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あなたの信心は崩れないものに樹(た)っていますか!? [親鸞聖人]

「物に本末あり、事に始終あり」といわれるように、
本が分からなければ、
そのあとは全く分からなくなってしまうからでしょう。
親鸞聖人の教えの本(もと)は、『正信偈』の最初の二行にあります。
この二行が分からなければ、聖人の教えは毛頭分かりません。
そこで、冒頭の二行について詳説いたしましょう。

●『正信偈』=「正しい信心のうた」

『正信偈』は親鸞聖人の書き残されたものです。
約800年前、京都にお生まれになられ、
90歳でお亡くなりになった聖人は今日、
世界の光と大変多くの人から尊敬されています。

『知ってるつもり!?』というテレビ番組では、
戦後出版された本の中で、
一番多く語られた「歴史上の人物ベストワン」
と紹介されました。

その親鸞聖人の『正信偈』は、浄土真宗の家では朝晩、
勤行(おつとめ)で拝読されていますので、
最初の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
は、子供でも口ずさむほど、特に有名です。

ドラマや映画の葬儀の場面でよく読まれているのも、
それほど親しまれているからでしょう。

漢字ばかりなのでお経だと思っている人がありますが、
『正信偈』はお経ではない。

お経はお釈迦さまのお言葉を書き残したもの、
『正信偈』は親鸞聖人の書かれたものですから、
お経とは違うことも知っていただきたいと思います。

この『正信偈』には、親鸞聖人90年の教えすべてが
収まっています。

「偈」というのは「うた」ということですから、
正信偈』は「正しい信心のうた」ということです。

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●生きる=信じる

「信心」と書くと、自分とは関係のないことだと
思われる人もありましょうが、

私たちは何かを信じなければ
一日なりとも生きてはいけません。

例えば、明日も生きておれると「命」を信じて生きています。
「いつまでも達者でおれる」と健康を信じています。
夫は妻を、妻は夫を信じ、子供は親を、
親は子供を信じ生きています。
また「これだけお金があるから大丈夫」「財産があるから安心だ」
と、金や財産を信じて生きています。

オレは社長だ」「ノーベル賞を取った」
と、地位や名誉を力にしている人もあるでしょう。
「宗教はアヘンだ」と排斥する共産主義は、
共産主義を信じている人たちです。

「科学は人類を幸福にする万能だから、
信心なんて必要ない」と言っているのは、
科学信心の人です。

神や仏を信じるだけが信心ではありません。
何かを信じておれば、それはその人の信心です。
何を命として信じるかは一人一人違いましょうが、
すべての人は何かの信心を持って生きているのです。
生きるということは、イコール信じることだといえましょう。

苦しむ原因

ところが私たちは、信じていたものに裏切られた時に
苦しみ悩みます。
  
病気になると、健康に裏切られたことで苦しみます。
子供に虐待されて泣くのは、
命と信じて育てた子供に裏切られたからです。

しかも深く信じていればいるほど、
それらに裏切られた時の悲しみや怒りは大きくなります。

私たちは決して苦しんだり悲しんだりするために
生まれてきたのではありません。 
生きているのでもありません。
幸福を求めて生きているのです。


では、裏切らないものを信じて、
私たちは生きているでしょうか。  

たとえ70年、80年信じられるものがあったとしても、
最後、死なねばなりません。

いよいよ死んでいかねばならない時には、
信じていた家族や、お金や財産、名誉にも裏切られ、
この肉体さえも焼いていかなければなりません。

蓮如上人のご金言

蓮如上人は有名な『御文章』に、こうおっしゃっています。

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、
唯一人こそ行きなんずれ

かねてから頼りにし、力にしている妻子も財宝も、
死んでいく時には、何一つ頼りにならぬ。
みんなはぎ取られて、一人でこの世を去らねばならない

病気の時は妻や子供が介抱してくれると、
あて力にもなりましょうが、死ぬ時は、
どんな愛する家族もついては来てくれないのです。

どれだけお金があっても、財産を持っていても、
死んでいく時は紙切れ一枚持ってはいけない。
全部この世に置いていかねばなりません。
地位も名誉も何一つ明かりになるものはありません。

