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弥陀に救われるためには、聞き開かねばならない! [極楽に往生するには]

4通りの「きく」とは

誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

       (親鸞聖人・教行信証)

まことだった!本当だった。
弥陀の救いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、
この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
親鸞聖人が「まことだった!」と言われている
「摂取不捨の真言」とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。
それは、十方諸仏の本師本仏である阿弥陀仏が、
本当に願っていられる御心で、
“どんな人も必ず、絶対の幸福(往生一定)に救う”
お約束です。
弥陀の願いに背を向けて逃げ回っている私たちをどこまでも
追いかけ、追い詰めて、“無上の幸せに摂め取って捨てぬ”
という弥陀の真実のお言葉ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」と言われています。

大宇宙に2つとない大誓願だから、
「超世希有の正法」とも称されます。

この阿弥陀仏の救いにあずかる道はただ一つ。
「聞思して遅慮することなかれ」と親鸞聖人は明言されています。
「聞思」とは「聴聞」。
「聴」も「聞」も、ともに「きく」ということです。

●4通りの「きく」

一口に「きく」といいましても、次のように、
四通りあると教えられます。

①聞き閉じる
②聞き流す
③聞き覚える
④聞き開く

最初の「聞き閉じる」人とは、
尊い法を聞かせていただきながら、
ボーッとしたり、居眠り半分になってしまい、
休憩時の世間話は元気いっぱいでも、
説法が再開するとまた眠くなるような人です。
聞法しながらも他のことばかり考え、
ただ体が座っているだけ、
という人も同じこと。
湯のみに例えるならば、引っくり返った状態で、
どれだけ高級なお茶を注いでも、はじいてばかり。
このように、心を閉じて、法が入っていかないのは、
「聞き閉じる」きき方です。

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次が「聞き流す」人。
漫然と聞いて、少しも心に聞きとどめようとしない人です。
「覚えてこいとはおっしゃらん」
と忘れるのを自慢げに語る人さえあります。
また、「それも聞いた」「これも知ってる」「この話は3回目だ」
と、粗末に聞く人も同様です。
世間でも、「『分かったつもり症候群』に注意!」といわれる。
この症状につける薬は幾つかありますが、
「聞いたことを、誰かに分けるように説明してみる」
「学んだことを実践に移す」
の2つがお勧めです。
“分かったつもり”でも、
いざ他人に話そうとすると「あれ、これは何の例えだったかな」
「話がつながらなくなった」「このお言葉、どう説明されてたかな」
と、驚くほど聞けていないものです。
話が空中分解したり、2時間かけて聞いた話を
説明すると5分で終わってしまったという経験は
誰にでもあるのではないでしょうか。
同じ話を、常に初事として聞き求めねばならぬのが仏法と、
蓮如上人は、こう、戒めておられます。

人は珍しい話、変わった話を聞きたがるが、
何度、同じことを聴聞しても、
初事と聞かなければならない

一つことを幾度聴聞申すとも、珍しく、
はじめたるようにあるべきなり

         (御一代記聞書)

珍しい話を聞きたい心は、敵。
弥陀の御心一つ分からないから助からないのです。
皮相をなめただけで、分かった気になり、
仏法を軽く見ていては、信仰は進みません。

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三番目は「聞き覚える」人。
親鸞聖人の教えを真剣に聞いて、理解しよう、
覚えようとする人です。
他人事と流さず、教えの通りに忠実に実践しようと
努める人でもあります。
「分かったことは、実行すること」
どれだけ物知りになっても、
仏教で勧められる挨拶すらしない人は、
「聞き流している」と言われてもしかたないでしょう。

頭でっかちになって相手を見下し、
批評や批判ばかりでは足元がおろそかになり、
つまずいて転んでしまいます。
「和顔愛語」を「わがおあいご」と間違って読んだ人に、
「こんな言葉も読めんのか!」と、
恐ろしい形相でとげとげしく注意をしていた人がありましたが、
そんな時こそ、笑顔で優しい言葉をかける
「和顔愛語」を実践してほしいもの。
真実の教えを一つでも覚え、理解し、
できることから実行しようとする努力が尊いのです。
しかし、ここでとどまってしまっては、また大変。
覚えたのが他力の信心ではない。
他人に話せるようになったのが、
弥陀の救いではありません。
分かろう、分かろうとするのは「分かって助かろう」
としている自力の心です。
いろんな知識を増やすための聞法では、
いつまでたっても助かりません。

どれだけ合点を積み重ね、理解を深めても、
それで極楽往生はできません。

あながちにもろもろの聖教を読み、
物を知りたりというとも、
一念の信心の謂(いわれ)を知らざる人は徒事なりと知るべし

             (御文章五帖目二通)
一切の聖教は、私たちに弥陀の救いを知らせ、
一念の信心を獲させるために書き残されたものですから、
大いに学び、教えの理解を深めねばならないのは当然です。
しかし、どれだけ詳しく聖教を学び、知識を増やしたとしても、
一念の信心を獲得し、弥陀の救いにあわねば、
弥陀の浄土へは往けませんよ、
と蓮如上人は戒められているのです。

●弥陀の本願「聞き開く」

最後の、「聞き開く」とは、
「弥陀の本願まことだった」と聞いたことをいいます。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し
               (教行信証信巻)

