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弥陀は逃げ回っている我々を追い詰めて救う! [阿弥陀仏]


(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

      (親鸞聖人・教行信証総序)

まことだった!本当だった。
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、
この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい

最初に親鸞聖人は「誠なるかなや」と言われています。
これは、「本当だった」「ウソではなかった」
という喜びの言葉です。
裏を返せば、それまでは「本当だろうか」
「ウソではなかろうか」
と疑っていたということです。

例えば、腹痛で苦しんでいる時、
「この特効薬をのめば、あなたの腹痛は治りますよ」
と言われても「ホントかな」と疑う。
ところが、のんだ途端に腹痛がピタリと治まれば、
「ホントだった」と知らされます。

では、親鸞聖人は、何に対する疑いが晴れ、
「誠なるかなや」と仰ったのでしょう。
それは、次のお言葉、「摂取不捨の真言」
が誠だったと言われているのです。

「摂取不捨の真言」とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。
すべての仏の師匠・阿弥陀仏が誓われたお約束で、
『歎異抄』の冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。
それは、

どんな人も、
必ず摂取不捨の利益(絶対の幸福)に救う

誓いです。

ここで、
阿弥陀仏が約束されている相手「どんな人も」とは、
「すべての人」のことですが、
それはどんな者なのでしょう。

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阿弥陀仏は、私たちすべての人間を
どのようなものと見て取られて、
摂取不捨と誓っていられるのでしょうか。

「煩悩具足の者」と見られています。
煩悩とは、欲、怒り、妬みそねみといった醜く恐ろしい心。
煩悩具足とは、煩悩の塊、ということです。

「花より団子」「花の下より鼻の下」で、
美しい桜の下、飲んだり食べたりでルンルンで、
私たちは煩悩がフル回転します。
酔っ払って我を忘れ、
ケンカや醜態をさらすのも煩悩の仕業です。
4月の誕生石はダイヤモンド。
宝石に目がくらむのは財欲のため。
欲のままに行動に移せば恐ろしい事件へと発展します。
以前、49歳の男が、
指輪など293点(約1億4000万円相当)
を奪ったうえ、店長と従業員5名を拘束し、
火をつけ、6人を殺害した事件があった。
この男は死刑になりました。
「わが子を注目させたい」のは名誉欲。
学芸会の劇で、主役をめぐって争う
親のモンスターぶりをしばしば耳にします。
日本のある学校で、
「白雪姫の劇の主役が一人なのはおかしい」
と複数の親が教師に迫った。
結局、白雪姫を25人に増やし、小人役なし、
魔法使いのおばあさん役なしの話に仕立てあげたという。
これはイギリスの大手新聞『タイムズ』紙にまで取り上げられ、
「アメリカも同じ」「韓国でも似たようなことがある」
とのコメントが寄せられ物議を醸しました。

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「主役問題」は、さらに深刻な事件にも発展します。
これは、ロシアの名門バレエ団であったこと。
『白鳥の湖』の主役をめぐるトラブルで、
配役を決める監督が顔に強酸性の薬をかけられ、
失明の危機に陥りました。
犯行の指示をしたのは団員の一人。
恋人の女性ダンサーが主役を希望したのに、
「鏡を見てみろ」と拒否された怨恨からの復讐でした。
傷つけられた名誉欲が、恨み・怒りとなったのです。

保険金殺人、ストーカー事件、食品偽装、毒物混入・・・。
世の中を騒然とさせるニュースは、
人間の煩悩によるものばかりです。

「世の中、悪いヤツがいるものだ」
と思われるかもしれませんが、
ほかでもない、これは我々のことなのです。

親鸞聖人は、「すべての人が煩悩具足なのだよ」と、
こう言われています。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて
欲もおおく、瞋り(いかり)腹立ち、
そねみねたみ心間(ひま)なくして、
臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず

          (親鸞聖人・一念多念証文)

人間は、死ぬ(臨終の一念に至る)まで、
煩悩が止まることも、なくなることもないのです。
そして、縁さえ来ればどんなことでもする親鸞だ
と、
こうも告白されています。

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」(歎異抄)
口や身体に出さないのは「縁」が来てないだけ。
心の中では、誰にも言えない恐ろしいことを
思い続けている、との懺悔です。

蓮如上人は、
阿弥陀仏は、全人類を“すべての仏に見捨てられた極悪人”
と見て取られている

と、『御文章』で、こう教えられています。

空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

            (二帖目八通)
ここで「極悪人」といわれているのは、
倫理道徳でいうような悪人ではありません。
仏の眼からご覧になった私たち人間の姿なのです。

善導大師でさえ

善導大師は、親鸞聖人が大心海化現の善導と
尊敬されているお方です。
(※大心海化現・・極楽浄土から
仏さまが姿を変えて現れたこと)
この善導大師は、「30余年、別の寝処(しんじょ)なし」
と言われ、30年以上、布団を敷いて休まれませんでした。
夜更けまで仏法の研鑽に励まれ、
そのまま机のうつぶすようにして休まれたのです。
また、淫らな心が生じないよう、
母親以外の女性を一切、見られなかったともいわれます。

