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「しあわせ」の道しるべ [親鸞聖人]


 (真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています。)
 
ふつうに生きる私たちのたった一つの願い。
それは「しあわせになりたい」ということです。
でも、毎日そのために頑張っているのに、
なぜか努力は空回り、と感ずることはないでしょうか。
一体、何を求めたら、「本当のしあわせ」になれるのでしょう。
その答えを教えられた方が親鸞聖人です。
ユウ子さんの事例を通して学んでみましょう。
「しあわせ」の
       道しるべ

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
会社と家の往復。代わり映えのしない毎日。
何かが足りない・・・・

「やだ、私泣いてる・・・」
ガラスに映った自分の姿に、ユウ子は慌てて顔をぬぐった。
都内の大手出版社に勤めるユウ子は、40代前半。
ファッション誌の編集を手がけ、数々の流行を生み出してきた。
自立した女性として生きてきた自負もある。
だがこの数年、目に見えて体力が落ち、
若い時のような無理は利かなくなってきた。
仕事への興味も薄れ、先のことを考えると不安になる。
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“私は幸せに向かって生きているのかなぁ”
会社と家の往復。代わり映えのしない毎日。
何が足りないわけではないが、心が満たされない。
そんな心を持て余し、最近はベッドの中だけでなく、
通勤電車でも、ふと涙があふれてくる。
〈生きる意味って、何ですか?〉
ユウ子は、よく見るインターネットの掲示板に問いかけてみた。
すぐにたくさんのコメントがつく。
多くの人が「私も同じ気持ち」と共感してくれた。
こんな回答もあった。
〈生きることに意味なんてない。
生きるために生きるのだと思う〉
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「うーん」
仕事が楽しかった二十代なら、これで満足したに違いない。
だが、今のユウ子を励ます力はなかった。
「なぜジョギングするの?」と尋ねて、
「ジョギングするためにジョギングする」
と答えられてもよく分からない。
「なぜ生きるか」の問いに、
「生きるために生きる」というのは、
「泳ぐために泳ぐ」というのと同じである。
流れに漂う浮草は、あてどもなく行きつ戻りつ、
やがて自ら腐っていく。
“これじゃあ、死ぬために生きているっていうことになるじゃない”
気を取り直し、ユウ子は次の回答に目をやった。
〈死んだら天国。
それまでこの世で自分の魂を磨くのが人生じゃないかな〉
最近はやりの「スピリチュアル何とか」だろうか。
なるほど、この世は修行の場といわれれば
「苦しみにも意味があった」と
少しは慰められるかもしれない。
でも、とユウ子は思う。
死んで本当に天国に行けるのだろうか。
結局死んでみなければ分からないのではなかろうか。
とすれば、生きているうちはどんなに頑張っても、
やっぱり不安を抱えていることになる。
これまでの人生を振り返って、
不真面目に生きてきたつもりもないが、
魂を磨いたかと言われれば、とてもそんな自信はない。
むしろ自分の死について考えると、
ユウ子は暗い気持ちになるばかりだった。
小学生のころは、死ぬのが怖くて眠れなかった。
死んで天国に行けるとは、無邪気に思えそうもない。

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ひととおり読み終え、ユウ子は大きくため息をついた。
「やっぱり答えなんて分かんないか」

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数日後の昼休み。
「ユウ子さん、そんなこと考えてたんだ」
「らしくないでしょ」
休憩室で打ち明けるユウ子に、
同僚は思いがけない言葉を口にした。
「僕、仏教を学んでいるんですよ」
「えっ?」
彼は穏やかな口調で言った。
仏教には、人生の目的が教えられています。
ちょうど、近くで勉強会があるんですけど、
よかったら参加してみませんか
それは「聞法のつどい」という名の、
仏教入門講座だと彼は説明した。
「仏教・・・・」。
遠い記憶を呼び覚まされるような懐かしい響き。
“お釈迦さまの教えよね。聞いてみようかな”と、
素直に思った。

