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弥陀の救いは「破闇満願」 [南無阿弥陀仏]


誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

        (親鸞聖人・教行信証総序)

まことだった!本当だった。
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
ここで親鸞聖人が「摂取不捨の真言」と言われているのは、
「阿弥陀仏の本願」のことであると、
繰り返し述べてきました。
大宇宙にガンジス川の砂の数ほどまします
諸仏方の師・阿弥陀仏が誓われたお約束
で、
『歎異抄』冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。
それは、
どんな人も 必ず絶対の幸福(往生一定)に救う
という誓いです。
善人も悪人も、老若男女問わず、
絶対の幸福にガチッと摂め取って捨てぬ、
という弥陀の真実のお言葉
ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」と言われているのです。
この阿弥陀仏の救いを表した仏語が「破闇満願」です。
「破闇」とは、闇を破ること。
闇とは、「阿弥陀仏の本願を疑っている心」であり、
「疑情」といわれます。

この「疑情」こそが、苦悩の根元であると親鸞聖人は
『正信偈』に、こう教えられています。

還来生死輪転家  生死輪転の家に還来することは、
決以疑情為所止  決するに疑情を以て所止と為す

「生死輪転」とは、「流転輪廻」ともいわれ、
安心、満足というゴールのない円周を、
際限もなく回り続け苦しんでいるさま。

私たちは家を離れて生きられないように、
苦しみから離れ切れず、迷い続けているので、
「生死輪転の家」といわれているのです。

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「還来」は、生死輪転(際限ない苦悩)の家を
行ったり来たりすることですから、
「終わりなき苦しみ」を表しています。
「生死輪転の家に還来することは」
とは、一言で、
「人生を苦に染める元凶は何か」
ということであり、親鸞聖人は、
次のように一言で答えておられます。
「決するに、疑情を以て所止と為す」
「決するに」とは、「これ一つ」という強い言葉。
「疑情ひとつ」が苦悩の根元であるとの断言であります。

●苦悩の根元、疑情とは?

「苦悩の根元は、これひとつ」と断定される「疑情」とは、
「阿弥陀仏の本願を疑う心」です。

命懸けであなたを助けようと力尽くされている阿弥陀仏に、
「絶対の幸福なんて、あるのだろうか」
「阿弥陀仏は本当に私を救ってくださるのか」
「欲を起こしたり、腹立つ心を減らさないと、
助けてもらえないのだろう」
と、疑っている心が、疑情です。
この心一つが流転の元凶であり、
「無明業障という恐ろしい病」
とも言われます。

無始よりこのかたの、無明業障の恐ろしき病
           (御文章二帖目十三通)

誰もが幸せを求めながら、
なぜ、心から生きる喜びが味わえないのか。
何をどれだけ手に入れても本当の幸福になれないのは、
「無明業障」という心の病にかかっているからだと、
蓮如上人は明らかにされています。

「心の病」といっても、
心療内科などで診断されるものではありません。
治療する精神科医も、自覚なしにかかっている病です。
この病気にかかっていない人は一人もありませんが、
これは、仏教をよくよく聞かなければ毛頭分かりません。

●無明業障の病が恐ろしい二つの理由

無明業障の病が「恐ろしい」といわれる理由が二つあります。
○三世を迷わす苦悩の根元だから。
○自覚症状がないから。

一つ目の理由からお話しましょう。
この病は、「無始よりこのかた」と言われますように、
始めのない始め、過去無量劫からの魂の病です。
それは未来永劫にわたる大問題でもあります。
ですから蓮如上人は「無明業障の病」を『御文章』に、
「三世の業障」とも言われています。

闇=疑情=無明業障の恐ろしき病=三世の業障

「三世の業障」とは、三世を通し、私を苦しめているもの。
「三世」とは、過去世・未来世のことで、私たち一人一人に、
人間として生まれる前の過去世、今生きている現在世、
死んだ後の未来世あるのだよと、
仏教では教えられます。
年でいえば、去年なしに今年はないし、
今年なしの来年もありえない。

