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生まれて来たのは、極楽へ渡す弥陀の大船に乗るため! [親鸞聖人]

親が子を虐待し、子が親を殺める。
自殺幇助で稼ぐ者やら、
遊ぶ金欲しさに簡単に強盗殺人を犯す少年。
目を覆うような事件が、報道されない日はありません。


「いのちは尊い」
と、どれだけ連呼されても、
「私なんかガラクタ」
としか感じられないのは、
「なぜ、尊いのか」
分からないからでしょう。


深い闇にさまよう私たちに、
生命の尊厳を明示された方が、
世界の光といわれる親鸞聖人です。


「生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける」


今回は、このお言葉に、
真のいのちの輝きをお聞きしましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生死の苦海ほとりなし


     ーーー空と水しか見えない海に
            放り出されたら、どうしますか?


初めに「生死の苦海」と言われているのは、
私たちの人生のことです。
人の一生は、苦しみの波の絶えない海に、
おぼれ沈んでいるようなものだと、
親鸞聖人は「生死の苦海」と言われています。
「生死」とは仏教で苦しみのこと、
「ほとりなし」とは、果てしないことですから、
「生死の苦海ほとりなし」
とは、人生は苦しみの連続である、と言われているお言葉です。

この世にオギャッと生まれたのは、例えれば、
太平洋の真ん中に放り出されたようなもの。
見えるのは水と空だけとしたら、どうするでしょう。

泳がねば沈んでしまいますから、泳ぎますが、
では、どこへ向かってでしょうか。
島も陸もない。船も見えないのに。

やみくもに泳げば泳ぐほど、陸地や船の方角と反対に進み、
努力が無駄になることもあります。

泳ぐ前に、まずハッキリさせるべきなのは、島がどこにあるのか。
陸地はどこか。船のある方角でしょう。

そこへ向かって泳いでこそ、泳ぐことに意味があり、
「ここまで泳いできてよかった」
と、泳いだ苦労が報われる時が来るのです。

生きる時に一番の大事は、どこへ向かって生きるのか。
「人生の目的」です。

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生きるために、生きるのか


「生きるために生きるのだ」
という言葉に、勇気づけられる人もあるでしょう。
「あなたは生きている、それだけで意味があるんだよ」
と言われれば、救われた気になります。
しかし本当に、それでいいでしょうか。
「何のために勉強しているのですか」
と聞かれて、
「希望の大学に合格するためです」
という答えなら理解できますが、
「勉強するために勉強しています」
では、意味不明です。
「なぜダンス教室に通っているの」
と尋ねて、
「あのステキな先生と踊れるから」
ならわかりますが、
「通うために、通っている」
では、トートロジー(同意語反復)で、
何も言っていないのと同じです。
「生きるために生きる」のは、ちょっと考えれば、
言葉の意味からもおかしいと、誰でも分かるでしょう。
「泳ぐために泳ぐ」

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「とにかく一生懸命泳げばいい」
では、やがて体力尽きて溺死するだけであるように、
生きる方角を知らず
「生きるために生きる」ようなもの。
死ぬほどつらいことはない、と言うように、
私たちが最も恐れ嫌う「死」に向かって生きるのは、
「苦しむために生きる」ことになってしまします。
それでいいと、どうして言えるでしょうか。

ところが、地球上に今、70億人の人がいても、
「まず生きることが大切なんだ」
と、誰も「人生の目的」を問題にせず、知ろうともしていません。
「自殺はダメだ」
と声高に叫んでいる識者も、
「なぜですか」
の素朴な疑問に、納得できる答えを示してはくれません。

それどころか、著名人の自死を賛美する始末。
不可解というほかありませんが、
「人生の目的なんか、考えても分からない」
と、アキラメているのではないでしょうか。


●目的と手段は違う


「いや、私の人生には目的がある。そこに向かって生きている」
という人もあります。
仕事、恋愛、お金、地位、名声、家庭、健康、旅行、趣味・・・などを、
それぞれ「人生の目的」と思ってのことでしょう。
確かにこれらは、それなりの喜びや満足を
与えてくれるに違いありません。
ドキドキ、ワクワク、興奮を味わえることもありますが、
どれだけ続くでしょう。
「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜、
不変の満足が得られるでしょうか。
死ぬまで求めても、「求まった」と達成した喜びの、
ないものばかりではないでしょうか。