阿弥陀仏の本願に“疑心あることなし”と聞く、
一念の信心のことです。


こんな話があります。
中国へ出張中のこと。
風邪を引いてしまった。
いつもなら持参の薬を3日ものめばスッキリ治ったのに、
中国のウイルスは違うのか、
一週間のんでも咳が止まらず苦しんだ。
そんな時、「中国の風邪の特効薬だ」
と同僚が赤い小箱を持参した。
聞いたことも見たこともない薬を手にして、
“本当に効くのかな”と疑いながらのんでみた。
ところがなんと翌日、ウソのように症状が消えているではないか。
一気に「特効薬だった」と疑いが晴れたという。

もう一つ疑い晴れる例。
飛行機が乱気流に突っ込んで激しく振動し、
しばしば機長のアナウンスが流れる。
「大丈夫です。ご安心ください」
それでも起きる不安や疑心は、
無事着陸した時に消滅する。
「助ける」という約束に対する疑いは、
「助かった時」に破れます。
「与える」という約束の疑いは、「受け取った時」に無くなる。
“摂取不捨の利益(絶対の幸福)を与える”
という弥陀の約束(本願)への疑いは、
「摂取不捨の利益」を私が受け取った時に晴れるのです。

このように、弥陀の本願(誓願)に
露チリほどの疑いもなくなった「聞」を、
「聞き開いた」といいます。

しかも聖人は、ただ「疑心なし」とは言われずに
「疑心あることなし」と言い表されています。
一体「疑心なし」と「疑心あることなし」とは、
どう異なるのでしょうか。
例えば友人に、
「百万円、貸してくれないか」
と頼んだ時、
「とんでもない、百万円などオレにはないよ」
と断られた。
こんな友人なら5年か10年後には、
ひょっとしたら借りられるかもしれません。
今はなくても、その友人に将来、
どんな大きな収入があるか分からないからです。
しかし、「オレに百万円なんか、あることなしだ」
と断られたら、何十年たっても可能性はゼロとなります。
「あることなし」では、永久に「ありっこない」のですから
「なし」とは大違い。
「弥陀の本願に疑心あることなし」と聞き開いた人は、
金輪際、本願に疑いが出てくることは二度とありません。

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●聞き開けば“こころは浄土に遊ぶ”

聞き開いた一念に、弥陀の本願どおり絶対の幸福に救われ、
いつ死んでも極楽参り間違いない身にさせていただけます。

親鸞聖人は、こう和讃されています。

超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり

       (帖外和讃)
「弥陀の本願まことだった」と聞き開き、
絶対の幸福に救い摂られた時から我々は、
迷いの人間ではなくなるのだ。

欲や怒りの煩悩は少しも変わらないままで、
心は弥陀の浄土へ往って遊んでいるように、
明るく愉快である

超世の悲願とは、世の常識を超えた、
大慈悲の弥陀の本願のことで
「超世希有の正法」ともいわれます。
その本願に疑い晴れたことを
「超世の悲願ききしより」と言われています。
これは、聞き開いた、「ききし」です。
弥陀の本願、聞き開くと「生死の凡夫かは」、
迷いの人間ではなくなる。

では、迷いの衆生でなくなったのならば、
何が変わって何が変わらないのか。
「有漏の穢身はかわらねど」の有漏の穢身とは、
欲や怒りの煩悩に汚れた肉体のことですから、
弥陀に救われても、我々の煩悩は全く変わらないのです。
救われたら、少しは煩悩が減るのだろうと、
誰しも思うでしょうが、そうではありません。
弥陀の救済は、煩悩あるがまま。

煩悩具足の凡夫が、弥陀の正客です。
煩悩が変わらないままで救われたら、
では何が大変わりするのか。
親鸞聖人は「こころは浄土にあそぶなり」と言われています。
欲や怒りの煩悩は、減りも無くなりもしないままで体験できる、
驚くべき幸福のあることを、
「煩悩いっぱい変わらぬままで、親鸞は、
極楽浄土へ往って遊んでいるように、明るく愉快なのだ」
という一大宣言です。

●『真宗宗歌』にも

『真宗宗歌』には、こう歌われています。

ふかきみ法にあいまつる 身の幸何にたとうべき
ひたすら道をききひらき まことのみむねいただかん

「ふかきみ法(のり)」とは、
釈尊の説きたもうた阿弥陀仏の本願のこと。
古来、幾多の宗教がありましても、
人生究極の目的を説き切り、
万人を真実の幸福に導くみ教えは、
仏教以外にありません。

しかし、深い仏縁がなければ、弥陀の本願という大法には遇えない。

稀にも受け難きは人身、値い難きは仏法なり。
如来の本願に値いたてまつらずは、いたずらごとなり。
然るに、今既にわれら弘願の一法(弥陀の本願)に
遇うことを得たり
               (御文章三帖目四通)
生まれ難い人間に生まれ、
聞き難い仏法に巡り遇えたことは、
どれほど喜んでも足らない、
蓮如上人は仰せです。

無二の深法に巡り遇えたこの上は、
“雨風雪はもののかずかは”
と聞き求めずにはおれません。
「ひたすら道をききひらき まことのみむねいただかん」
阿弥陀仏の本願を聞き開いたならば、
まことの南無阿弥陀仏を一念に賜り、
大安心、大満足に生かされます。
その身になるには、「聞く一つ」。

山に籠もって修行したり、断食したり、
座禅を組んで助かるのではありません。

「仏教は聴聞に極まる」
ほかに道なし、であります。

ここで四通りの「聞き方」をおさらいしてみましょう。

①聞き閉じる
②聞き流す
③聞き覚える
④聞き開く

最終目的は、「聞き開く」。
知った覚えた、の合点でとどまっていてはなりません。
まずは一歩踏み出してみましょう。

聞法の場へ足を運んで親鸞聖人のみ教えを
真剣に聞かせていただくことが、浄土への第一歩です。


 


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