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週末、会場近くのコーヒー・ショップで
2人は待ち合わせることにした。
イチョウ並木が、もうすっかり街を秋色に染めていた。
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●生きる目的

人は何のために生まれ、生きているのでしょう。
なぜ、苦しくても自殺してはならないのか。
すべての人にとって、これほど知りたいことはないでしょう。
生きるということは、歩くことや走ること、泳ぐことや、
飛行機でいえば飛ぶことと同じです。
毎日が飛ぶように過ぎていきます。
この間年が明けたと思ったら、もう11月。
私たちは、昨日から今日、今日から明日へと、
ものすごいスピードで進んでいます。
では一体、どこへ向かってでしょうか。
一休は、
「門松は 冥土の旅の 一里塚
 めでたくもあり めでたくもなし」
と歌っています。
冥土とは死後の世界のこと。
一日生きたということは、
一日死に近づいたということですから、
人生は、死へと向かっての行進であり、
「冥土への旅」といえるでしょう。
年が明けると皆「おめでとう」「おめでとう」と言いますが、
一年たったということは、
それだけ大きく死に近づいたということです。
元旦は冥土の旅の一里塚に違いありません。
私たちは、去年から今年、今年から来年へと、
どんどん歩き、走り、泳ぎ、
飛んでいるのです。
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だれでも、歩く時も、走る時も、
一番大事なのは「目的地」です。
目的なしに歩いたら、歩き倒れあるのみだからです。
ゴールなしに走り続けるランナーは、走り倒れあるのみです。
行く先を知らず飛んでいる飛行機は、墜落あるのみです。
「あそこがゴールだ」と、ハッキリしていてこそ、
頑張って走ることができます。
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「あの島まで泳ごう」と、目的地に泳ぎ着いてはじめて、
「ここまで泳いできてよかった」と、
一生懸命泳いできた満足があるのです。
では、私たちの生きる目的は何でしょうか。
目的を知らずに生きるのは、死ぬために生きるようなもの。
死を待つだけの生ならば、苦しむための一生に終わるでしょう。
私たちは決して苦しむために生まれてきたのではありません。
生きているのでもありません。
人生の目的を知り、達成し、「人間に生まれてよかった!」と、
心からの満足を得るために生きているのではありませんか。
その最も大切な「生きる目的」を
ハッキリと明示してくださったのが、
約800年前、日本にお生まれになった親鸞聖人です。
主著『教行信証』の冒頭に記された、
聖人の言葉をお聞きしてみましょう。

難思の弘誓は難度の海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり
“人生の目的は、難度海を度する大船に乗ることである”

