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あなたもお釈迦さまの親友にならせていただきましょう! [釈迦]

ともに喜び、励まし合い、
苦しみを乗り越えてきた「親友」の存在は、
何年たっても大きいもの。
友人を見ればその人が分かる”ともいわれるように、
どんな友を持つかで、人生は大きく変わります。
今日、世界の三大聖人のトップに挙げられるお釈迦さまから、
「あなたは私の善き親友だよ」
と手を差し伸べていただけたなら、どうでしょう。
そんな夢のようなことがお経に説かれています。
どんな人がお釈迦さまの親友になれるのでしょう。

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だれかに認めてもらいたい

「一年の計は元旦にあり」といわれるように、
年の始めに“目標”を立てる人は少なくありません。
(平成22年1月のとどろきを載せています)
受験生なら「志望校合格」、ビジネスマンは「昇給・昇進」、
メタボを気にして「今年こそダイエットを!」
という人もあるかもしれません。
目標が定まれば、あとは努力あるのみ。
順調な時ばかりでなく、壁にぶち当たり、
くじけそうになっても、それを突き抜けて頑張れば、
その結果は自らにすべて現れてくるものです。
しかし、そんな努力がだれからも評価されなければ、
“あんなに頑張ったのに・・・”とたちまち落ち込んでしまいます。

「あの大学に合格するなんてステキ」
「部長に昇進したのか、すごいなあ」
「10キロもやせたの?うらやましいわ」
と一言でも言ってもらえれば、
ああ、頑張ってよかったと思えるでしょう。

生きていく上で、周囲に認められることは
非常に大事なことだと分かります。

心に残る褒め言葉が人生を変えることさえあるのですから。
私たちが努力するのは、“誰かに褒められ、認められる”ため。
自分を認め、受け入れてくれる相手を
私たちは常に求めているともいえましょう。

そんな人が一人でもいれば、
生きる勇気や元気がわいてくるものです。

寒い中、仕事で疲れた体を引きずって帰宅した夫に、
妻が声をかける。
「おかえりなさい、寒かったでしょう。
いつもお仕事ご苦労さまです」
この一言で、彼は元気百倍、
「なーに、これくらいの寒さなんか平気さ。
もういっぺん行ってこようか!」
となる。

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あるいは、日々家事に育児に奮闘し、
心身ともに疲弊している奥さんには、
「毎日頑張ってくれてるね。ありがとう」
夫の言葉が何よりの栄養剤となるでしょう。

考えてみますと、私たちは朝から晩まで
他人の評価を気にしています。

朝起きてまず顔を洗い、髪を整えるのは
他人に笑われたくないからです。
キレイな人と言われたい、老けて見られたくないから、
化粧や服選びも真剣。
会社で一生懸命働くのも、学校で勉強するのも、
評価を気にしてのことです。

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世界中の称賛を浴びる、しかし・・・

そんな私たちが、世界中の人々から称賛されたなら、
どれほどの喜びでしょう。
多くのスポーツ選手があこがれるオリンピック。
カナダ・バンクーバーでの冬季五輪もあと一月に迫りました。
(平成22年のとどろきです)
ちょうど4年前、トリノ大会で日本唯一の金メダルを獲得したのが、
フィギア・スケートの荒川静香さんです。
幼い頃から天才と呼ばれ、16歳で長野五輪に出場。
しかしその後は成績不振に悩み、
早々に引退を考えていたといいます。
起伏の激しい競技生活で苦悩を乗り越え、
つかんだ世界一でした。
特に話題になったのは
上体を大きく反らせる「イナバウアー」の美しさ。
その時の気持ちを荒川さんは、
自身のホームページでこうつづっています。
「驚くほどの知名度になった『イナバウアー』からの
ジャンプコンビーネーションは、
音楽がすごく心地よく感じられ、
何よりお客さんの歓声が忘れられないほど嬉しかったし、
気持ちよかった!(中略)
色々なことを思い出しながらこれまでやってこられた事に満足、
嬉しい気持ちいっぱいで
最後のストレートラインステップを踏んでいました」
荒川さんの味わった世界一の栄誉を目指し、
今日も選手たちは厳しいトレーニングに励んでいることでしょう。