去年の今頃何があったのか、たとえ忘れてしまっても、
なかったのではない。
必ず、過去があって現在があり、未来へと続くのです。
おととい食べた物さえすっかり忘れている私たちは、
人間に生まれる前の過去世など知る由もありませんが、
釈尊は厳然と三世の実在を説かれています。
肉体の苦しみなら、せいぜい百年ほどですが、
「三世の業障」は、生まれる前から現在も、
そして死んだ後も苦しめる、全人類の永遠の生命の病なのです。
この「三世の業障・無明業障の恐ろしき病」を
治せる方はおられるのでしょうか。
蓮如上人は、こう仰せです。

ありがたの弥陀の光明や。
この光明の縁に値いたてまつらずは、
無始よりこのかたの、無明業障の恐ろしき病の
癒る(なおる)ということは、
更に以てあるべからあるものなり。

          (御文章二帖目十三通)

阿弥陀仏のお力(光明)によらなければ、
無明業障の恐ろしき病が治ることは絶対にないと教えられます。
無明業障の病を治せる方は、
大医王であられる阿弥陀仏しかましまさぬのです。

阿弥陀仏は、私たちを無明業障の病から
何とかして助けようとして、
南無阿弥陀仏という大妙薬をつくられました。

すべての人は、阿弥陀仏のつくられた、
この南無阿弥陀仏の妙薬を賜った一念で全快し、
絶対の幸福に救われます。

一念とは、一秒よりも短い時で、
時剋の極促をいいます。
蓮如上人は、
阿弥陀仏から、南無阿弥陀仏の大功徳を与えていただいた一念に、
過去、現在、未来の三世を通して苦しめる
無明業障の恐ろしき病は全快し、
同時に、絶対の幸福(正定聚・等正覚)に救われるのだ

と、こう教えておられます。

この大功徳(南無阿弥陀仏)を、
一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に
廻向(与える)しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位(絶対の幸福)また等正覚の位なんどに
定まるものなり

                (御文章五帖目六通)

「南無阿弥陀仏」には、私たちの苦悩の根元を、
一念で断ち切るものすごい力がある。

その大功徳は人間の想像を絶すると蓮如上人は、
こう説かれています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

             (御文章五帖目十三通)

まず、蓮如上人は、
「たった六字の南無阿弥陀仏に、そんなに功徳や、
効能があるとは誰も思えないだろう」
と言われています。
読経でも、短いものより長いほうがありがたく感じるもの。
ましてや、たった六字だけでは心もとなく思えてしまう。
そんな迷いの心をお見通しの上で、こう続けられます。
だが、南無阿弥陀仏の六字には、
最高無上、甚だ深い功徳がおさまっているのだ。
仰げば果てしなく高く、底を見れば深さが知れぬ。
名号六字の大功徳は広大無辺で極まりがない

偉大な「南無阿弥陀仏」の価値が分からないのは、
猫に小判、豚に真珠で、
私たちに名号の値を知る知恵がないからです。
正しい知恵を持たれたお釈迦さまや、
親鸞聖人、蓮如上人からすれば、
大宇宙の万善万徳がおさまっていることは明らか。

ですから、お釈迦さまは、
「『南無阿弥陀仏』の大功徳は、
何憶年かかっても説き尽くせない」と言われ

親鸞聖人は、『正信偈』に「南無阿弥陀仏」を
「功徳の大宝海(大きな宝の海)」と言われています。
そんなすごい大功徳だからこそ、
三世にわたる苦悩の根元を一念で解決できる。
無明業障の恐ろしき病(三世の業障)を治す特効薬、
それが「南無阿弥陀仏」なのです。