ところが、同じ善導大師が、
心は一日、八億四千遍もコロコロ変わり通しだ。
思っていることは皆、地獄行きのタネばかり

と次のように言われています。

一日のうちに八億四千の憶い(おもい)あり、
念々になすところこれみな三塗の業なり

(三塗の業・・・苦しみの世界に沈むタネまき)

これは、阿弥陀仏によって照らし出された自己の実態であり、
倫理道徳レベルの問題ではありません。
仏の眼からごらんいなれば、万人が例外なく、
「煩悩具足」「諸仏に捨てられた極悪人」なのです。

しかし、うぬぼれ強い私たちは、とてもそうは思えず、
「そこまでひどくない」「どこを見てるのだ」とはねつける。
その心は、「阿弥陀仏は私を見損なっている」と、
弥陀の本願を疑っている心です。

この本願疑惑心を「疑情」といいます。
物や人に対する疑いではありません。
阿弥陀仏の本願に対する疑いだけを「疑情」というのです。

逃げる者を、追いかけ、追い詰め、助ける

阿弥陀仏は、すべての人を「煩悩具足の者」
「諸仏に見捨てられた者」とお見抜きのうえで、
「摂取不捨の利益(絶対の幸福)に必ず救う」
と誓っておられます。

摂取」の摂とは、逃げ回っている者を、どこまでも追いかけ、
逃げ場がなくなるまで追い詰めて助ける、ということ。
阿弥陀仏が追いかけ追いかけ助けようとされているのに、
私たちは逃げ回っている。


こう聞いても、
「いや、私は阿弥陀さまに助けてもらいたいと思っています。
逃げるなんてとんでもない」
と反発する心が出てくるでしょう。

これも弥陀の本願を疑う心、“疑情”です。
私たちは、阿弥陀さまの御心に背き、
逃げ回っていながら、その自覚すらありません。

これこそ、煩悩具足の姿なのです。
ある講演で、助かりたいと思いながら逃げている姿を、
こう例えられました。

       ■       ■
以前、友達と散歩していた時、
城の空堀に子犬が落ちているのを見つけた。
石垣はほとんど直角。
小犬は何度も堀から上がろうとしたが、
ツルツルと滑って落ちてしまう。
このまま雨が降り、水がたまれば死んでしまう。
何とか助けてやりたいと、
板を持ってきて、堀から上らせようとするが、
犬は逃げ回る。
ひどい目に遭わされるのではと疑っているのだろう。
鬼が来たとでも思っているのか。
こちらは助けたい一杯、犬も助かりたい一杯。
なのに、逃げ回り続ける。
長い時間かけてようやく逃げ場のない隅に追い詰め、
やっと引き上げることができた。
小犬は、広い世界に出て、飛び跳ねる。
私たちもまた喜んだ。

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     ■      ■

助かりたいと願いながら、助ける人を疑い、
逃げ回る小犬。
弥陀を疑っている私たちも同じなのです。

煩悩具足の者は、真実から逃げ回っている。
そういう者を、ガチッと摂め取って、
二度と捨てない絶対の幸福に救ってみせる
と誓われた真実の言葉が弥陀の本願なのです。

●「まこと」と知らされる2つのこと

親鸞聖人も、救い摂られるまでは
弥陀の本願を疑っておられた。
だからこそ、弥陀に摂取され疑情が破れて、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言」
と仰ったのです。
これは、「まことだった!本当だった。
無上の仏さまを疑い、逃げ回っていた親鸞を、
絶対の幸福に救うと誓ってくだされた
弥陀の本願まことだった」
という懺悔と歓喜のお言葉なのです。


このことを「信心数え歌」には、
逃げてもにがさぬ御慈悲とは、
ほんに今迄知らなんだ

と歌われています。

『歎異抄』には、こう述懐されています。

しかるに仏かねて知ろしめして、
煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、
他力の悲願は、
かくのごときの我らがためなりけりと知られて、
いよいよ頼もしく覚ゆるなり

        (歎異抄第九章)
とうの昔に弥陀は、煩悩の巨魁が私だと、
よくよくご存じで、その私を救わんと
本願を建ててくださったのだ。
感泣せずにおれないではないか。

このように、弥陀の本願に疑い晴れて「誠だった」と
知らされることは2つあります。

一、煩悩具足で、諸仏に見捨てられた極悪人が
私であったと知らされる。
(自分の本当の姿がハッキリする)

二、絶対の幸福に救う(摂取不捨)と誓われた阿弥陀仏の本願、
まことだったと知らされる。(救いの法がハッキリする)

煩悩以外に何もない私たちが、本当の幸せになるには、
阿弥陀仏のお力による以外ありません。

仏法を聞く目的は、知識欲を満たすためではありません。
「摂取不捨の真言まことだった」
と弥陀の本願に疑い破れるまで、
真剣に聞かせていただきましょう。

 


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