●難度海とは

ここで聖人が「難度海」といわれているのは、
私たちの人生のことです。
「難度」とは、渡ることが難しい、苦しいということです。
だから、「苦海」ともいわれます。
「生死の苦海ほとりなし」(親鸞聖人)
生きることは本当に大変ですね。
もし皆さんが、見渡す限り水平線しか見えない
海の真ん中にいたら、
どうでしょうか。
例えば、海水浴に来て一人波間に浮かんでいるうちに
沖へ流された。
水面からの視点では、
時にわずかな距離でも陸地を見失うこともある。
慌てて戻ろうとしても、どちらへ向かえばいいか、分からない。
じっとしていれば沈んでしまいますから、
泳がなければなりません。
では、どこへ向かって泳ぐか。
方角がきちんと定まらなければ、
泳げば泳ぐだけ岸から遠ざかることになりかねません。
体力には限りがある。
やみくもに泳げば、それだけ早く泳ぎ疲れて
土左衛門になると思うと、
とても力強く泳げません。
私たちは、生まれた時にそんな海に
放り込まれたのだとはいえないでしょうか。
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今にもおぼれかける我々に、
懸命に泳ぎ方のコーチをしているのが、
政治、経済、科学、医学、倫理、道徳、
スポーツなどといえましょう。
しかし、肝心の「泳ぐ方角」は、だれも教えてくれません。
ただ、
「人生は 食て寝て起きて 糞たれて
子は親となる 子は親となる」
一休さんの言うとおりです。
ビジネスマンなら朝起きて、
満員電車に揺られながらの通勤は、
まさに“痛勤”。
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クタクタに疲れて帰ると、すぐ朝が来る。
毎日は決まった行動の繰り返しで過ぎていきます。
「生きてきて本当によかった」という満足がなく、
来る日も来る日も、「食べて寝て起きて」の反復ならば、
水平線しか見えない海の中を泳いでいるのと同じ。
泳ぐ手に力が入るはずがありません。
しかもこの海には、苦しみの波が、次から次へとやって来ます。
病苦、肉親との別れ、不慮の事故、家庭や職場での人間関係、
借金の重荷、老後の不安。
一つの波を乗り越えて、やれやれと思う間もなく、
別の波がやってくる。
高波にのまれて、おぼれかかっている人、
溺死する人もあります。
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一年前、「美しい国」を目指して華々しく発足した安倍政権も、
年金記録漏れ問題、閣僚の相次ぐ失言や不祥事、
参院選での与党大敗の大波にのまれ、あえなく転覆しました。
(平成19年のとどろきより載せています)
また今年は、訪問介護大手コムスンの不正をきっかけに
介護問題について
改めて考えさせられた人も多いでしょう。
昨年も、こんなやりきれないニュースがありました。

事件は2月1日早朝。
永年、献身的に認知症の母を介護してきた京都市の男性が、
追い詰められた末に母親を殺害し、自殺を図ったのです。
初公判での陳述によれば、男性の父親は10年ほど前に死亡。
その後、母に認知症の症状が出始め、
男性は一人で介護していました。
しかし母の症状は次第に悪化し、
男性は仕事を辞めざるをえなくなります。
ところが、失業給付金などを理由に生活保護は認められず、
平成17年12月には、頼みの失業保険給付もストップしました。
次の仕事も見つからぬまま、カードローンは限度額いっぱい、
デイケア費や家賃も払えない状況に追い込まれた男性は、
1月31日、ついに心中を決意。
最後に車いすの母と京都市内を観光し、
桂川河川敷の遊歩道で、
「もう生きられへん。ここで終わりやで」
と言うと、
母親は、「そうか、あかんか。一緒やで」と答えたといいます。
「すまんな」
それが最後の言葉となりました。
(検察側は)「『母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい』
という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、
刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、
法定は静まり返った」と新聞は、
裁判の様子を伝えています。

作家の林芙美子さんは、
「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」
と言い残し、
夏目漱石は、
「人間は生きて苦しむための動物かも知れない」と、
妻への手紙に書いています。
これらの嘆きの声を聞くまでもなく、
「人生は苦なり」
の2600年前のお釈迦さまの金言に、皆、
うなずいているのではないでしょうか。
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一見、楽しげに見える人もありますが、
「ただ見れば 何の苦もなき水鳥の
足にひまなき わが思いかな」(水戸光圀)
の歌のとおり、人もうらやむ才能や地位、
名声を得ていても、本人しか分からぬ悩みを
皆抱えているようです。
社長であれ、著名人であれ、えっ、あの人が、
と思うような人が自ら命を絶ち、
驚かされることしばしばです。
生きることが大変なので、
私たちは何かにすがらずにいられません。
そこで近くに浮遊する丸太や板切れにすがろうとします。
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●丸太や板切れ