政治、経済、科学、医学、芸術、文学など、
いずれの分野でも、多くの人々から称賛を受けることができるのは、
恵まれた才能を持ち、抜きん出る努力をしてきた一握りの人です。
ところが、世間で認められたといっても、
大衆の心は移ろいやすいもの。
その評価はコロコロと変わってしまいます。

有名なナポレオンは、約200年前、
フランス皇帝として二度称賛を浴び、
二度島流しに遭ったといいます。
そんな彼は他人の評価をこう受け止めていました。

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イタリア、オーストリアと戦い、
連勝のナポレオンが凱旋した。
イルミネーションや旗行列、たいまつや鐘、祝砲など、
国民の慶賀は、その極に達する。
部下の一人が、恭しく祝辞を述べた。
「閣下、このような盛大な歓迎を受けられ、さぞ、
ご満悦でありましょう」

意外にもその時、ナポレオンは、冷然と、こう言っている。
ばかを申すな。表面だけの騒ぎを喜んでいたら大間違いだ。
彼らは、少しでも情勢が変われば、
また“断頭台に送れ”と言って、やはり、
このように騒ぐであろう。
雷同の大衆の歓迎など、当てになるものか

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現代でも、期待されて発足した政権が不祥事で支持を失い、
退陣を余儀なくされたり、
一発ギャグで人気を博したお笑いタレントも、
数年後にはパッタリ見かけなくなったりと、
世間の評価は目まぐるしく変わり、
当てにならない例は事欠きません。
「今日ほめて 明日悪くいう 人の口
泣くも笑うも ウソの世の中」
とトンチで有名な禅僧・一休が詠んでいるとおりです。

仏さまから褒められるのは

仏教では、そんな当てにならない人間の評価に
一喜一憂していても幸せはなれない、
それよりも仏さまから褒められる身になりなさい、
と教えられ
親鸞聖人は『正信偈』に、

一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来弘誓願を聞信すれば)
仏言広大勝解者(仏は広大勝解の者と言い)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名く)

どんな人も、如来の弘誓願を聞信すれば、
仏さまから「広大勝解者(こうだいしょうげしゃ)」
「分陀利華(ふんだりけ)」と褒められる身になれる”
と説かれています。

「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)」
とは私たち「すべての人」のことです。次の、
「聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信ずれば)」
の「如来」は、阿弥陀如来のこと。
「阿弥陀仏」とも「弥陀」ともいわれます。
仏とは、最高無上のさとり(仏覚)を開かれた方をいいます。
低いさとりから高いさとりまで
全部で52ある「さとりの五十二位」のうち、
最高のさとりが仏覚です。
一段違うだけでも人間と虫けらほど
境界(きょうがい)の差があるといわれますから、
五十二段の仏覚の境地は、私たちの想像も及びません。

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地球上で仏のさとりを開かれたのは
お釈迦さまただ一人ですが、
大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、
そこには無数の仏さまがまします、
とお釈迦さまは説かれています。

その大宇宙の諸仏方が、
先生と尊敬し手を合わせる仏さまが、
阿弥陀如来です。

十方諸仏の一人であるお釈迦さまも、

無量寿仏の威神光明は最尊第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり

            (大無量寿経)
“阿弥陀如来のお力は、大宇宙最高であり、
十方の諸仏が総がかりになっても及ばない”

諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり
             (大阿弥陀経)

