんか。
ちょっとした種まきの積み重ねで、
人生は大きく変わっていくものです。

「和顔愛語」以外にも、
仏教ではたくさんの善が勧められています。
教えをよく聞き、日々よい種まきに努めれば、
待つ春の慈光(じこう)に浴して、
満開の花があなたの心にも咲くでしょう。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「こんな私でも幸せになれる?」
       「縁」の大切さを学ぶ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前半では、未来を変えるために
すぐ実践できる善い種まきを学びましたが、
すでにまかれた多くの悪因に
悩んでいる人もあるかもしれません。
しかし、

「どうせ、なるようにしかならない。これが人生よ」
と自暴自棄になる必要はありません。

ここでしっかり反省することが、「禅定」という、
これも善い種まきなのです。

過去を変えることはできませんが、
過去の種まきを反省し、正しい教えに従って、
ただ今から善い因(たね)を根気よく一生懸命まけば、
必ず人生は好転するのだよと、
お釈迦さまは励ましてくださいます。

次の質問から、特に縁の大切さについて話をしましょう。

寄せられた疑問2
業の深い私は、未来にもっと大きな苦しみが
あるのではないかと不安もあります。
こんな私でも幸せになることができるのでしょうか。


この疑問にお釈迦さまは、
どう教えられているのでしょう。
前述の通り、「因果の道理」とは、
詳しくは「因縁果の道理」で、
私たちの因が縁と結びついて結果を表すということです。
私たちの行為(因)を変えることによって
結果は大きく変わりますが、

縁によっても結果は大変わりします。

例えば、コシヒカリという名のモミダネを
新潟県の魚沼地方で育てますと、
全国でも有名で高値のつくおいしいお米になる。
ところが、そのコシヒカリのモミダネを
乾燥した国外へ持っていって育てても、
同じコシヒカリかと思うほど、
味が落ちてしまいます。
湿度や日照時間、水や土の質など育つ条件(縁)が変われば、
結果がガラリと変わるのです。

ある学習塾の先生が、中学生ほどの学力もない女子高生を、
難関の慶応大学へ合格させ話題を呼びました。
女子高生は「聖徳太子」を「せいとくたこ」
と読むような状態でしたが、
その先生の指導によって、
学力が一気にアップしたといいます。

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先生によって、勉強が好きになったり、
嫌いになったりした経験のある方も多いでしょう。
スポーツや芸術でも、指導者によって随分変わってきます。
本人の才能や努力はもちろん大切ですが、
その才能を育てる人(縁)もまた重要なのです。

学力アップを切望する人は、
教え上手な先生の塾に通ったり、
切磋琢磨するライバルがたくさんいる学校を選んだり、
スポーツ選手なら、コーチやチームなど、
向上できる環境を選ぶのです。


「朱に交われば赤くなる」。
親鸞聖人は、悪人には近づくなと
教誡(きょうかい)されています。

「『悪をこのまん人には、慎みて遠ざかれ、
近づくべからず』とこそ説かれて候え。
『善知識・同行には親しみ近づけ』
とこそ説きおかれて候え」
  (末灯鈔)
(「悪を好む人には、できるだけ近づくな、
善知識や同行には親しみ近づくがよい」と説かれている

好んで悪に走る人からは遠ざかり、
本当の仏教を説かれている先生(善知識)や、
ともに仏法の話ができる法友は
大いに親しみ近づきましょう。

縁によって、結果が驚くほど変わってしまうものに
炭素という物質があります。

地球上に無尽蔵にある炭素は、
常温・常圧の下では、炭です。
ところが、大変な高温と高圧の下では、
なんと地上で最も硬く、高価なダイヤモンドと輝くのです。

元は全く同じ炭素とは、とても思えないでしょう。
縁次第で結果が大変わりする好例です。

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人生も縁次第

価値のない、無味乾燥に思える私たちの人生も、
縁次第で無限に輝く人生となる。

ヘエ、そんな縁があるのかと、疑問に思う人もあるでしょう。
親鸞聖人は、
「ある」と断言され、それは「
弘誓の強縁」だ、
と仰っています。

主著『教行信証』の冒頭のお言葉です。

噫、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄信は億劫(おっこう)にも獲がたし」
(ああ・・・、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求めてきた歓喜の生命を得ることができた

「弘誓の強縁」とは、
「どんな人も 必ず 絶対の幸福に救う」
と誓われた、阿弥陀仏という仏さまの本願のこと。

私もあなたも一人も漏らさず、
すべての人と交わされた約束ですから
「弘誓(ひろい誓い)」と言われているのです。

人智を超えたその弥陀の本願には、
「幾多の生(多生)を経てもあえなかったが、今値えた。
気の遠くなるような長い間(億劫)にも得がたい絶対の幸福を、
今獲たぞ!」
と歓喜なされています。

幸せを求めながら悪業によって不幸へ突っ走る私たちを、
阿弥陀仏は、どこまでも追いかけ「堕としはしないぞ」と、
ものすごいお力で絶対の幸福に救い摂ってくださいます。

その阿弥陀仏の本願力は絶大ですから「強縁」と
親鸞聖人は仰り、その弥陀のお力をこうも讃嘆されています。

願力無窮(がんりきむきゅう)にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸も捨てられず
」(正像末和讃)
どんなに罪や悪が重くとも、心が散り乱れても、
阿弥陀仏の願力は無限だから、必ず救い摂られるのだ

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例えば、石は必ず水に沈みますが、
どんな大きな石でも、それを浮かばせることのできる
巨大な船に乗せれば、
水に浮かびます。