●ハッキリする救い

この特効薬は、阿弥陀仏が与えてくださいますから、
「我等衆生に廻向しまします」と言われています。
「廻向」とは、「与える」という意味です。
南無阿弥陀仏の大妙薬を頂いた一念、
病は全快し、同時に正定聚(絶対の幸福)の身になります。
正定聚とは、「必ず仏になれる身」のことです。
いつ死んでも極楽往生に往って、
仏に生まれることがハッキリしますので、
往生一定とか往生治定ともいわれます。

阿弥陀仏の願いは、
私たちを正定聚(絶対の幸福)にすること以外にありませんから、
正定聚になった時、阿弥陀仏の願いが私たちの身の上に満たされます。
これを「満願」といいます。

○闇を破る(破闇)
=疑情を晴らす=無明業障の病(三世の業障)を全快させる
○願いを満たす(満願)
=正定聚(等正覚)にする=往生一定(往生治定)にする

このように「疑情を晴らし正定聚にしてみせる」
という弥陀の願いが、私たち(衆生)の身の上に満たされたことを、
「破闇満願」というのです。

私たちは苦しむために生まれてきたのでもなければ、
生きているのでもない。
「なぜ生きる」の答えは「破闇満願の身になるため」
一つです。

私たちは、そのために生き、働いています。
政治も経済も科学も医学も全ては、このためにあるのです。

苦しみの根元「疑情」を一念で晴らし、
この世から未来永遠に変わらぬ幸福を与える教えが仏教なのです。

●自覚症状なき病

無明業障の病が「恐ろしい」といわれるもう一つの理由は、
自覚症状がないからです。

肉体でも、自覚症状がない病は恐ろしいもの。
例えば、高血圧には自覚症状がほとんどなく、
放置する人が少なくありません。
しかし、長く続くと、負担のかかる血管や臓器に
さまざまな合併症を起し、命に危険を及ぼします。
「ガン」も、自覚症状がないことが多くあります。
特に肝臓は痛点がなく「沈黙の臓器」と呼ばれ、
気づいた時には手遅れというケースをしばしば耳にします。
早期発見・早期治療がなされれば治る病も、
自覚症状がないと手遅れになります。
同じように無明業障の病も(疑情)も自覚がありません。
まだまだ死なない、何とかしたら何とかなれると
思っている間は無明の病も分からず、
医者も薬も問題になりません。

「無明業障の病を治してくださる方は、
大宇宙に弥陀一仏のみ」「その特効薬が南無阿弥陀仏ですよ」
と勧める言葉も耳に入らない。

仏教の結論・一向専念無量寿仏
(「阿弥陀仏一仏を信じよ」という釈迦の金言)
も自分とは関係ないと思っているのです。

それがいよいよ心の臨終になると分かってきます。
念々に迫る無常に驚き、地獄一定の罪悪が知らされてくると、
後生の一大事助かりたい、という心があらわになり、
弥陀一仏に向くのです。

そして、南無阿弥陀仏を賜った一念に、
疑情(本願を疑っている心)がぶち破られ、
無明業障の恐ろしき病が全快、
この病を治せる方は、弥陀よりほかになかった、
薬は、「南無阿弥陀仏」以外になかったと明らかに知らされて、
「誠なるかなや、弥陀の本願」とハッキリするのです。

●どうすれば破闇満願の身になれるか

では、どうすれば破闇満願の身になれるのでしょうか。
親鸞聖人
聞思して遅慮することなかれ」。
仏教を聴聞(聞思)しなさいとご教示くださいます。
蓮如上人も、こう指南されています。

陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は
早く開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。
かように宿善も遅速あり。
されば已・今・当の往生あり。
弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、
遅く開くる人もあり。
兎に角に信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞するべきなり
                 (御一代記聞書)

陽の当たるところの花は速く咲き、
日陰の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、
弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。
聞法を怠れば日陰の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明に遇っても、
救われるのが速い人と遅い人があるのは、
人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、
ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

一日も早く、破闇満願の身となり、
生命の大歓喜がわき上がるまで、聞法精進いたしましょう。


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