丸太や板切れとは、お金や財産、地位や名誉、
健康、恋人、結婚、
子供、マイホームなどを例えたものです。
これらを手に入れて少しでも楽になりたいと皆、
懸命に追い求めています。
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ところが、つかんでやれやれと安堵したのもつかの間、
くるりと丸太がひっくり返り、潮水のんでまた苦しめられる。
これらの幸せは、しばらくの間しか続かないのです。
「いい時」は続かない。
これまでを振り返ってみて、どうでしょうか。
離婚して泣いているのは、
結婚という丸太に裏切られたからです。
わが子に疎まれ悲しむのは、
子供という丸太の裏切りでしょう。
株の投資に失敗し、
お金に裏切られて苦しんでいる人もあります。
「こんな小さな丸太じゃだめだ。もっと大きなものを」
と思って、再び死に物狂いで泳ぎ、
もう少し大きめの丸太をつかんでも、
所詮は浮いたものですから、
やはり、くるりと回転して裏切られます。
一流企業に就職し、バリバリ働いていても、
突然の解雇、左遷の憂き目に遭うこともあるでしょう。

永年、大手スーパー・ダイエーの最前線で活躍してきた
松下登さんの
体験手記を7月号に紹介したところ、
多くの反響がありました。

「24時間、年中無休の精神で飛び回り、
結果、11年に及ぶ単身赴任で家族との生活も犠牲にしました。
もちろん人生を振り返る余裕などありません。
ただ年月が飛ぶように過ぎていったのです。
そんな3年前のある日、
それまでずっと感じていた仕事への充実感が
一気に吹き飛ぶ出来事が起きたのです。
リストラでした。
突然、『役職者に対し、新たに一律の定年を設ける』
という社内通達が突きつけられました。
役職にある者は、退職金を得て会社を去るか、
一従業員として会社に残るか、の選択に迫られたのです。
事実上の解雇通告です。
“会社のために身体を壊すほど頑張った。
家庭も犠牲にしたし、休日も返上して働いてきた。
オレはもっと力を発揮できるはずなのに、何で・・・?”
必死に貢献してきたという自負と、
その会社に裏切られた苦しみやむなしさを感じながら、
退職を選びました。
“冷たいなぁ”目の前の現実を受け止められない日が続き、
自分のことを分かってもらいたい気持ちで苦しみました」

難度海の例えが身にしみたと、
松下さんは語っておられます。

もし人生に目的がなければ、
人は苦しむために生きているようなものでしょう。
仕事や家庭に裏切られ、健康すらも失い、
最後はすべてに裏切られ、
健康すらも失い、最後はすべてに見放され、たった一人、
暗い海底に沈んでいかねばなりません。
「苦より苦に入り、冥(やみ)より冥に入る」(釈尊)
それは求める丸太が悪いからでも、
求め方が足りないからでもない。
変わらない本当の幸せを知らないからです。
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●大きな船

何かにすがっては裏切られ、苦しんでいる私たちに、
親鸞聖人は「絶対に壊れない大きな船があるんだよ」
と教えられています。

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「難思の弘誓は、難度海を度する大船」
苦しみの波の果てしない海を、明るく楽しく渡す大船がある。
この大船に乗ることこそ人生の目的である”
「難思の弘誓」とは何でしょう。
「難思」とは想像もできない、
「弘誓」とは素晴らしい誓いということで、
これは阿弥陀仏の本願のことです。
この本願の船に乗ったならば、
裏切りのない「絶対の幸福」になれるのです。
親鸞聖人は、その世界を、「無碍の一道」と
『歎異抄』に言われています。
そしてこの船は、弥陀の浄土へ往く大船ですから、
乗船すれば、いつ死んでも浄土往生間違いない身に
ハッキリ定まります。
まっ暗がりの人生が、光明輝く浄土への楽しい航海に、
ものの見事に大転換、
「人間に生まれてよかった!
この身になるために人生だったのか」
と、人生の目的がここで鮮やかに知らされるのです。
親鸞聖人は、29歳の時、この大船に乗ったぞ!と告白され、
800年後の私たちに声を限りと叫んでおられるのです。
「おーい、人生を明るく楽しく渡す大きな船があるぞー!
早く、乗ってくれよ」と。