阿弥陀仏の本願の大船は、
どんな煩悩の巨魁・罪悪深重の私でも、
そのまま絶対の幸福に浮かばせてくださるのです。

弥陀の本願は弥陀の大慈悲心によって
つくられた船ですから聖人は、
「大悲の願船」とも記されています。
その「大悲の願船」に乗られた親鸞聖人は
「大悲の願船に乗って、光明の広海に浮かんだ」
と仰り、
どんな業の深い人も弥陀弘誓の強縁にあえば、
天に踊り地に踊り、一息一息が大安心・大満足でるのだと、

不思議な弥陀の本願力を私たちに伝えてくださいました。

では、どうすれば、そんな素晴らしい身に
生かされるのでしょう。

親鸞聖人のお答えは、
「聞思して遅慮することなかれ」
こんな私でも本当に助かるのだろうか、
阿弥陀さまのお力でも無理ではなかろうかなどと、
迷い計らい、もたもたせずに、
仏法をひたすら聞き抜きなさいよ
と、
聴聞の一本道を示されています。
「仏法は足で聞け」
と教えられます。
人生の幸せ、不幸せを左右する仏縁ですから、
遠くへ足を運んででも仏法は聞きなさいということです。
そのうち聞くつもりだ、
この仕事が終わったら聞こうなどと思っていたら、
あっという間に人生は終幕を迎えます。
いつ悪縁に引かれて聞けなくなるか分かりません。
今、すぐにでも聞法会場へ体を運び、
まことの弥陀の本願を大切に聞き求めましょう。

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・・・・・・・・・・・・・・・・
手記

厳しい「因果の道理」のバックには
弥陀の大慈悲がありました。

山森 貴さん(62・仮名)
誠実な人柄と、40年にわたる堅実な仕事ぶりを見込まれて、
経営者に抜擢されたという。
自宅には、500年前からのお仏壇があり、
蓮如上人直筆の御名号本尊がご安置されている。

ガソリンスタンドの経営者として多忙の中、
聞法に励んでいる山森 貴さん。
親鸞聖人のみ教えに出遇うまでは、
「人知れず消えてしまいたい。
そんなことばかり考えていた」
といいます。
一体、何があったのでしょうか。


年間約3万人ほどの日本の自殺者の中に入っていたはずの私が、
一枚のチラシを縁に、親鸞聖人と出会うことができました。

島根県雲南市の山奥に生まれました。
私が8歳の時、山で兄の切った大木が母の頭部を直撃。
頭の皮が剥がれ、悲惨な姿で、
私の目の前で母は息絶えました。
それから家の中は、母を亡くした父の悲しみと、
母を死なせた兄の苦しみで、
まるで鉛を抱えたような毎日でした。
母の死から五年、苦しみ抜いた兄は25歳で、
ある朝突然亡くなりました。
父も急な病で逝ってしまい、
私は20歳で天涯孤独となってしまったのです。

独りぼっちの私でしたが、やがて妻と出会い、
家を建て、3人の子供に恵まれました。

やっと人並みの幸福を手に入れたと思っていた矢先、
妻が腎臓を患い入院、7年の闘病の末、先立ってしまったのです。
末っ子が成人式を迎えた年でした。
妻と2人で過ごす老後、そんな夢ははかなく消え、
再び鉛のような重苦しいものが私の心を覆い、
自殺へと誘います。
「なぜ私だけこんなひどい目に。
どうせ私はみんなを不幸にする悪魔なんだ。
だから、今すぐ死んだほうがいい。
でも死ぬのは恐ろしい・・・」
鉛を抱えて13年、「もう限界」と思っていたその時、
一枚のチラシが届いたのです。
忘れもしません。
3年前の7月でした。
チラシの案内に従い、恐る恐る出かけた会場で、
アニメの親鸞聖人に出会いました。
「明日ありと 思う心の 仇桜(あだざくら)
  夜半に嵐の 吹かぬものかは」
ああ親鸞さまも、お父様、お母様と
悲しい別れをなされたのですね・・・。

●鉛の心も
      私が生み出していた

翌月も聞法に出掛け、初めて「因果の道理」を
聞かせていただきました。
「自分の運命の全ては、
自分の行為が生み出したものである」
と仏教では教えられます。
えーっ、この鉛のような寂しさも苦しさも、
全部、私が生み出したと言われるんですか!
午前中の話があまりに身にこたえ、
「もうその話はやめてください!」
と、何度、手を挙げて叫ぼうかと思ったかしれません。
しかし、それに耐えて続けて聞かせていただくにつれ、
不思議なことに、永年抱えてきたあの鉛の心が、
まるで太陽に照らされた雪のように消えていったのです。
厳しい「因果の道理」のバックには、
温かい阿弥陀如来の大慈悲がありました。
聞法の場が、まるで母の懐にいるような、
懐かしい、温かい所となりました。
こんな幸せな日が来るなんて、
全く予想もしていませんでした。 

今、母と父と兄と妻に、
心から感謝の言葉を贈りたいと思います。
「ありがとう、身をもって教えてくれたんだね。
私の後生の一大事を」
死ぬことばかり考えていた私が、
「なぜ生きる」の答えをハッキリ知らされました。
鉛の心を、聞法の喜びに変えてくださった阿弥陀如来、
親鸞聖人に心より感謝せずにおれません。
この阿弥陀如来の大慈悲を、何としても多くの人に
伝えなければなりません。
かつて私のように鉛の心を抱えた人が、
すぐそばにも、きっといるはずだからです。

 

 


 


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