「人間は最後、丸裸になって、たった一人で暗黒の後生へと
旅立っていかなければならない」

と言われているのです。

   ■    ■    ■    ■

昔、ある金持ちの男が3人の妻を持って楽しんでいた。
第一夫人を最も可愛がって、寒いと言っては労わり(いたわり)
暑いと言っては心配し、
ゼイタクの限りを尽くさせ一度も機嫌を損なうことはなかった。
第二夫人は、それほどではなかったが、
種々苦労して、他人と争ってまで手に入れたので、
いつも自分のそばに置いて楽しんでいた。
第三夫人は、何か寂しい時や、悲しい時、
困った時だけ会って楽しむ程度であった。
ところがやがて、その男が不治の病床に伏すようになった。

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刻々と迫りくる死の影に恐れおののいた彼は、
第一夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、
ぜひ死出の旅路の同道を頼んだ。
ところが、「ほかのことと違って、
死の道連れだけはお受けすることはできません
」と、
すげない返事に男は絶望のふちに突き落とされた。

しかし、寂しさに耐えられぬ男は、
恥を忍んで第二夫人に頼んでみようと思った。
貴方があれほど、かわいがっていた第一夫人さんでさえ、
イヤとおっしゃったじゃありませんか。
私もまっぴらごめんでございます。
貴方が私を求められたのは、貴方の勝手です。
私から頼んだのではありません
」。
案の定、第二夫人の返事も冷たいものであった。

男は、恐る恐る第三夫人にすがってみた。
日ごろのご恩は、決して忘れてはいませんから、
村外れまで同道させていただきましょう。
しかし、そのあとはどうか、堪忍してください

と突き放されてしまった。

男は独りこの世を去った。

■    ■     ■     ■

これは、お釈迦さまの『雑阿含経』に
説かれている有名な例えです。

男というのは我々人間。
「不治の病に伏した」とは、
もとより人間はオギャッと生まれた時から、 
百パーセント死ぬに定まっていることです。

「散る桜 残る桜 散る桜」
といわれるように、ガンや交通事故、火災、
震災の犠牲者だけが亡くなっているのではない。
すべての人が、一息一息、死の滝壺に向かって
確実に進んでいる厳粛な事実を
「不治の病にかかっている」と言われているのです。

最愛の「第一夫人」とは、肉体のことです。
暑ければクーラー、寒ければヒーターで
体調を壊さぬよう気を遣います。
還元水がよいらしい、空気清浄器が室内の除菌もしよう。
サプリメントだ、野菜ジュースだと
健康食品は巷にあふれています。
ちょっとでも熱が出ると、医者だ薬だと慌て、
小さなトゲ一本指に刺さっても、ほっておきません。
体型をいつまでも美しく保ちたいと
死ぬ思いまでしてダイエット。
シャンプーはどれにしよう、洗顔料はこのメーカーに決めた。
大金を投じ、危険を冒して整形手術。
爪にまで絵をかいたり宝石つけたりネールファッションや、
ヘソにもピアスなどなど。
毎日、風呂できれいに磨き、
大事にすることこの上ない肉体を、
欲しいものは何でも与えていた
第一夫人に例えられているのです。

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ところがその肉体も、死ねば焼いて灰になる。
残るのはひとつまみの白骨だけ。
生まれてから片時も離れたことのない肉体も、
死に道連れだけはしてくれない。
魂は独り後生へと旅立っていかねばなりません。