と一切経の至るところに讃嘆なされています。

親鸞聖人は「無上仏」と仰がれ、
蓮如上人も「本師本仏」と『御文章』に称揚されています。

阿弥陀仏といってもお釈迦さまといっても、
名前が違うだけで同じ仏さまだろう、
と思っている人がありますが、
それは大変な間違いであると分かるでしょう。

その本師本仏の阿弥陀如来が、
苦しみ悩む私たちすべての人を
必ず絶対の幸福に救い摂ってみせる、
と尊い願を建てられました。

これを「如来弘誓願」といわれています。
「聞信する」とは、この本願のとおりに
救い摂られたことをいうのです。

「仏言広大勝解者 是人名分陀利華
(仏は広大勝解の者と言い、是の人を分陀利華と名く)」
といわれる「仏」は、お釈迦さまも含め十方諸仏のこと。
「広大勝解者」は大学者、
「分陀利華」はめったに咲かない白蓮華ですから、

大宇宙のすべての仏が、
“あなたは仏教の大学者だ、
白蓮華のようなめったに咲かない尊い人だ”
と褒められる身になるのだ、
と聖人はおっしゃっているのです。

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人からこう言われてさえうれしいのに、
すべての仏さまから絶賛される。

これほどの喜びはありません。
これは主著『教行信証』に聖人が、
「金剛の真心を獲得(ぎゃくとく)する者は、
横に五趣・八難(ごしゅはちなん)の道(どう)を超え、
必ず現生に十種の益を獲(う)」
と本願に救い摂られて得られる十の幸せを教えられた中の、
「諸仏称讃の益」
(大宇宙のすべての仏方に褒められる幸せ)
のことです。

苦難に立ち向かう勇気の源

いつ一日として修行したこともなく、
朝から晩まで、あれが欲しい、
これが足りないと欲に振り回され、
それがかなわずに怒り、恵まれた人を見ては
ネタミ・ソネミの心がわき起こる。
一時として心穏やかならぬこんな私が、
弥陀の不思議の願力によって、
浄土往生間違いない身に救われたならば、
その人をお釈迦さまは、
「わが善き親友なり」
と手を差し伸べてくださることを、
経典に説かれています。

“私の先生に救い摂られたあなたは、この釈迦の親しい友人だ”
と仰せられているのです。

孤立無援の時、「あなたの味方だよ」
と理解してくれる人が現れたら、
どんなに心強いでしょう。
まして地球上で最も偉大な釈尊から
「親しき友よ」と呼びかけられたら、
これほど元気・勇気の出ることはありません。

29歳で弥陀に救われ、
無碍の一道の世界に出られた親鸞聖人は、
諸仏に称賛されている大自覚がありました。

ですから世間の人々の非難攻撃を一身に受けられても、
「人倫の哢言(ろうげん・嘲り)を恥じず」
と勇気をもって驀進(ばくしん)されたのです。

“波乱万丈”という言葉は
まさに聖人のためにあるとしか思えない、
たくましき一生です。
31歳の時、僧侶には固く禁じられていた肉食妻帯を、
公然とされました。
世間中から“破戒僧、堕落坊主、仏教を破壊する悪魔”
など、ありとあらゆる悪口雑言が浴びせられましたが、
すべての人が救われるのが
本当の仏教であることを明らかにするために、
断行なされたのです。

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35歳、権力者の横暴で越後(新潟)へ流刑に遭われた時も、
“これも越後の人々に弥陀の本願を伝えるご縁”
と布教に立ち上がっておられます。
“親鸞は坊主じゃない”との非難には、
「そうだ、オレは坊主じゃない」
と高らかに「非僧非俗」を宣言。
国家権力の認める僧侶ではないから「僧に非ず」、
しかし契約に基づいて働き
収入を得る世間の仕事人でもないから「俗に非ず」。
弥陀の本願一つを伝える真の仏弟子の信念を生涯貫かれました。

聖人が『正信偈』に
「仏言広大勝解者 是人名分陀利華」
と書き記されたのは、私たちに早く
“弥陀に救われ、諸仏から褒められる身になりたい”
という心にさせよう、のお気持ちからでしょう。

“この親鸞もなれた。あなたも如来の弘誓願(弥陀の救い)
を聞信すればなれますよ”
と朝晩の勤行で教えてくださっているのです。
弥陀の本願を聞信し、
お釈迦さまの「親友」とならせていただきましょう。


タグ:親友 釈迦
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