●人生の目的

それは、
“決して裏切らない幸福”
講演を聞きながら、
ユウ子は自分のたどってきた道のりを思い出していた。
厳しかった父。いじめに遭った中学時代。
7年間つきあった彼との別れ。
初めて女性管理職に抜擢された喜び。
振り返れば、夢のようだ。
丸太や板切れにすがっては裏切られ、
私はどこへ向かっているのだろう。
この先、どんなものを手にしようが、きっと同じに違いない。
「人生に目的がある。難度海を度する大船がある。
絶対変わらない幸福がある」
親鸞聖人の断言が、うれしかった。

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終了後、同僚が言った。
「生きるって、確かに大変ですよね。
でも、生きる目的を知った人の苦労は、
必ず報われる苦労です。
だからお釈迦さまは、
『生きる目的を知らずに100年生きるより、
人生の目的に向かって一日生きるほうが、
はるかに優れている』
と言われているんですよ」
うなずきながら、ユウ子は答えた。
「何か少し、分かりかけてきた気がするわ。
それで一つ聞きたいんだけど、
この船にはどうすれば乗れるの?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(体験手記)
ため息の人生に
   サヨナラ
泳ぐ方向が分かった

愛知県 岩水 清子さん(仮名)
  「人生は苦しみの海」という例え話に引かれ
仏法を聞くようになりました。

人間関係や仕事のちょっとしたトラブルで、
つらいと思うことがよくありました。
カッコいい生き方しているねと言われたいのに、
現実はささいなことで苦しんでいる。
ため息ばかりの毎日が嫌でした。
現状を打破したくて、最初は占いや風水にはまりました。
“黄色いものを西に置けばお金が入る”
などと言われるとおりにしても、
これといった変化はありません。
運を当てにするのではなく、もっと自分の能力を高め、
心を変えれば生きやすくなるのでは、と思うようになりました。
心理学や自己啓発について
インターネットで調べるようになったのです。
“プラス思考ですべてがうまくいく”
“イメージトレーニングで思い描いたとおりの人生を”。
ホームページには、魅力的な文字が並びます。
これはと思うものは何でも試してみました。
ところが、前向きに考えて一時は心が軽くなったように思っても、
後から嫌なことが次々と起き、ため息の生活に逆戻り。
イメージトレーニングも、
具体的な将来の夢がなければ思い描くことができません。
何かが違う、もっといいものがあるはず、
と納得の行くものを探し続けました。
ある日、いつものようにホームページを調べていると、
なぜ生きる」という言葉が目に留まりました。
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「なぜ生きる?そんなの考えたことないし」と思いつつ、
なぜかボタンをクリック。
すると画面いっぱいに文章が出てきて、面食らいました。
しかしその中に「幸福」の二文字を見つけたのです。
これを読まないと、この先ずっと幸せになれない気がして、
冒頭からじっくりと読み始めました。
そこに書かれていたのが、
親鸞聖人の教えられた「海のたとえ」だったのです。
次から次へと来る苦難の波に、何かにすがろうと、
海面に浮かぶ丸太や板切れを懸命に求める。
やっとつかんだと思ってもクルリと裏切られて
潮水のんでまた苦しむ。
丸太や板切れとは、お金や地位、
健康や恋人のことと書かれていました。
えっ、今まで苦労して手に入れようとしてきたものは、
みんな丸太や板切れなの?
釈然としない気持ちでしたが、文章の終わりにあった
「永遠に崩れることのない絶対の幸福の身になれる。
それが生きる目的です」
という言葉に引かれ、
ホームページの作者にメールを送ることにしました。
「本当の幸せになりたいですか?その答えは仏教にあります」
の返信に、とても驚いたのを覚えています。
その後2、3回メールのやり取りをして、
勧められた仏教講座に足を運んでみました。
意外にも同年代の女性が多く、
「皆人生を真面目に考えているんだ」と感心しました。
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親鸞聖人のお名前も知らなかった私が、
み教えを聞かせていただくようになり3年がたちます。
だれもが幸せになりたいのに、
その答えを聖人が明らかにされていると知らないから、
丸太や板切れがすべてとしか考えられません。
私も機会を見つけて、友人たちに仏教の話をしています。
 

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