小指一本切り落とされてさえつらいのに、
肉体のすべてを失う痛苦は、いかばかりでしょうか。

「第二夫人」は金銀財宝です。
人と争い、時にはライバルをダマし蹴落とし、
引きずり降ろして奪い取ってきた金も財産も、
後生には一円玉一つ持ってはいけない。
肉体でさえ先のごとくですから、なおさらです。
第一夫人さんでさえ、イヤと言ったじゃありませんか・・・」
の冷酷な宣言は、
万人の直面する悲劇をあらわにされたものです。

「第三夫人」は、父母・妻子・兄弟・朋友など
のことをいわれています。

通夜に駆けつけ、葬儀に参列し、
火葬場まではついてきてくれるでしょう。  
しかし、そこまでです。
命に代えて、大事に愛し求めてきた一切のものから見放され、
何一つあて力になるものがなかったことに驚き悲しむ、
人間の哀れな実態を、この「三人の妻」は
例えて余すところがありません。 

秀吉の最期

太閤秀吉の波乱の生涯と、寂寥たる最期は、
仏説まことの実証でしょう。

尾張(愛知)の貧農の子に生まれた豊臣秀吉は、
15歳で家を離れ、後に織田信長に仕える。
草履取りから足軽、侍大将と順調に出世し、
20数年で長浜と姫路に城を構えるという異例の昇進。
信長に反旗を翻した明智光秀を破り、
49歳で念願の「関白」、
怒濤の天下統一を成し遂げたのは54歳のことです。
派手好みの生活は、時の人の目を奪った。
日に三万人を動員して建設した、
壮大な「大阪城」の総面積は百万坪を超え、
建築総額は今日の3兆円に上る。
天守閣のかわらや壁に惜しげもなく金箔を施し、
城内の「黄金の茶室」は、天井、壁、柱、敷居まで、
すべて金。
かま、茶杓、茶碗なども黄金で造らせた。
京都の華麗な別荘「聚楽第」は、
銘木、名石を広く集めて造らせ、
堀と石垣を巡らせた堂々たる邸宅は
「黄金の屋敷」といわしめた。

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多くの美女をはべらせ、各地の金山、銀山は思いのまま。
一族、公家、大名を集めては金配り。
立身出世の夢果たし、贅沢三昧、
思う存分ふるまった彼が、
しかし62歳で病没した時の時世に、
世人は耳を疑います。

露とおち 露と消えにし わが身かな
 難波のことも夢のまた夢」
愛欲も映画も、ああ、夢の中の夢だった。
死を前にして一切が光を失った。
バカだった。こんなはずではなかった。


咲き誇った花も散る時が来るように、
死ぬ時には、必死にかき集めた財産も、名誉も地位も、
すべて身から離れて、独りで地上を去らなければなりません。
これほどの不幸があるでしょうか。

やがて必ず裏切るものを信じて生きているから、
苦しみ悩みが絶えないのだ、本当の幸福になりたければ、
絶対に裏切ることのない正しい信心を持ちなさいよと、
親鸞聖人は教えられているのです。

一切の滅びる中に滅びざる、真の幸せ

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正信偈の「正」という字は、「一に止まる」と書きます。
正しいものは一つしかない。
二つも三つもあるものではありません。
その唯一つの正しい信心を明らかになされたのが
『正信偈』であり、
聖人自身の、
正信心を獲得なされた驚き・満足・大歓喜を
生々しく告白されているお言葉が、
初めの2行なのです。

帰命無量寿仏如来(無量寿如来に帰命し)
南無不可思議光(不可思議光に南無したてまつる)

親鸞は、阿弥陀如来に救われたぞ!!
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ!!」

何があっても微動だにせぬ金剛の信心を体得され、
生きてよし、死んでよし、焼けもせず、流されも、
盗まれもしない絶対の幸福に救い摂られた喜びを、
叫び上げておられるのです。

親鸞聖人のすべての根本がここにあります。
90年の生涯、波乱万丈のたくましい生きざまの源泉が、
『正信偈』冒頭の二行にあるのです。


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