世界中で、自殺者が絶えません。
ノーベル賞受賞の優秀な人たちも、生涯、
豊かな生活が保証された人も、それでも自ら命を絶つ。
色々な事情があるでしょうが、間違いなくいえるのは、
「幸せではなかったから」でしょう。
ノーベル賞も、人生究極の目的とはいえないようです。
金や財産、地位や名誉、趣味や健康、
これらは「生きる目的」ではなく、
生きるための「手段」。
この「目的」と「手段」の違いを知らず、
混同しているところに、
まことの幸せになれぬ根本原因があるのだと、
親鸞聖人は明言されています。

例えば、お金は使うためにある。
儲けて増やすこと自体が、目的では決してありません。
問題は、お金をどんな目的に使うか、です。
ところが、この平凡な真理に気づかない人が意外に多い。
目的と手段を履き違え、「金を使う」のではなく、
「金に使われる」奴隷になる人が少なくありません。
詐欺も偽装も収賄も、
そのために起きる事件とは言えないでしょうか。


では「生きる目的」と「手段」を、なぜ混同してしまうのでしょう。
真の「人生の目的」を知らないからだと、
親鸞聖人はおっしゃっているのです。


生きる実態は


「生きる」とは、こういうことだと、一休はいいます。

「人生は
食て寝て起きて糞たれて
子は親となる
  子は親となる」

社長だ、教授だ、ニートだ、といっても、
立って半畳、寝て一畳。
基本的にやっていることは、布団の上げ下げであり、
台所とトイレの往復です。
毎日同じことの繰り返しで、代わり映えのしない日常が、
どこまでも続いていく。

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そのうち、どこで覚えたやら子を生み親となり、
やがてその子もまた親となる。
これが「生きる」実態だ、の指摘は、
とても否定できません。
しかも、いつまでも生きておれるのではないと、
一休はまた、

「世の中の
娘が嫁と 花咲いて
嬶としぼんで
 婆と散りゆく」

とも、人生の裸形(らぎょう)を露出します。

女性で一番良い時が、娘時代。
だから娘と言う字は、女偏に良いと書く。
娘が結婚して家に入ると、嫁になる。
嫁さんが、子供を生みますと嬶という。
「女は弱し、されど母は強し」といわれるように、
新婚当時はおしとやかでも、
お母さんになると鼻が高くなりますので、
女偏に鼻と書く。
嬶の次はお婆さん。
額に波が寄ってきますので、女の上に波と書くのだそうです。
これが女性の一生ですが、男性でも呼び名が違うだけで、
すべて同じコースをたどります。
何十億の人がいても、例外なし。
いつまでも娘ではいられませんし、
お婆さんが娘に戻ることはできませんね。
「この間まで自分は娘だと思っていたのに、
もう息子が嫁をもらって孫ができた。
いやぁ、月日のたつのは早いなぁ」
と言っているように、女は、娘から嫁、嫁から嬶、お婆さんへと、
どんどんどんどん進んでいく。

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一休が「婆と散りゆく」と言っているのは、
そうしてみんな死んでいくからです。
その間、歓楽哀情、悲喜こもごもでしょうが、
作家の林芙美子さんは、

「花の命は短くて
苦しきことのみ多かりき」

と歌っています。

医学によって、たとえ10年、20年、寿命が延びたとしても、
あっという間。
一秒に地球を7周り半進む光の速さでも、
百何十億年かかる、という大宇宙の生命に比べれば、
人生80年といっても瞬きする間もありません。
花のように儚い命、一体、何のために生まれてきたのでしょうか。
それが分からぬままの人生の結末では、
悲しすぎます。

これほどの問題が、ほかにあるでしょうか。
地球温暖化、核の拡散、原油価格の高騰、
医療崩壊、鳥インフルエンザ・・・
早急に対処すべき事柄が山のようにあっても、
根底にあるのは「死」の不安です。
あらゆる人間によって、死ぬこと以上の大問題はないから、
これを仏教で「生死の一大事」といわれるのです。

死後は、
  どうなっている?

さて、死んだその先は有るのか、無いのか、
どうなっているのでしょうか。

現代人の多くは、「死んだ後は何も無くなる」と言い、
それを「科学的態度」だと自負しています。
では、わが子や親が死んでも、
「一個体としての生命化学反応が、
止まっただけ」
と割り切れるでしょうか。

「燃焼したら骨と皮。成分のほとんどはカルシウムである」
などと、火葬場で冷静に分析していられるはずがない。

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物質でない何かが、どこかに残っているとしか思えないから、
「千の風になった」と思いたいし、
「冥福」を祈らずにおれないのです。
「冥福」とは「冥土の幸福」のことで、
「冥土」は死後のこと。
故人に向かって
「静かにお眠りください」
「安らかに成仏してください」
と、「死後の幸せ」を願うことを「冥福」を祈るという。
「慰霊」も同じで、死者の霊を慰める行為です。
これらは、死んだ後が有り、
しかも、苦しいのではなかろうかと思うからこそ、
せずにいられないのです。

では、私が死んだらどうなるのか。
死後はあるのか、無いのか、有るとしたら、
どんな状態であるのか。
いずれでも、ハッキリすれば安心できるのですが、
ただ、ぼんやりしています。
この「死んだらどうなるのか、ハッキリしない心」を、
仏教で「無明の闇」といわれ、この
「死後に暗い心」こそが、
人間の苦しみの根元なのだと、
親鸞聖人は断言されているのです。

●「死んだら死んだ時」か?

こんな大きな問題なのに、その「死」を誰も見ようとしない。
避けているのは、どうしたことでしょう。

「未来のことより、今が大事だからさ」
とまことしやかに答える人が、
しっかり「老後」のために貯蓄する。
「年金はどうなる」「介護はどうする」
というのも、老後の問題。
やがて行く道だから、準備せずにいられないのでしょう。
若くして死ぬ人には、老後はありませんが、
死ぬのは百パーセント確実。

とすると、「有るやら無いやら分からない老後」のことは
心配して準備しているのに、
「百パーセント確実な死」は誰も問題にしていない、
ということになります。

火災保険でも、火事には滅多に遭わないが、
それでも、もしもの時のために加入する。
「万が一」の火災になら真剣に対処しているのに、
「万が万」訪れる「死」は想定外に押しやっているのは、
おかしくないでしょうか。

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日頃は“論理一貫性”を重んじながら、です。
「そんなこと考えたって、どうなるもんじゃないよ」
「死んだら死んだ時だ」
と、アキラメてるのでしょう。
何のためにこの世に来たか、死んでどこへ行くのか、
来し方行く末も分からず、悩み絶えない私たちの人生を、
親鸞聖人は、
「生死の苦海ほとりなし」
と言われ、それはこの世の50年や100年の間だけではなく、
果てしない過去からさまよい続けてきたことを、
「久しく沈めるわれら」
とおっしゃっているのです。


弥陀の本願まこと
      親鸞聖人の証言

「生死の苦海ほとりなし
ひさしく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける」

そんな古今東西の全人類を、
「弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける」
と、次に宣言されています。

「弥陀弘誓」とは、
「阿弥陀仏の本願」のこと。
「阿弥陀仏」とは、大宇宙に無数にまします
仏方(三世十方の諸仏)の先生であり、
指導者の仏さまなのだと、蓮如上人は、
「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり」
             (御文章)
と教えられています。
「本願」とは、誓願ともいわれ、
分かりやすくいうと約束のことですから、
「阿弥陀仏の本願」とは、
本師本仏の阿弥陀仏のなされているお約束のことです。
その内容を、一言で申しますと、

「どんな人をも
    必ず助ける
       絶対の幸福に」

というものです。
私たちの知っている幸せは、
海に浮かぶ丸太ん棒や板切れのように、
やがてひっくり返って必ず裏切る、
金や財、地位名誉などの「相対の幸福」です。
だから不安から離れられない私たちを、
永遠に崩れない「絶対の幸福」に救い摂ってみせる、
という凄い約束
ですから、
親鸞聖人はその「阿弥陀仏の本願」を、
苦海を楽しく渡す船に例えて「弥陀弘誓の船」と言われたのです。

しかも、全く阿弥陀仏のお力によって、
乗せていただく船だから、「乗って」でなく
「乗せて」と言われ、「かならずわたしける」とは、
苦悩の根元である無明の闇をぶち破り、
“いつ死んでも浄土往き間違いない”
大安心の身に救い摂ってくだされるのだ、
ということです。
乗船には時間はかかりません。
何十億分の一秒よりも短い「一念」。
その一念で、弥陀弘誓の船に乗せられた体験を親鸞聖人は、

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」
             (教行信証)
“弥陀の本願まことだった。絶対の幸福、本当だった”

と証言され、有名な『歎異抄』の冒頭には、

「『弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて
往生をば遂ぐるなり』と信じて
『念仏申さん』と思いたつ心の発(おこ)るとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり」
と仰せられています。
「摂取不捨の利益」とは、
“ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福”のこと。
生きてよし、死んでよし、こんなもの凄い世界があるぞ、
このための人生だから命は無限に尊いのだ、
早くこの弥陀の大船に乗ってまことの幸せになってくれよ、
と今も聖人は叫び続けておられるのです。


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